独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

【期末雑感⑨】卒業式で学生たちが語った「自由」

2017-06-29 15:56:38 | 日記
汕頭大学卒業式で毎年、李嘉誠名誉主席が行うスピーチには、特別の思いがある。学生たちもそれを感じ、敬意を表する。会場は割れんばかりの拍手に包まれる。







彼は地元の広東省潮汕出身だ。1939年、11歳のときに家族とともに香港に移住した。同年は日本軍が統治を占領した年である。

広東、福建には家を継ぐ子どもこそ財産だという伝統観念が強い。中原の都から離れ、自立自活せざるを得なかった歴史的背景がある。官僚にとっては左遷の地だった。土地が狭く貧しいため、人々はやむなく海を越えて外に出た。だから華僑の故郷である。鄧小平の改革開放政策は、この海外ネットワークを利用した。経済特区が南方に生まれたのはこのためだ。大学図書館には鄧小平と李嘉誠が面会している写真が掲示されている。鄧小平が揮ごうした「汕頭大学」の書も飾ってある。改革開放の原点を象徴する図だ。

家の跡継ぎを重んじる伝統観念は、多産と同時に男尊女卑の風潮を生む。この地に一人っ子は少ない。国策よりも家の存続こそ重要なのだ。子どもを大切にすることは、教育の重視につながる。華僑が海外から送ってくる寄付金は、祖先を祭る廟の維持のほか、子弟の奨学金に回される。李嘉誠氏が故郷に大学を作ったことは、地元の伝統文化、風俗習慣にかなったものだ。そのうえ規模がけた違いに大きい。当然のことながら、彼は地元で絶大な尊敬を集めている。大学のほか附属病院をつくり、橋の建設にまで私財を投じている。

祖国の教育に貢献した華僑の例としては、シンガポールで財をなし、故郷の福建省アモイにアモイ大学を創設した陳嘉庚氏が知られている。陳氏は孫文の革命事業を支援し、中華人民共和国建国後は全国政治協商会議副主席も務めた。

李嘉誠氏が大学創設にかけたスローガンは、「自我を打ち立て、無我を求める」である。独立の気風はここから生まれている。卒業式では大スクリーンに、卒業生が思い出のひと言を語る映像が流されたが、目立ったのが「自由」だった。多数の外国人教師を受け入れ、毎年、海外で学生の取材ツアーを行っている新聞学院は、中国国内でもほかに例がない。李嘉誠氏のバックアップがなければ到底なし得ない。

数か月前、米メリーランド大学で中国人留学生が、米国で体験した言論の自由をたたえ、自由のない中国を空気の汚染にたとえて揶揄したことが話題になった。汕頭大学に関する限り、実際の空気も自由な気風も、そこまで悲観することはない。だが、近年の思想イデオロギー統制で、学生や教師たちが少しずつ息苦しさを感じ始めているのは事実だ。「昔はよかった」とこぼす教師もいる。

秋の党大会を控え、地方官僚たちがびくびくしているのなら理解できる。だがこうした緊張状態が長く続くのは望ましくない。70年末から改革開放も、閉鎖経済体制を打ち破る南方の独立精神が起爆剤となった。産業構造の高度化を担うソフトパワーも、自由な起業精神がなければ育たない。南方にまで官僚臭い空気が伝わってくるようでは心配だ。そうした空気を一番敏感に感じているのは若者たちである。






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【期末雑感⑧】香港一の富豪が卒業式に語った「to be」

2017-06-28 13:28:46 | 日記
昨日27日は汕頭大学の卒業式だった。博士、院生を含め卒業生約2200人とその家族らが参加した。毎年の目玉は香港一の富豪として知られる同大創設者で名誉主席の李嘉誠氏による記念スピーチと、来賓の著名人だ。今年のゲストはノーベル文学賞作家の莫言(モー・イェン)だった。

莫言の祝辞は「ハーバード大学を出たからといって優秀なわけじゃない。ビル・ゲイツも最初からすごかったわけじゃない」とあまりにも通俗的で、学生たちからの評判は悪かった。私も大いに落胆させられたが、知人に聞くと「もともと俗人なんだよ」とあっさりスルーされた。わざわざ卒業式の権威づけのため、体制べったりの莫言を呼んだことに対し、自由を愛する汕頭大学らしくないとの批判もあった。









その反面、学生だけではなく、ネットでも称賛されたのが李嘉誠氏のスピーチだった。李嘉誠氏は毎年、同大の卒業式に出席している。だが、もう90歳になる彼は、移動も、演説も重い負担がかかるので、おそらく今回が最後になるのではないかとささやかれている。今回、特別に次男を同行したのも憶測を強めた。2017年卒業式は、それだけに大きな意義を持っている。





スピーチのテーマには彼独特の人生観が反映されていた。愚かな者は目先の利益にとらわれ、時代の大きな流れを知らない。だから、あくせく働くしかない。だが、賢い者は、何かをしようと考えるのではなく、いかにあるべきかと発願する。仏教の教えを取り入れた処世訓である。

意味の取りにくい難解な個所もあるが、以下、主要部分を日本語に訳する。

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私は来年90歳になる。高い志は持っているが、時間のはかなさも知っている。若いころは多くの苦難を経験し、成長の過程が容易でないことを知っている。大きな成長を遂げるチャンスの大波の中で、

「愚人見石、智者見泉」(愚かな者は目の前にある石しか見ないが、賢い者は、その奥隠れているより重要な泉を見る)。



しきたりにこだわって逡巡していては、頭も働かず、何も感じられず、人工知能の時代に取り残される。この大波を乗りこなす基本的な姿勢には、時々刻々、状況に機敏に対応し、即座に理解し、判断することが求められる。さらに、独立した思考と悟りの力を持ち、想像、データ、情報を運用し、組み合わせて新たなものを生み出さなければならない。

愚かな者は”ため(to do)”を知っているだけだが、賢い者は”ため(to do)”を”かくある(to be)”に変える。この”発願”はいかにして身につけ、世の中でどのように用いるべきなのか?

愚かな者はしばしば恨みやつらみを抱え、”ルールでがんじがらめになっているのは、やむを得なくそうなったのだ”と言い訳し、世俗に縛られ、息もできない。彼らは、”スタートラインで勝つ”ことを渇望し、金持ちの父親がいて、天から授かった優位があればよいと願う。”人が道を切り開く”、つまり複雑な社会の仕組みや、どうすることもできないゆがみを変えようとするのは荷が重すぎると考え、”道が人を切り開く”という生き方の方が、より気楽だと考える。

こうした気持ちの人は、すでに”スタートラインで負けている”のである。伝統的な中国人の知恵では、命と運は相互にかかわり、すべてのものを有し、同時に無一物でもある。”よき選択”を理解して初めて、自分の運命の保証を作り出すことができる。運命の勝者が思い描くDNAの組み合わせは、科学の知恵と芸術の精神の組み合わせであり、他者から抜きん出るためには隠れた才能を磨く必要がある。性格の基礎は意志の力であり、自律の堅持と創造の潜在的な力がバランスよく合わさり、喧騒から心を放つ処世術を身につけることができる。

自律は、たゆまぬ努力を堅持する意志の働きだ。偉大な舞踏家は毎日鏡に向かい、それでいて自分にうぬぼれることがない。疲れを厭わず、苦痛を恐れず、何度も何度も完璧な身のこなしの美を追い求め、テクニックを自分のものとする。舞台に上がるや、体が自然に動いて、思い通りの表現が実現されるのである。





私は今日、どうして舞踏のスクリーンを背景に選んだのか?。アイルランドの劇作家、ウィリアム・バトラー・イェイツが、絶妙な問いを発している。“踊っている者の中からどうやって真のバレリーナを探し出すか?”。舞踏家は個性や魅力によって観衆を魅了し、一瞬の中に永遠を凝縮する。芸術は人生を映し出し、人々は芸術の啓発、感化を受けて、困難や極限を乗り越え、さらに高い水準を追求し、無限の可能性を切り開くことができる。

最後に、私はみなさんに、去年、汕頭大学のある教師と対話した内容を紹介したい。私が、長年にわたりたゆまず学生を育ててくれたことに感謝すると、その教師は、王陽明の言葉を引用し、“千人の聖人もやがてはみな去っていく。良知こそ私の師である”と述べた。良知は尊厳をもたらし、存在意義を照らし出す明かりである。

学生諸君、これからの道を、君たちは発願によって突破しなければならない。私は知っている。君たちが謙虚で、恩を感じながら、自信と想像力をもって開放的な、さらに進歩した世界を追い求め、思いやりに満ちた社会を築き、本当の舞踏家になることができる、と。今日、君たちは汕頭大学のために誇りを感じ、明日は汕頭大学が君たちによって栄誉を受ける。卒業おめでとう!みなさん、ありがとう!

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2017年6月27日
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【期末雑感⑦】卒業コンサートはジブリ・オンパレード

2017-06-26 23:50:36 | 日記
今日午後3時から汕頭大学の新体育スタジアムで大学主催の卒業記念コンサートが開かれた。アモイから来たオーケストラだという。詳細はよくわからないのだが、タイトルは「『天空の城ラピュタ』から『風立ちぬ』まで 久石譲映画音楽30年記念オーケストラ演奏家」となっていた。中国の若者はみな宮崎駿監督のジブリ映画を観て、音楽にも親しんでいる。だから作曲家、久石譲の名もよく知っている。



1986年の『ラピュタ』から始まって、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』、『崖の上のポニョ』、『風立ちぬ』まで、途中で、女性歌手の日本語による歌も3曲挿入された。アンコールは『猫の恩返し』で、会場から手拍子が起きた。数千を収容する体育スタジアムはほぼ満席。演奏が始まると会場いっぱいにアニメの画像が展示され、みなが記憶をたどりながら耳を傾けた。

著作権のことをとやかく言うのはやめておく。演奏中、携帯で撮影、録音し、映像まで撮るマナー違反も目立ったが、気にしないことにしよう。数千人の中国人学生たちと一緒に、日本のアニメ映画音楽を楽しみ、日本語の歌を聞いた経験だけでもう十分感無量だ。


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【期末雑感⑥】”観察と感受”が通うワームホールの道

2017-06-26 13:45:20 | 日記
ある女子学生は期末課題に「二つの夏」と題する一文を寄せた。メディア論の核心は、いかに外部の環境から有益な情報を受け取り、いかに正しい世界観を構築するかにある。その答えを、彼女は身近な問答を通じて探索した。

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--みんなの理想的な夏の生活はどんなもの?

私は二人の友だちに聞いてみる。

「山小屋の前に小川が流れていて、時々釣りをしたり、畑に入って食材を採ったり、一番いいのは料理の得意な人がいて、三食を一緒に作ること。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。ふだんは部屋にいて音楽を聴き、本を読み、絵を描き、ギターを弾き、したいことをする。携帯もパソコンもなくて、一、二週間に一回は自転車に乗って海辺に行く」

「海の近く、必ず海の近くに住んで、それも竹で編んだ家で、一匹のネコかイヌだけがそばにいる。いつもは海辺でエビを採ったり、魚を捕まえたり、時には水上バイクで海の上を走る。寝たいときに寝て、目が覚めるまで寝ている。家には電気製品はなくて、自分で三食煮炊きをする」

--じゃあ、実際の夏の生活はどう?

「バイト、テレビ、エアコンで睡眠」

「いつもと同じ、エアコンの生活」

--夏を連想させるのはどんなもの?

「エアコン、スイカ、みんなの薄着」

「汗、スイカ、みんなの薄着」

私は彼女たちの答えに驚かない。なぜなら、夏の生活に対する理想と現実の差は、家庭環境によって決まるもので、自分の力ではどうにもならないから。ただ、三つ目の質問に対する答えには疑問が湧く。理想の夏の生活は大自然に接することだ。実際には手の届かないものであっても、それならどうしてふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補おうとしないのか。

彼女たちは特別な事例ではない。多くの人は理想の夏と現実の夏を交わらない世界に置いて、前者は精神の中に、後者は大脳の中にあると思っている。二つの世界の間を行き来するワームホール (wormhole=時空をつなぐ虫食い穴)がなければ、差異は大きく、縮めることはできない。人々は”二つの夏”を過ごしていても、個人には大きな影響がない。”二つの夏”の大きな落差に耐えかねて異常な行動に出たという話も聞いたことがない。

でも、人は”夏の生活”についてだけ二つの交わらない世界を持っているというのだろうか?

”夏の生活”を”仕事””暇な時間””友人との時間”など日常の活動に置き換えても、人々は二つの問いに対して同じような”大きな差異”の法則を見出すことになる。日常生活全体が交わらない二つの世界から成っているとすれば、精神と大脳は完全に隔離されたままの状態に置かれる。

こうした隔離状態は、確かに空虚ではなく、第一に退廃文化(喪文化)の表れである。ネットには”無意味な生””希望喪失”などの顔文字が流行り、テレビドラマを見てもそうしした人間の表情が登場する。第二に”先延ばし病”だ。仕事の締め切りまでまだたっぷり時間はあるのに、手を付けようとせず、気楽で楽しいことばかりを追いかける。そして、やがてもうすぐ手に負えなくなる、あるいはもうすでに手に負えない段階になってようやく取り掛かる。この緊張状態をやり過ごすと、新たな任務を引き受け、また同じことを繰り返す。

退廃文化の本質は、個人の精神と大脳が長期にわたって隔離された状態のユーモアであり、交わることのない二つの世界を確認するだけで、何の変革も生み出さない。
一方、先延ばし病は、二つの交わらない世界を変えようとするが、そのやり方が焦って目先の利益を求めるだけなので、根本に触れることはない。

精神と大脳の距離を近づけ、二つの交わらない世界の差異を縮めるための根本は、両者の間に設けられた、長期に安定したワームホールなのだ。まさに冒頭で触れたように、理想的な夏の生活は大自然に親しむことであって、現実には難しい。それならば、ふだんから大自然を観察し、感受し、現実のやるせなさを補えばよいではないか。

”ふだんの観察と感受”こそ、交わることのない二つの夏の世界をつなぐワームホールである。この二つの世界に対し、ワームホールはこうしてわずかでも心が求めるままに振る舞うことができ、複雑な現実に振り回された時には、自分の心の中にある熱情を守ってくれる。

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彼女は両親が働いているため、ほとんど祖父に育てられた。その祖父が亡くなったショックで、一時、授業にも出られなくなったが、しっかり立ち直った。強さと、優しさをもって目を外に向けられるようなった成長がうれしい。「観察と感受」は、ネットの虚偽空間に慣れきった現代人にとって、貴重な警句である。彼女の言葉の一部は、授業でも紹介し、みなの共感を得た。

今日は学内の卒業記念コンサートで、ジブリの「天空の城」と「風たちぬ」が演奏される。知り合いの先生がせっかくだからと、私に貴重なチケットを一枚回してくれた。大人気でチケットの奪い合いになっている。



(続)


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【期末雑感⑤】同性愛論を通じて探る教室の身分関係

2017-06-25 10:56:12 | 日記
中国のある大学で昨年、実際に起きた事件である。だがなお若者たちの心には深く刻まれている。だから期末課題のテーマ「身辺の出来事を報じる」にも複数、昨年の事件に触れた記事があった。

社会科学の理論課程で、学生が同性愛に対する社会の認識について発表をした。学生が、同性愛者に対する社会の不理解を指摘し、弱者としての立場を強調すると、教師はいきなり話を打ち切らせ、壇上から降りるよう命じた。教師は、「同性愛は自然の法則に反し、同性愛の婚姻を認めることは反社会的だ」と言って譲らなかった。

学生たちはSNSで不満をもらし、それが拡散して学内に広まった。同性愛に対する見解の是非ではない。偏った意見に固執し、異なる意見を一切認めず、教師の権力をかざして学生に専制を強いる、そのやり方が問題なのだ、と。人格を侮辱し、学問の自由を侵し、礼節に反し、人道主義にももとるものだ、と。学生の声が力を得て、教師は結局、公開の学内サイトで謝罪を迫られた。「自分の考えは改めない」との前置きがあったが。

中国では小中高を通じ、教師の権威は非常に高い。親たちも、教師ににらまれたら進学に不利なので、ことのほか気を遣う。人質に取られたようなものだ。教師への過剰な贈答が「教育腐敗」として社会問題化するのはこうした背景がある。教師もその権威を利用し、生徒の前で居丈高に振る舞う。成績の悪い子を問答無用に切り捨てることも厭わない。進学率は教師の考課に直結する。子どもたちは服従を強いられ、教師を畏怖する対象として崇める。教師と生徒の間には深い溝ができる。

権威の裏付けがない権力は、監視されにくい状況の中で、抑制がきかなくなる。特に、人望がなく、権威の薄れた教師は、権力を振りかざすことによってしか、自分の存在感を示すことができない。そして、専横が助長される。子どもたちはこれまで、教師の不当な権力行使にも黙って従うしかなかった。だが、SNSの発達は権力をけん制する力をもたらした。

期末課題で昨年の事件を問題視した女子学生の一人は、授業でも「メディアにおける同性愛者に対する偏見」のテーマで研究発表をしたが、実は、こうした教師に対する不満の表明でもあったことを、私は後で知った。彼女の期末ペーパーには最後にこう書かかれていた。

「自由な意見表明の場を与えてくれたことに感謝します。小さな火でも明かりになります。自由な気持ちをもって生きれば、明日はもっと明るくなる」

まっさらな学生たちの目は、こんなふうに教師を、社会を凝視している。私は、学生たちの目の奥底から、こちらの腹の底を探るような視線を感じることがある。意見を押し付け、反対意見に耳を貸さない大人の態度は、圧政の象徴となる。それでなくとも、身の回りは言論や思想の規制に縛られているのだ。警戒心は非常に強い。自由や権利、性の問題は、押さえつけられているほど、その反作用が大きい。インターネットは、すでに閉鎖的な言論空間を打破してしまった。情報を封鎖し、思想をかごに押し込める旧式の手法はもはや通用しない。

彼女たちは、学生と同じ目線で接し、対等に議論し、そのうえで、視野を広げてくれる存在を求めている。長い間、かごの中に閉じ込められた小鳥が、外の世界に飛び立つのをとても怖がっている。かごの中で従順にいるほうが、不自由なりに安全なのではないか。いったん外に出たら、迷子になって、見知らぬ外敵に食い散らされてしまうのではないか。そんな不安を抱えている。恐る恐る、かごから飛び立つすべを探しているのだ。

一クラス30人の学生を前にして、常に肝に銘じていることがある。彼ら、彼女らの目の奥に、単一な社会で育ったわれわれには想像のつなかい複雑な社会が広がっていることだ。目の前に座っているのはまだ20前後の若者だが、私が向き合っているのはこの社会そのものなのだ。社会の実情をしっかり把握しなければ、学生一人一人を理解することもできない。

今日は卒業生たちとの記念撮影があった。まだ就職の決まっていない学生もいる。働き始め、すでに給料を手にしている者もいる。すべての者に幸多からんことを!







(続)

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