かかしのトーマス

「かかしのトーマス」(オトフリート・プロイスラー/作 ヘルベルト・ホルツィング/絵 吉田孝夫/訳 さ・え・ら書房 2012)

前々回、ウェストールの「かかし」をとり上げた。
で、今回はかかしつながりで、「かかしのトーマス」を。

プロイスラーは、ドイツの名高い児童文学者。
もっともよく知られた作品は、「大どろぼうホッツェンプロッツ」(偕成社)シリーズだろうか。
でも、読んだことがない。
プロイスラーの作品で読んだことがあるのは、「クラバート」(偕成社 1986)一冊きりだ。

「クラバート」は、残念なことにあまり面白いとは思えなかった。
まず、いささかくどすぎた。
それに、主人公が不気味な親方の手からやっと逃れたと思ったら、不気味なヒロインの手に落ちてしまったという感じが否めなかった。
ヒロインの手に落ちるということは、つまりハッピーエンドなのだけれど。
どうも素直にうなずけない。
へんてこな読みかたかもしれないが、そう読んでしまったのだから仕方がない。

そういえば、「クラバート」の舞台は水車小屋だ。
ウェストールの「かかし」も水車小屋が重要な役割をはたすから、ここにも共通点がないこともない。
こうやって、無理にでも共通点をみつけると、本を読む興趣が増すものだ。

さて。
「かかしのトーマス」はウェストールの恐るべき「かかし」とはちがい、もっと低年齢層向きの、いかにも児童書らしい作品だった。
ページ数も100ページちょっとと薄手で読みやすい。
さし絵もたくさん入っている。

語り口は、3人称トーマス視点。
ストーリーは、まずトーマス誕生のいきさつから。
キャベツを食い荒らすスズメたちに腹を立てていた、お百姓のトビアス・ゾンマーコルンは、下男のグスタフにかかしをつくるようにいう。
かかしづくりには、トビアスの2人の子ども、ジーモンとウルゼルも参加。

3人は、畑の真ん中に熊手の柄をさしこむ。
そして、ハシバミの長い棒を十字架のように結わえつけ、麦わらのほうきを頭にし、コートを着せ、グスタフの古い帽子を頭にのせ、赤いマフラーを首に結んで、両手に3つずつ、ひもでつないだ空き缶をぶら下げて、さあ完成。
最後にウルゼルが、「トリビックリ・トーマス」とかかしに命名する。

ここまでが第1章。
第2章はこうはじまる。

《トリビックリ・トーマスは、自分の仕事と、子どもたちにもらった立派な名まえとで、とてもほこらしい気もちになりました。》

というわけで、以後はトーマス視点に。
トーマスは身うごきこそとれないものの、人間や動物の話が理解できる。

畑にトーマスがあらわれたことが、スズメたちは気に入らない。
「はやく家に帰りやがれってんだ」などと不平をいう。
それが、トーマスには面白くてならない。
ところが、トーマスが身うごきできないことを、スズメたちはだんだん察しはじめる。
振る舞いも大胆になり、「こいつに、びくびくするこたあない」と、皆でキャベツ畑にやってくる。
そのとき、風が吹き、トーマスの両腕にぶら下がった空き缶がガラガラと音を立て、スズメたちは散りぢりに逃げていく。

トーマスは、お日様の運行にあわせて自身の影が伸びちぢみするのに驚く。
雨に降られてずぶ濡れになり、晴れの日が続いて喜ぶ。
しかし、晴れの日ばかり続くとキャベツが育たない。
日照りを心配するグスタフとトビアスの話を聞いて、トーマスは反省する。

《かわいそうなこのキャベツ諸君は、のどがかわいて死にそうになっている――。それなのにわたしは、晴れの日をよろこんでいたのか。わたしはなんというばか者なのだ。》

じき雨が降り、キャベツ畑は生気をとりもどす。
これは雨の魔法だと、トーマスは考える。

そのうち、トーマスはお月様と話をするようになる。
お月様は世界中のことを知っている。
トーマスも世界を旅してみたいと思うが、それはできない。
畑のなかで、ひとりぼっちで立っているほかない。

トーマスは、うごくことこそできないが、感受性に富んでいる。
周りのできごとに目を向け、耳をかたむけ、仕事にはげむ。
読んでいて、愛すべきかかしだと思わずにはいられない。

このあと、キャベツの収穫がはじまる。
キャベツがなくなれば、トーマスの仕事もなくなる。
自分はどうなるのだろうとトーマスが思っていると、まったく思いがけないことが起こる。
この思いがけなさは、児童文学特有のものだといっていいだろう。

結果、トーマスは世界を旅するようになる。


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