悪魔の舗道

「悪魔の舗道」(ユベール・モンテイエ 早川書房 1969)
訳は、三輪秀彦。
原書の刊行は1963年。

フランスの小説、特にミステリはすぐに暗黒化すると思う。
フランスの小説は、人間関係の倫理面ばかり凝視する。
凝視したあげく右にも左にもうごけなくなり、物語を終わらせるために登場人物を次つぎと殺していく。
とまあ、そんな偏見をもっている。

じつは、今回読んだ「悪魔の舗道」もそんな作品だった。
おかげで偏見は深くなるばかりだ。

また、この作品は前半傑作小説でもあった。
前半が素晴らしく面白く、後半失速する作品を、かってに前半傑作小説と呼んでいるのだけれど――その代表はピーター・ラウゼイの「偽のデュー警部」――本書は、前半傑作小への殿堂入りを果たした一冊だった。
そんな殿堂に入りたくないかもしれないけれど。
では、前置きはこれくらいにして、ストーリーをみていこう。

本書は、若い教師である〈わたし〉、エマニュエル・バルナーブによる1人称。
冒頭は、こうはじまる。
《検事総長代理閣下》
続けて――。

《わたしは三週間前から犯しもしなかった殺人容疑のため牢獄に監禁され、加うるに世間一般の人たちが揃って耐えがたいと形容する沈黙の中に幽閉されております。》

つまり、本書は弁明の書。
牢獄にいるバルナーブが検事にあてて書いたというのが、その形式。
その弁明の内容はいかなるものなのか。
はじまりは、バルナーブがある地方都市に赴任してきたところから。

生まれてはじめて職を得たバルナーブは、デュ・ゲクラン高等中学の歴史と地理の教師として、とある地方都市に赴任してくる。
この町にあるものといえば、郡役所、市役所、数か所の公衆便所、2つの映画館、ゴシック風の教会など。
まるで、町全体が眠っているよう。

高等中学の初任給ではろくに生活できない。
そんなわけで、夕食に招かれると喜んででかける。
ところが、招かれた先で、バルナーブは奇妙な光景をみる。

文学の教師、ベルグリノのアパルトマンに招かれたときのこと。
バルナーブは、間違えて入ったシャワー室でセントバーナード犬と遭遇する。
狭いアパルトマンで、ベルグリノはセントバーナードなど飼っている。
しかも、4人の子どもがいるにもかかわらず、セントバーナードなど飼っているものだから、ベルグリノは首が回らない。
バルナーブに借金を申し込む始末。

なぜ、そんなにまでしてこの犬を飼っているのか。
そうたずねると、ベルグリノはいう。
「この町には狂人がひとり野ばなしにされているんだ。ひどくたちの悪い狂人でね。これ以上きみには話せない」

また別の日。
ムーガン校長に呼び出しを受けたときのこと。
バルナーブのきびしい指導に、校長は注意をあたえる。
が、当のバルナーブは、校長室に置かれているソクラテスの胸像に目を奪われる。
ソクラテスは、なぜかスパニエル犬のふさふさした長い耳をつけているのだ。

校長室をでて、体操の教師であるブラン嬢にでくわしたバルナーブは、さっそくソクラテスの胸像について話をする。
すると、校長先生だって変わった趣味があってもいいと思いますわと、ブラン嬢。
続けてブラン嬢はいう。
「あたしだって庭でイタチを2匹飼ってますわよ!」

また、薬局にいったときのこと。
店主のテペネックが、黒い手袋をつけたまま接客をしている。
その姿がまた異様。
「わたしは願をかけているんですよ。だから、ねむるとき以外はこれをはずさないんです」と、テペネック。

さらにまた別の日。
バルナーブは、フールクロワ神父と知りあいになる。
神父はこれまた奇妙なことに、自宅でブタを飼っている。
なぜ、ブタを飼っているのかと訊くと、「主として楽しみのため」と神父はこたえる。

まさか、そんなはずはない。
ベルグリノがセントバーナードを飼い、ブラン嬢がイタチを飼っているように、フールクロワ神父はブタを飼っているのだろう。
一体、この町のひとびとはなににおびえて、こんなことをしているのか。

しかし、ついにそのことを、バルナーブは身をもって知ることになる。
あるとき、バルナーブの元に手紙がくる。
差出人は、「矯正不能不品行者対策道徳援助地区委員会」。
内容は、バルナーブのある過失を暴露したもの。
どうしてこのことを知っているのかと、バルナーブは戦慄する。
さらに、委員会はバルナーブへ、〈思い邪なる者に災いあれ〉という格言を金文字で縫いこんだ薄紫色の靴下どめをつくり、それを最初の恋人のプレゼントにすることを提案する――。

このあたりから、話はがぜん面白くなる。
町のひとたちが妙なことをしているのは、バルナブールに送られてきたような告発文のためにちがいない。
バルナーブは、ベルグリノをはじめとするひとたちに会いにいく。
やはり、みんなそれぞれ秘密をかかえ、それを委員会にさとられ、それぞれ罰を命じられていたひとたちだった。

そこで、バルナーブはみんなを説得。
委員会という、裁判官と死刑執行人をかねようとしている相手から、防衛をこころみなくてはならない。
被害者たちは一堂に会し、告発文をみせあい、その文章の書きぶりから委員会の姿をあぶりだそうとする――。

じつは、委員会とはだれなのか、読んでいるとすぐにわかる。
作中でも、すぐに正体が明かされる。
では、委員会はどうやってひとびとの秘密を知ることができたのか。
これは、当時のフランスならではといったらいいだろうか。
いまでも、この方法は通用するのだろうか。

さて。
委員会の正体が明かされてからは、もっぱら倫理にかんする話になる。
おかげで、ここから先は失速してしまう。
途中まで、こんなに面白かったのに、残念だ。

小説は、作中で倫理を扱うべきではない。
結果的に、作品全体が倫理を問うものになっているほうがいい。
そのほうが、より時の経過に耐え、より遠くまでいけるのではないかと思う。
どうだろうか。

とはいえ、前半はとても面白かった。
後半だって、興味深い展開だといえないことはない。
これだけ面白かったのだからよしとしよう。

あと、気になるのはタイトル。
「悪魔の舗道」というタイトルの意味が、よくわからない。
「地獄への道は正義で舗装されている」といういいまわしが思い浮かぶけれど。



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