行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

試練を迎えた新聞学院の新学期

2018-09-14 15:49:25 | 日記
2か月余りの夏休みを終え、汕頭大学に戻った。新入生を迎える準備で大忙しだ。亜熱帯地方で日差しが厳しいが、下から横からと熱気に包まれる東京の暑さに比べれば、緑が多い分、過ごしやすい。







東京では連日、自宅近くの図書館に通い、新学期の準備をした。中国の新聞学院(ジャーナリズム学部)は本来、記者養成の機関だが、メディア環境の変化によって、存在意義が問われ、生き残りの試練に立たされている。教師は学生以上に学ばなければ取り残されてしまう。

中国共産党は剣(軍事)と同様に、ペン(宣伝工作)を重んじ、その伝統が今に引き継がれている。「党の喉と舌」となる人材を育てる新聞学院は、非常に高い位置を与えられた。中国の主要大学にはもれなく新聞学院が設置され、様々な報道機関に人材を輩出してきた。

だが、インターネットの発展によって新聞やテレビといった伝統的メディアの足元がぐらついている。いまだにメディアが戦時体制の寡占状態に守られている日本とは異なり、中国は市場化の進み方が激しく、紙媒体は続々と淘汰されている。新聞学院でももはや紙の新聞を目にすることはない。

日本ではしばしば、党や政府の意向を代弁した中国メディアの報道が伝えられるが、実を言うと、そうした官製報道を目にしている学生はほとんどいない。新聞購読者は皆無で、みな携帯のSNSを通じて多種多様なニュースに接し、時には自ら発信者となっている。

こうした双方向の情報受発信が一般化するにつれ、従来の記者像に大きな変化が起きるのは避けられない。伝統的メディアは就業の機会も減り、そもそも希望者が激減している。待遇も決してよくはなく、業界の発展も望めない。新聞学院の試練もそこから来ている。6月の卒業と同時に新聞社に就職した卒業生からは、早くも不動産業界に転職したとの知らせが届いた。
 
集権化を徹底させる習近平政権は、当然のことながら言論・イデオロギー統制も強化しており、「党の喉と舌」を担う官製メディアの画一化が際立つ。簡単に言えば、新聞は『人民日報』、通信社は『新華社通信』、テレビは『中国中央テレビ(CCTV)』のそれぞれ1社があれば十分だ、ということになる。あとのメディアは、せいぜい補助の役割しか担わされない。ネットに進出しても、ニュースはもうからないので、多数のアクセス数を稼ぐことのできる娯楽性の強い映像が幅を利かせる。専門性は度外視されるので、記者の就業機会が狭まるのはやむを得ない。

こうした情勢を受け、各大学の新聞学院は、伝統的な記者養成のカリキュラムを変更し、ネットでのニュース発信を想定した「新媒体(ニューメディア)」学科を増設している。御多分に漏れず、私が籍を置く広東省の汕頭大学新聞学院でも、従来のジャーナリズム、映像、広告の各学科に加え、「インターネット・ニューメディア学科」が誕生した。募集枠もいきなりジャーナリズム学科を超えた。

では、学生はどこに就職するのか。教師は何を教えればよいのか。

実は新聞学院の就職率はトップクラスに入るほどよい。従来のメディアだけでなく、ネット業界から企業の広報部門、教育機関まで、重宝されている。文章が書け、コミュニケーション能力があり、問題意識も高いとの評価が定着している。

だが、学生やその両親からすると、「新聞(=ニュース)」の名前はあまりにも古く響き、理系のほか、法学部や経済学部の方に目が行ってしまう。確かに、将来記者になるつもりのない学生たちに、記事作成やインタビューの技術を教えても、興味がわかないのは当然だ。文章、交流、洞察の能力を高める伝統的新聞教育の核心部分は大事にしながらも、時代の変化に応じた変革をしなければ、業界とともに学界も衰退していくしかない。

学部内での会議ではしばしば、伝統派と革新派が激しく対立する。育った年代の差でもある。そして最後は、大学とはなにか、なにを教える場なのか、という論点に帰結する。就職にすぐ役立つ技術を教えるだけでは、専門学校と同じではないのか。実際、単位は3年で履修し、4年目はインターンシップに追われる現状を見る限り、その指摘も外れてはいない。

大学教育の定義は、人によって千差万別で、義務教育のような指導要領があるわけではない。要は教師が全身全霊を捧げ、自己の理想とする学びを実践する場なのだ。私はといえば、異なる文化と経験を学生と分かち合いながら、メディア、ニュースといった身近なキーワードを通して、自分を見つめ、周囲との関係を問いただし、独自の社会観、世界観、ひいては人生観を模索すること、を教育の柱としている。

主体と客体を明確に分け、情報伝達を刺激と反応として機械的にとらえる従来のコミュニケーションモデルはもう古い。個人を機械の歯車の一つとして扱う大衆理論は、インターネット空間の分析にふさわしくない。心と脳、身体を分離するデカルト以来の二元論ももはや時代遅れだ。

人は独立、孤立しているのではなく、周囲の環境と不可分に存在している。客観的に、機械的に情報を受発信しているのではく、主観的に情報をやり取りしている。理性と同時に感情や無意識の役割にも気を配らなければ、自分はなにか、という問いにも答えが出せない。

人工知能(AI)がますます進歩し、人間の知能を超えるのではないかといわれる。だからこそ、長い進化の中で生まれた身体の役割をもっと深く認識しなければならない。ネットをはじめARやVRなど、バーチャルな空間が拡大しているからこそ、現場にいることを実感する身体の意義は重い。
AI研究をはじめ、脳神経学、生物学、認知科学、情報工学、進化心理学、行動経済学など、各学問領域の成果を大胆に取り込み、過度に専門化した学術界の弊害を取り除かなければならない。

新聞学院は、読んで字のごとく「新しく聞いたもの」を扱う。それはニュースに限らない。厳格な専門分野を持たず、雑多だからこそ、学際的な役割を担うのにふさわしい。私の夏休みの課題はまさにこの点にあった。前学期は、ロボット3原則にならってAI5原則を起草したが、今学期はこの内容をさらに深め、2・0版に挑んでみようと思う。