独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

私にとっての読売新聞とは③

2017-07-31 08:31:28 | 日記
読売新聞の体質については、拙著『習近平暗殺計画 スクープななぜ潰されたか』でも触れたので、以下、該当部分を抜粋する。私は読売新聞の青田買い入社面接で、当時の人事部長に「どうして読売を選んだのか」と聞かれ、「御社出身の本田靖春さんにあこがれて」と答えた。本田靖春氏は読売新聞社会部、ニューヨーク支局など16年間在籍した後、辞職してノンフィクション作家になり、代表作の『不当逮捕』(1983年)では読売に批判的な立場を取った。私は地雷を踏んでしまったわけで、人事部長から「これからは個人ではなく組織の時代だよ。個人の朝日、組織の読売とも言うんだ」とクギを刺された。スター記者を育てていく朝日新聞に対し、読売新聞は組織の力で勝負するということだった。

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1955年から14年間、読売新聞社会部に在籍した本田靖春氏は『不当逮捕』の中で、「正力松太郎の社長就任(1924年)に始まる発展期に、東京の江東地区を中心とする庶民階層に主として支えられた読売は、社会面を売り物にして来た」と書き、「理由はともかく、上司に反抗した新人が咎めを受けず、かえって不服従を慫慂する雰囲気があった。そういう気風が社会部の戦闘力の源泉だったのである」と駆け出し記者時代を振り返った。

私が社会部にいたのはそれから約40年後だが、「読売は社会面で持っている」との認識は部内で共有されていた。先輩記者からはしばしば「庶民感情が肌でわかるようにならなければ、一人前の社会部記者じゃない」と説教を受けた。本田氏は同書の講談社文庫版(1986年発行)に寄せたあとがきで、新聞社の「管理体制の強化」や新聞記者の「サラリーマン化」を指摘し、知る権利を支える言論の自由が弱まっていることを危惧した。その弱体化傾向は今に至るまで続いているが、私が社会部在籍中はまだ伝統の片鱗が感じられた。同業他社の読売新聞に対する評価もまだ、事件報道にとことんこだわる記者集団とのイメージが残っていた。いい意味で煙たがられる存在だった。

読売新聞は週刊誌やスポーツ紙の影響で、渡辺恒雄主筆のワンマン経営ぶりばかりが目立っているが、主筆自身が本来、政治部の特ダネ記者であり、紙価を高めるスクープに否定的なはずがない。世界最大発行部数の新聞編集を一人で率いているとイメージするのは大きな誤りであって、政治について大方針を語ることはあっても、個別記事についてとやかく口をはさむことはない。少なくとも私はそういう目に遭ったことがない。むしろ周囲が本人の意向を忖度し、過剰な反応をしていることの方が多いように感じている。私に対する緊急帰国令も、もし渡辺主筆の意向であれば、間違っても撤回するようなことはないし、周囲も私の抗議を許さないだろう。

だが、突出して強いリーダーのもとで、取り巻きの側近たちが単一の思考を持つようになり、活発な議論が封殺されることは考えられる。本田氏が感じたような上下の風通しがいい社風は存在し得ない。私の身の回りに起きた不条理について、それを知り得る幹部らが何ら異論を示さない議論不毛の土壌を生んだことについて、少なくとも最高指導者としての責任はあると思っている。

(中略)

「個人の朝日、組織の読売」と呼ばれてきた。朝日新聞は他メディアの優秀な記者をスカウトし、有効に人材を生かしてきた。社内外で記者個人の広い活動領域を許容し、多くのスター選手を育ててきた。だが2014年の社長引責辞任を招いた誤報事件後(※)、急速に組織の個人に対する管理が厳しくなり、官僚体質が強化されたと仄聞する。

(※2014年8月、朝日新聞が従軍慰安婦報道や東京電力福島第一原発事故「吉田調書」の誤報で対応に手間取り、社長が辞任に追い込まれた事件)

一方の読売新聞は、生え抜きの社員を重用し、中途入社組は特別な例を除き冷遇されてきた。地方紙などから引き抜かれたエース記者が、改めて地方回りをさせられ、幻滅して去って行ったケースもある。本田靖春氏が風通しの良い上下の人間関係を「戦闘力の源泉」と評したように、組織の力も、内部の人間が生き生きとしてこそ発揮されるが、個人が押しつぶされては組織自体が活力を失う。

本田氏の『不当逮捕』は、同氏の先輩でスクープ記者として名をはせた立松和博氏が、売春処罰法案を巡る贈収賄疑惑で検察内部の権力闘争に巻き込まれ、誤報を握らされた挙句、名誉棄損容疑で逮捕された事件を追ったものだ。最終的には読売新聞が非を認めて記事を取り消し、立松記者は「会社の信用を傷つけた」として懲戒休職処分を受けた。本田氏は立松氏が「誤報」の汚名を着せられて葬り去られることに抗議し、「社が検察およびその背後に控える政治権力との妥協の道を選んで、掛け替えのない彼を見殺しにするのであれば、側近にいる私が本人になりかわって、事の真相を広く社会に訴えなければならない」(文庫本あとがき)と執筆の動機を明かした。

本田氏は同書で以下のように語っている。

「戦い取ったわけでもない『言論の自由』を、いったい、だれが、何によって保障するというのだろう。それを、まるで固有の権利のように錯覚して、その血肉化を怠り、『第四権力』の特権に酔っている間に、『知る権利』は狭められて行ったのではなかったか――。新聞が『正』と『義』の二文字を打ち出すことは瞬時に出来る。しかし、社会の正義は活字ケースの中にあるのではない」

立松事件後、社会部は一時、特ダネをボツにする事件報道暗黒の時期を迎える。本田氏は「組織の読売」の意味するところが、組織は自己保身の論理しか持たず、記者個人をいとも簡単に見殺しにしてしまう残酷なルールでしかないことを伝えたかったに違いない。組織には組織の理論がある。それは理解できる。ただ「組織」の名のもとに、新聞社の幹部が自己保身を図っているとしたら、「組織の読売」さえをもないがしろにするものではないのか。

本田氏は晩年、糖尿病で両脚を切断し、肝臓がんや大腸がんと闘いながら『月刊現代』で自伝的ノンフィクション「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載計四六回続けた。2004年12月4日、最終回を残して永眠。私は入社試験の面接で、うっかり「本田靖春」の名前を出して以来、ずっと彼の影が傍らにいるような感じがしていた。もし存命であったとしたら、後輩の社会部出身記者の身に降りかかった「安全」のための特ダネ執筆禁止令や緊急帰国令について、何と言ったであろうか。

(続)
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私にとっての読売新聞とは②

2017-07-31 00:50:59 | 日記
前川喜平・前文部科学事務次官に関する読売新聞の「出会い系バー」報道と、その批判にこたえた社会部長名の釈明記事が、世間の読売バッシングに火をつけた。世界一の発行部数を誇り、自民党政権にすり寄る憲法改正論議などで世論をリードする新聞社に対しては、かねてから多くの人がフラストレーションを抱えていたが、それが着火点を得て、爆発した感がある。

この一件では前川氏が、読売報道を「官邸の関与があった」と批判し、ジャーナリズムと権力の距離を問う議論にまで発展した。読売新聞と自民党政権のなれ合いは今に始まったことではない公然の秘密だが、具体的な事件として表面化し、政官を巻き込むスキャンダルにまで発展した例はない。原則論に立てば、権力からの独立は報道機関の生命線である。まして社会部は伝統的にその主な担い手であり続けた。それが瓦解した点において、日本メディア論としても重要な意味を持っている。

新聞社には、ジャーナリズムの根幹である独立性に対し社会から向けられた疑念を晴らすべき責任がある。型通りの免責論理によって報道を正当化するだけでは不十分で、多くの人々が納得できるよう、取材経緯を公表しなければならない。それは知る権利の使命を帯び、言論の自由を体現すべき報道機関としての責務である。もっとも、まだジャーナリズムの気概を持っていればの話だが、強弁を続ける読売新聞に自浄作用を期待するのは至難だ。

読売新聞の「出会い系バー」記事は特ダネだった。読売の特ダネに対するハードルは極めて高い。これは、私が身をもって知り、辞職の理由にもつながった現実である。真実性はもちろんのこと、社会的影響や各方面からのリスクを十分吟味し、誰からも文句をつけられない、という水準までに達しないと紙面には載せない。業界全体のパイが減り続ける中、攻めよりも守り、点を稼ぐよりも失点を恐れる体質が根付いている。リスクのある特ダネよりも、マイナスにつながる特落ちを避ける守勢が支配的だ。

私は在籍中、編集幹部が「特ダネは書かなくてもいいから、訂正は出すな」と平気で口にするのまで耳にした。誤報防止の厳格審査プロセスと言えば聞こえはいいが、無理難題を吹っ掛け、原稿をボツにする口実と化しているケースもしばしばある。変革よりも現状維持で精一杯なのだ。みなが責任を問われるのを恐れ、戦々恐々としている。リスクを限りなくゼロにすれば、何もしないのが得策だという思考に至る。

だからこそ、明らかに物議を醸すに違いない記事が掲載されたことに疑問を抱かずにはいられない。問題の「出会い系バー」記事は、前川氏への個人攻撃を通じ、国民が関心を持っている事柄から目をそらせる効果を持つ。明らかな政治的意図を持ったものだと誤解されるリスクが高い。結果的に読売新聞は大バッシングを受け、部数を大幅に減らしたと聞く。通常行われている厳格な記事チェックのプロセスを踏めば、当然、見送られてしかるべき記事だ。内容からしても、大手新聞社がふだんから見下している週刊誌ネタに属する。

厳格な記事審査プロセスとは対照的に、いかにも不用意な印象はぬぐえない。初歩的な判断ミスと言われてもしかたない。だから、最初の特ダネも、社会部長の釈明も、厳格な原稿審査プロセスを経たものではなく、それぞれ筆者が自発的に書いたとは思えない。そこには読売新聞を貫くもう一つの独裁的な意思決定システムが存在しているとみるべきだ。硬直化した上意下達の意思決定プロセスに従って書かされたのだ。

(続)
 
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私にとっての読売新聞とは①

2017-07-30 13:17:55 | 日記
汕頭大学の春季学期が終わり、上海、北京を経由し、夏休みの一時帰国をした。この間、各地で、前川喜平・前文部科学事務次官に関する読売新聞の「出会い系バー」報道と、その批判に答えた社会部長名の釈明について意見を求められた。どこへ行っても、読売が袋叩きに遭っている。不買運動を口にする人もいる。擁護論はまったくと言ってよいほど聞かない。古巣の現状に対する私の感想について、周囲が関心を持つのは理解できるが、簡単にコメントできないのがもどかしい。

「早く読売を辞めておいて正解でしたね」と水を向けられる。そして、私に“反読売”のレッテルを貼り、読売バッシングに加わるよう求められる。だが私にはピンとこない。私は世論の大勢に乗じ、功利的に迎合する言論を好まない。誹謗中傷の中から社会が発展することはないからだ。

日本で語られる中国問題について言えば、その大半が時流に媚び、偏見を助長するものでしかないことを、たびたび指摘してきた。「独立記者」を自任するものとして、たとえ少数派であっても、社会と歴史に対する責任感を持ち、自由な言論を守る覚悟を抱き、正しいと信ずることを誠意をもって語るよう努めてきた。たとえ成果は不十分であっても。

そもそも、私の辞職と今回の読売による失態とは、何の直接的な関係もない。問われるたびに、私は自分が辞職した理由をかみ砕いて説明しなければならない。辞職理由はすでに十分、明らかにしてきたつもりでいたが、みなが私の書いたものに目を通しているわけではないので、やむを得ない。寝た子を起こされたような気持ちがするが、私にとっての読売問題を改めて語る必要を感じた。

私は27年間、読売新聞に身を置き、上海と北京にトータルで10年駐在した。そして、私が苦難の末に得た特ダネ原稿がボツにされ、これを別の形で公表するため、2015年6月辞職した。ボツ扱いされた私の特ダネはその後、月刊『文藝春秋』2015年8月号に掲載された。私はそれ以前にも、北京駐在中、「安全」を名目にした意味不明な特ダネ執筆禁止令や緊急の帰任命令を受けた。特ダネを書けと求められることはあっても、書くなと言われたことはない。あり得ないこと、あってはならないことに遭遇し、新聞社への信頼が大きく揺らいだ。新聞記者一筋に生きてきた私の足元をも揺るがした。ペンを奪われた記者に居場所はない。当然の帰結として、私は辞表を書いた。

辞表提出までの経緯は拙著『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』(文藝春秋)で言い尽くした。同書には「そうする以外に道がないという形での選択だった」と書いた。在籍中、私は一部の上司に対し、みずらが経験した社内の不透明、不公正なやり口に対し、「棺桶まで持っていくつもりはない」と話していた。それを実行したまでのことだ。

同著の「はじめに」には、この一文がある。

「誤解のないように念を押しておくが、本書はいわゆる私憤をぶちまけた暴露本ではない。特定の個人や組織を不当に誹謗中傷するものではない。書かれた内容は言論の自由を担う『社会の公器』として、真実を追求する新聞の使命にかかわることであり、執筆の動機は報道が強さを取り戻すよう切に願ったものであることを、冒頭に強調しておきたい」

私は過去にとらわれ、怨みつらみの中で生きる道を潔しとはしない。自分の経験を公の場で語り、真実を明らかにすることによって、読売新聞ばかりではなく、日本のメディア界、社会全体にわずかながらでも問題提起ができればよいと考えた。

読売側の公式反応はゼロだった。異議も抗議もなかった。無視し、沈黙を守ることがリスク管理上、得策だと判断したのだろう。社内では「計画的な退職」だと無意味なレッテルを貼る声もあったと聞くが、実に不可解だ。私は辞職の手続きも知らず、人事部に初めて早期退職制度の存在を知らされた。辞表を書いた時点で、まず考えたのはどうやって特ダネを公表するかであり、再就職先はまったく白紙だった。理解できないと言われても、事実がそうなのだから再釈明のしようがない。

一方、私のもとには読売を含め、多数のメディア関係者から共感や共通の悩みが寄せられた。特定の新聞社に限らず、日本のメディア自体が深刻な病みを抱えていることを知り、自分の行ったことは無意味でなかったと実感できた。私はそのうえで、メディアのあり方を外部から問い直すため、中国の地において新たな一歩を踏み出す道を選んだ。

長年にわたって私を記者として育て、活躍の場を与えてくれた新聞社には感謝こそすれ、反感はまったくない。むしろ自分でも不思議なほど、もはや個人的な感情や関心がない。私にとって、読売新聞はメディア研究の一対象でしかない。衰退する新聞業界のガリバーとして、環境への適応ができずにもだえ苦しむ巨竜である。

そのうえで、前川氏に関する読売報道問題について、若干の私見を述べてみる。

(続)
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痛みをどう受け止めるか、について考えた

2017-07-28 13:29:52 | 日記
左足首の関節に捻挫のような鈍い痛みがあったので整形外科に行ったが、炎症止めで痛みは薄れたものの、腫れが足の甲にまで広がった。内科に診てもらうと痛風だと告げられた。かねてより尿酸値も高いので、とうとう来たかと最後通告を受け止めた。実は同じ病院で3年前、同じ部位に眠れないほどの激痛が走り、休日の救急医にかかったことがある。その際は虫に刺され菌が入ったと診断され、点滴を受けて瞬時に治った。あの時こそおそらく最初の痛風発作だとの疑いが濃厚となり、自らの不養生を反省した。

痛みに対して、人の対処には二通りがある。一つは過剰に教訓をくみ取る「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」、もう一つは教訓を残さない「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。酒飲みの立場からすれば、激痛に懲りて断酒するか、苦痛を忘れて元通り宴会を繰り返すか、ということだ。今は尿酸値を下げる特効薬があるから、教訓さえも意味が薄れている。科学の進歩に人間の思考が取り残されると、精神の働きは大幅に弱っていく。

「羹に懲りて膾を吹く」は、憂国の詩人、屈原の思想を伝える『楚辞』九章を出典とする。屈原は楚の王族の家系に生まれ、強国の秦に対抗する策を国王に説くが聞き入れられず、絶望の末、入水自殺する。信念を曲げなかった愛国者として語り継がれている。出典の個所は以下の通りだ。

「羹に懲りて膾を吹く なんぞこの志を変ぜざるや」

夢の中で神が現れ、孤立する屈原にこう語り掛ける。「世の中の人は、熱いものを食べて舌をやけどしたら、生ものを食べるときでさえ臆病になって冷やすというじゃないか。どうしてお前さんは、いつまでも懲りないで志を曲げないでいるのか」。屈原は、世の中の人がみな酔っていても、一人だけは真理と正義を求め、覚めていていようとする。みなが濁っていたとしても、それに染まることをよしとしない。

だとすれば、「羹に懲りて膾を吹く」は俗人の処世術であり、屈原にとっては唾棄すべき生き方となる。『楚辞』はむしろ、後者に重きを置いたのであって、後世に残ったのが俗人の処世訓だけであるのは皮肉なものだ。屈原の孤独な絶望が一層、時代を越え、悲壮感をもって迫ってくる。痛みから逃げず、石のようにそれを抱え込む。喉元を過ぎても、なお熱さを抱き続ける。劉暁波氏にも通じる生き方ではないかと思う。

「羹に懲りて膾を吹く」は、現代においては無責任、事なかれ主義、内向き思考と置き換えてもよい。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」は場当たり、ご都合主義、思考停止だ。世の中の不祥事はたいていこの二つが根源にある。

稲田防衛相が辞任を表明した。責任を負わされるだけの役人は、無作為こそ最善の処世術だと学ぶだろう。こうして事なかれ主義はますます蔓延していく。政治家は、熱しやすく冷めやすい世論を利用し、その場をしのぐ自己都合しか考えていないので、同じ過ちは繰り返される。いずれにしても、最も大事な論点、真理と正義は打ち捨てられる。「羹に懲りて膾を吹く なんぞこの志を変ぜざるや」と言わしめるだけの人物は出ないものだろうか。痛みを抱え込んだ人物に、人々は共感を寄せられないものだろうか。

前川氏はもしかしたら、その一人であるかも知れない。だとすると、孤独な正義の目を摘み、真実の探求から目をそらせようとした読売新聞の報道は、メディアが負うべき自由と責任を自ら否定する、新聞史上に残る汚点である。だがこの期に及んでもなお、二つの処世術によって痛みをやり過ごそうというのであろうか。ただ特効薬がないことだけは間違いない。






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劉暁波の死を悼むことの意味⑤

2017-07-23 10:04:21 | 日記
劉暁波氏の死から10日間が過ぎた。中国にいなければ、この国の人々を知らなければ、私は新聞社を去る決断はしなかった。影響を受けた人物の一人が彼である。だから万感の思いがある。絶望の末に投身した屈原とも、田園に帰った陶淵明とも違う。あるがままの姿を貫いた稀有な知識人である。



彼の死に関する多くの文章に目を通したが、残念ながら、まったく心に響かない。彼の死に名を借りて、乏しい引き出しをひっくり返し、お決まりの記事を書いているに過ぎない。自分と向き合っていない文章には魂が宿らない。劉暁波氏は言葉ではなく、あるがままの姿によって信仰を語った稀有な知識人だ。信仰を抜きに、彼を理解することはできない。

いかに生きるかを問う哲学があり、いかに死ぬかを追求する道がある。悟りを開いた宗教家はいずれをも超越し、ただそこにあること、あるがままの姿を従容として受け入れる。仏教は不二(ふに)を説く。対立も差異も、敵味方もない境地だ。大きな愛、大悲をもってすれば、雑念は去り、静かな湖面に森が映し出されるように、あるがままの姿が目の前に現れる。すべては一つに融合される。「私に敵はいない」と言い残した劉暁波氏は、それを見たに違いない。

菩薩たちが不二を論じている。不二とは何か。知恵を誇る文殊は、「そんなことは言葉にできない、知りようもない」と断じる。だが、維摩は黙して語らない。「言葉にできない」ことさえも語らない。あるがままによって示すしかない。それが真の悟りなのだ。維摩の沈黙は、雷の響きほどの力を持つ。言葉は発せられた時点で意味を持つ。生まれたとたんに捕らわれの身となる。人々はその自覚もなく、千里を走る駿馬のように言葉を操ることができると信じる。手綱をしっかり握っていなければ、自分のものでなくなるのも知らずに。不二の悟りは、その自覚から生まれる。

先日、北海道大学に行った際、池で小さな蓮の花を見つけた。淡い紫だった。その日、劉暁波氏が亡くなった。私は、俗界の中に咲く一輪の花を思う。どんなに世の中が濁っていようとも、いやむしろ濁っているからこそ、人の心は澄んで、清らかになる。大衆の中に身を置き続けた彼こそ、蓮の花にふさわしい。

邪悪や醜悪が平気でまかり通る。だが彼はその中にいて、恨まず、拗ねず、媚びず、動じることがない。いかなる賞も名誉も、彼を動かすことはできない。安全な外国にいて、グラウンドに下りず外野からヤジを飛ばしていても、鑑賞用の植物でしかない。泥の中に映える蓮にはなることはない。

「どぶに落ちても根のあるやつは いつかは蓮(はちす)の花と咲く」。フーテンの寅次郎もほらを吹いた。蓮は濁っている泥の中で育ち、汚れのない清らかな花をつける。泥を吸いながらも、自らは純潔を保つ。濁りがあるから純なのだ。清濁は一つになり、不二の境地が現れる。私はあの日、そんな彼の姿を思い浮かべた。小さな池の中で、たくましい根をしっかりと張り、人知れずひっそりと、そして凛々しく、可憐な花を咲かせる。

蓮には強い生命力がある。実は数珠につながっている。中国語で「無処不在」という。いないところがない。どこにでもある、どこにでもいる。彼の魂は蓮の花となって、永遠に咲き続けるだろう。

(完)
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