独立記者の挑戦 中国でメディアを語る

27年間の記者生活を土台に、国境を超えた普遍的な価値を追求する

「痛い」と言われたときの違和感・・・KYに通ずる排他性

2016-11-02 12:09:21 | 日記
「KY]が翻訳できないのと同様、近年、頻繁に使われるようになった「痛い」もまた翻訳可能だ。「痛い」も「KY」を基準として判断されるからだ。忘れられない経験がある。

2005年から10年間、ずっと中国駐在を続けたおかげで、中国の流行語には詳しくなったが、日本の流行語には疎くなっていた。そんなとき、ある日本からの出張者に「そんなこと言ったら、『痛い』って言われますよ」と言われ、非常に違和感を覚えた。聞きなれない現代語をふいに吹き込まれた疎外感に加え、おそらくそれが意味するであろう空気のような世界に嫌悪を感じた。

「痛い」とは見るのも痛々しいということだろう。見ていられないぐらい浮かれている。「あのひと、若作りな服着てて、ちょっと痛いよね」などと言うのだ。なぜ痛いかを突き詰めれば、みなと違う、みなの想像を超えている、そして結局は「KY」に行き着くに違いない。私はそこに、本来均質なうえ、内向き志向によってより排他性を強める日本社会の一端をかぎ取ってしまう。

日本人が「KY」の基準を持ち出して中国人社会をみれば、おそらく「痛い」人間ばかりだと思う。むしろ中国人は「痛さ」を競い合うようなところさえある。良くも悪くも目立つことを好むのだ。同じ服を着ている仲間を見つけると、面白くないといった表情をみせる。人口が多く、競争が激しい社会を反映しているともいえるし、多種多様な文化をはぐくんできた伝統もあるだろう。みなが毛沢東語録を手に同じ言葉を繰り返した時代は、中国特有というより、戦前のナチスや日本も経てきた人間の本性として理解したほうがいい。

「痛い」という言葉を聞いたとき、私はもう一歩、考えを進めて「痛い」日本式を考えた。「痛い」を日本の空気ではなく、世界の常識を尺度にはかれば、東京から来る出張者の方が私には「痛い」と感じられる。「痛い」とは見ていられないほど常識から外れているという意味である。彼らの大半はまず、口々に本社の職場の悪口を言う。そして、自分が訪れる中国については全く知らない、勉強もしてこない、関心もない。せっかく来たのだからとことん見ていこうと意欲を示す人は多くない。つまり自分の周辺にしか興味を持てず、しかもその範囲が感情的な好悪にしか及んでいない。

愚痴の内容はだいたい次のようなものだ。

「管理がどんどん厳しくなって息苦しい」
「ヒラメのような人間かりがのさばって、腹を割って話せる上司がいない」
「失敗するなということばかり命じられるので、やる気が起きない」

ひどいものになると、「うっかり会社の批判をすると、密通者がいて上層部に報告されるので気が抜けない」というものまである。密告社会が生まれているのは尋常ではない。実に「痛い」現状だ。

特に海外支局は孤立しているため、職場の発言が私的なルートを通じて東京にねじ曲げられて伝えられ、流言飛語が流布するケースも少なくない。新聞社は本来、ニュースの真偽には厳格な目を持つべきだが、内部のデマについては全く無防備だ。みなが「空気」に支配されている「痛い」状況だ。

例えば私が会社の見解と異なる意見を言ったとする。それについての意見を求めると、決まって「いやいやいや」「まあまあ」と言葉を濁す記者がいる。議論をするのがタブーであるという空気に染まっているので、思考そのものがストップしている。こういう記者の書く記事は、可もなく不可もなく、人から間違いを指摘されても逃げ道を打っているような、工業製品タイプが多い。内容がないので、読んでも何を伝えたいのかがわからない。見るに堪えない「痛い」記者だ。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「K(空気)Y(読めない)... | トップ | 中止された日本の資生堂CMと... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL