ミスター・ヴァーティゴ

「ミスター・ヴァーティゴ」(ポール・オースター/〔著〕 柴田元幸/訳  新潮社 2001)

原書の刊行は、1994年。

「闇の中の男」は、残念なことに面白いと思えなかった。
が、気をとり直して、同じ作者の「ミスター・ヴァーティゴ」を読んでみる。
この本の帯に書かれた文句は、まずタテ書きでこう。

《12のとき、はじめて空を飛んだ。》

その下に横書きで、

《目も眩む、飛翔と落下のファンタジー。》

ついでに、帯の裏表紙に当たる部分に書かれた文句も引いておこう。

《14のとき、二度と空を飛べなくなっていた。
 俺はけだもの同然、人間の形をしたゼロだった。師匠に拾われ、誰一人なしえなかったことをやってのけた。各地を巡業し、人々を魅了した……。20年代(ローリング・トウェンティーズ)を背景に“空飛ぶ少年”の飛翔と落下の半生を描く、ポール・オースターのアメリカン・ファンタジー。》

本書の内容は、ほとんどこれに尽きている。
みごとな要約だ。

(話は「闇の中の男」にもどってしまうが、あの本の帯の文句はこうだった。《ある男が目を覚ますと そこは9/11が起きなかった もうひとつのアメリカ――》裏表紙側はこう。《いまは戦争中なのよ。ニューヨークがその戦争をはじめたのよ。 祖父と孫娘 眠れぬままに語る家族の秘密と歴史―― ポール・オースターが 21世紀に生きる人すべてに贈る、闇の中の光の物語。》うんぬん。どうも、この帯に引きずられて、あの本はもうひとつのアメリカの話だと思いこんでしまったような気がする。いや、あまりひとのせいにしてはいけないか。)

ふたたび気をとり直して――。
「ミスター・ヴァーティゴ」の主人公は、ウォルター・クレアボーン・ローリー。
通称、ウォルト。
ウォルトの1人称で書かれた回想録というのが、本書の体裁。

冒頭に、1927年にウォルトは9歳だったとあるから、生まれたのは1918年。
また、この回想録が書かれたのは、その68年後だというから、1995年に書かれたことになる。
なぜ、出版よりもあとに書かれた設定になっているのかは謎だ。

さて、セントルイスで小銭をせびったり、使い走りをしたりして暮らす9歳のウォルト少年は、路上で、シルクハットなどをかぶってよい身なりをしたイェフーディという男に声をかけられる。

《「お前はけだもの同然だ。いまのままでいたら冬が終わる前に死んでしまう。私と一緒に来たら、空を飛べるようにしてやるぞ」》

ウォルト少年は孤児で、スリム伯父さんの家に身をよせていたのだったが、この伯父さんがまたろくでなし。
意を決し、ウォルト少年はイェフーディ師匠に弟子入りすることに。

師匠の家はカンザスにあり、2人はそこへ。
家には、師匠のほかに2人の同居人がいる。
ひとりは、マザー・スーと呼ばれる女性。
太っていて、歯が2、3本しかなく、笑顔がやさしい。

もうひとりは、イソップと呼ばれる、15歳の黒人の男の子。
イソップは、せむしでやせっぽっちだが、頭脳明晰。
ウォルト少年はイソップをみるなり、「黒んぼなんかと握手してたまるか」といって、師匠からきついお仕置きを受ける。

イソップもまた、イェフーディ師匠が拾ってきた子。
12年前、ぼろにくるまってジョージアの綿畑をはいずりまわっているところを助けだされた。

マザー・スーは、スー族の娘。
お祖父さんはシッティング・ブルの弟だという。
若いころは、バッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショーで一番の裸馬乗りだった。
世界中を旅したあと、障害競馬のジョッキーと結婚。
娘が生まれるが、2人は列車の事故で亡くなってしまう。

失意のなか、アメリカにもどったマザー・スーは、ふたたび結婚するが、こんどの相手は飲んだくれの乱暴者。
彼女が夫になぐられているとき、イソップを拾ったばかりのイェフーディ師匠が、たまたま通りがかり、彼女を助けた。
そして、マザー・スーは師匠の仲間になり、一家の母親がわりとなったのだった。

ちなみに、イェフーディ師匠はハンガリー出身のユダヤ教徒。
子どものころ、アメリカにやってきた。

この奇妙な家族は、カンザスの、イェフーディ師匠が博打で手に入れた農地で、ほとんど自給自足にひとしい暮らしをしてすごしている。
農地に引きこもっているのは、あんまり奇妙な家族なので、町のひとに敵意をもたれないようにするため。
しかし、最初のうち、ウォルト少年はこんな家族や暮らしになじめない。
しばしば、脱走をくり返す。
が、そのたびにイェフーディ師匠にすぐみつかり、連れもどされる。
一度など、脱走後、吹雪のなかをさまよい、やっとみつけた人家にころがりこんだ。

ところで、ウォルト少年はじつに口が達者。
この回想記自体が、イキのいい文章でつづられている。
その達者な口の例として、凍え死にしかけたウォルト少年が、ころがりこんだ家の夫人に述べた口上を挙げよう。

《「俺、ウォルター・ローリーと言いまして、九歳になります。妙なことを訊くと思われるでしょうが、ここがどこなのか教えていただけないでしょうか。どうやら天国らしいという気がするのですが、それは筋が通らないと思うんです。さんざんあこぎな真似をやってきた俺ですから、行きつく先は地獄だろうとつねづね思っていたんです」》

このとき、ウォルト少年を助けたミセス・ウィザースプーンは、じつは師匠が負かして農地を手に入れた、博打相手の妻だった。
そしてまた、師匠の愛人だった。
師匠との博打に負けたミスター・ウィザースプーンは、世をはかなんで拳銃で頭をぶち抜き、師匠は農地とミセス・ウィザースプーンを手に入れたのだった。

とはいうものの、イェフーディ師匠はミセス・ウィザースプーンを妻にはしていない。
このあたりの機微は、マザー・スーが正確に述べている。

《「人の体を自分の持ち物にできる時代は終わったんだよ。女は男が売り買いする財産じゃないんだ。特に師匠のお友だちみたいな、新しい女はね。おたがいを愛して、憎んで、つかみかかったり、いちゃついたり、欲しがったり欲しがらなかったり、そうやって男も女もだんだん相手の奥に食い込んでいく。大した見世物だよ。レビューとサーカスをひとつにしたようなもんだね。そうやってずっと死ぬまでつづくのさ」》

へそくりをためこんで、ひと財産こしらえていたミセス・ウィザースプーンは、イェフーディ師匠やウォルト少年のよき後ろ盾になる。

ウォルト少年は脱走を断念。
師匠の命じるまま、空中浮遊をするための特訓にいどむ。
その特訓は、地面に埋められたり、炎の輪のなかにすわったりと、たいそう漫画的。
しかし、そのかいあってかウォルト少年は、ついに空中浮遊の技を会得する。

それから、いろいろとあったのち、かねてからの目論見どおり、イェフーディ師匠とウォルト少年は、ショービジネスに打ってでる。
ウォルト少年の芸名は、「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」。
ただ宙を歩くのではなく、演出を練り、ショーとしてみせる。
2人は各地で公演をして、お金を稼ぐ。

が、よいことは長くは続かない。
ろくでなしのスリム伯父があらわれて、ウォルト少年につきまとうようになる。
あげくのはては、誘拐されてしまう。
この誘拐騒ぎが、この作品のなかで一番スリリングなところだ。

また、致命的なことが起こり、ウォルト少年は空中浮遊ができなくなってしまう。
しかし、本書はまだ終わらない。
裏社会で頭角をあらわしたり、野球選手に入れあげて全てを失ったりと、ウォルト少年の波乱万丈の人生は続く――。

「幽霊たち」や「闇の中の男」とちがい、この作品では会話にカギカッコがつかわれている。
登場人物たちの元気のいい声を作中に鳴り響かせるために、そうしたのだろう。
今回は、文学や映画についての言及することで、作品をふくらませるということはしていない。
ただ、冒頭の人間関係を最後まで引きずる――人間関係を使い切るといえばいいか――という点は、ほかの作品と変わらない。

この作品は、ウォルト少年が空中浮遊をすることがキモだ。
ここでリアリティを失っては、どうしようもない。
その点は、じつに頑張ってる。
ウォルト少年は、いきなりではなく、少しずつ飛べるようになっていく。
飛べるようになると、この芸をどう生かしてショーとしてみせるか、イェフーディ師匠と案を練っていく。
この過程が、リアリティを支えている。

加えて、回想形式を採用していることと、イキのいい文章が、この作品を底から支えている。
特に文章。
この作品が最後まで読めたのは、この文章があればこそだ。



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