愛は血を流して横たわる

「愛は血を流して横たわる」(エドマンド・クリスピン/著 滝口達也/訳 東京創元社 2010)
原書の刊行は1948年。

古本屋でこの本をみつけたときはうれしかった。
勇んで買って、家に帰った。
ページを開いたそのとき、本棚の片隅が目に入った。
同じタイトルの本がそこにある。
またもや、2冊目の本を買ってしまったのだった。

今回買ってきたのは、文庫本。
本棚にあったのは、この文庫本の元になった、1995年に国書刊行会から出版された単行本のほうだ。

せっかくだから、2つの本をくらべてみよう。
訳者あとがきの内容は、まあ同じ。
が、あとがきの末尾につけられた、《この翻訳書は、小池滋先生にあまりにも多くのものを負っている。》うんぬんといった謝辞は、文庫版ではすっかり姿を消している。
国書刊行会編集部藤原氏への謝辞もなくなっているけれど、これは版元が変わったのだから仕方がないだろうか。

単行本の解説は、小林晋さん。
文庫版の解説は、宮脇孝雄さん。
どちらも、クリスピンの経歴、作品、作風について、わかりやすく記している。
単行本版では、クリスピンの全長編についての解題がついているところが、マニアック。

文庫版の解説では、宮脇さんが、クリスピンの長いブランクについてこう説明している。
黄金時代のミステリが時代遅れになり、リアルな犯罪小説が好まれるようになったとき、クリスピンはその時流に乗り切れなかった。
もしくは乗る気がなかった。
長いブランクが生まれたのはそのせいではないか。

それから、本編では、主人公のフェン教授が自分を呼ぶときの人称がちがっている。
単行本では、「おれ」だが、文庫では「ぼく」だ。

さて。
2冊目を買ってしまったのは、前に買ったとき、読まないで本棚に突っこんでしまったからだ。
そこで、3冊目を買わないよう、今回はちゃんと読むことに。
さらにメモもとっておこう。

本書は、3人称多視点。
主人公は、クリスピンが創造した名探偵、オックスフォード大学の英文学教授である、ジャーヴァス・フェン。
主人公はフェン教授だけれど、語り手はフェンに密着してはいない。
少し、登場人物から浮いている。
この距離感が、皮肉やユーモアを生み、「笑劇ミステリ」と呼ばれるクリスピンの作風を決定している。

舞台は、カスタヴェンフォード校と、その界隈。
終業式を翌日にひかえてた校長のもとに、カスタヴェンフォード女子高校長、パリィ先生がやってくる。
終業式では、女子高と合同で演劇を上演することが、カスタヴェンフォード校のならわし。
ことしの演目は、「ヘンリー5世」。
その芝居でキャサリン役を演じることになっている、ブレンダ・ボイスという娘の様子が変だ――というのが、パリィ先生が校長を訪ねてきた理由。

芝居の稽古をきっかけに、男女の生徒が妙なことになったのではないか。
しかし、ブレンダは奔放な娘なので、たとえ青少年の性的行動の実際例にでくわしても、そう動揺するはずがないと、パリィ先生。
校内で、なにかそれ以上の不都合が起こったのではないか。
校長は、ともかく調査してみると返答。

ちなみに、今年の終業式の賞品授与は、知人のオックスフォード大学の英語英文学教授に頼んだと、今後登場するフェンについて、校長は抜かりなく触れている。
また、観察力と皮肉に富んだクリスピンの文章の例として、パリィ先生についての描写を引用しておこう。

《机の向うから見つめる校長は、いかにもみじめであった。彼は常々、パリィ先生の有能さに辟易させられていた。歯に衣着せない、怖いもの知らずの、有能な中年女性、こういう人種はイギリス上流ブルジョア階級に特有のもので、チャリティー・バザーをひらいたり、病人や生活保護者を見舞ったり、経験の浅い家政婦を仕込んだり、なにか恨みでもあるように庭仕事をしまくったりする。この手の女性あいてのときは、いわば威風堂々、潔く、後塵を拝するにかぎる。》

学校という舞台は、登場人物を手際よく紹介していくのに、じつに便利な場所だ。
校長はすぐ、芝居の監督をしているマシーソン先生を訪ねる。
それから、ヘンリー5世役をつとめる、6年級のウィリアムズを呼びだす。
ウィリアムズは、その晩、芝居の稽古が終わったあと、理科校舎でブレンダと待ちあわせしていたことを告白。
が、待ちあわせ場所にいこうとしたところ、パージントン先生にみつかり、連れもどされてしまったと、ウィリアムズはいう。

そこに、別件の苦情が校長に舞いこむ。
苦情の主は、化学教師のフィルポッツ。
化学実験室の戸棚がこじ開けられ、何者かが酸を盗んでいったという。
いろいろ考えたすえ、校長はしかたなく警察に電話。
スタッグ警視にきてもらうことに。

こんな状況のなか、フェンがカスタヴェンフォード校に到着。
その後、事態は急変。
奔放な娘ブレンダは、駆け落ちを思わせる手紙を残して消えてしまう。
加えて、殺人事件が発生する。
それも、2件も。

1件目の被害者は、古典と歴史の教師、アンドルー・ラヴ。
厳格で、どんな些細なこともゆるがせにしないという人物。

もう1人の被害者は、英文学教師マイケル・サマーズ。
ラヴの愛弟子といえる人物だった。

サマーズが殺されたのは、ハバート校舎にある教員控室。
ここで、通知表をつけている最中に殺されたよう。
おかしいのは、この暑いのに電熱器のスイッチが入っていたこと。
また、腕時計の位置がおかしい。
いつもサマーズは手首の内側につけるのに、外側についている。

死因は射殺。
38口径の拳銃で撃たれている。
学校には、軍事教練用の兵器倉庫があり、そこにサマーズが軍隊にいたときに、フランスかドイツのどこかで拾ってきたサイレンサーがしまってあった。
事件には、倉庫の拳銃と、そのサイレンサーがつかわれたのかもしれない。

一方、アンドルー・ラヴが殺されたのは、自宅の書斎。
死因はやはり、38口径の拳銃で頭を撃ち抜かれたこと。
ラヴの生活習慣は時計のように正確だったので、それを知っていれば殺すのは容易だっただろう。

その後、調査が進み、兵器倉庫からコルト一挺とサイレンサーが消えていることが判明。
凶器は特定できたとして、一体だれが、なんのために。

「なんのために」は、思いがけない方角からあらわれる。
ちょうど作品のなかばのこのあたりで、突然視点は学校をはなれる。
そして、ロンドン保険会社事務員、ピーター・プラステッドなる人物に焦点があてられる。
夏季休暇中、2週間の徒歩旅行を楽しんでいたプラステッドは、ある古い田舎家を見物していたところ、その家のなかから短い叫び声があがったのを聞いた。
そこで、家に入ってみると、老女の死体が。
さらに、プラステッド自身は、何者かに後頭部を強打され失神してしまう。

しばらくして、意識を回復したプラムテッドは、近所の家を訪ね、そこから警察に連絡。
こうして、フェンとスタッグ警視は、第3の現場におもむく。

殺人が3件に、失踪が1件、加えて酸とサイレンサーの窃盗が2件。
もちろん、すべてはつながっていて、それが最後明らかに。

本書の登場人物は20名ほど(プラス、メリソートという名前の犬が一匹)。
戯画化しながら、全員を書き分ける、クリスピンの手腕はたいしたもの。

さきほど、文章の例として、パリィ先生についての描写を引用したけれど、本書の文章の魅力はそればかりではない。
戯画化しながらも感動的という、不思議な性質の文章をクリスピンはあやつる。
ちょっと長くなるけれど、事件と同時進行でえがかれる、終業式についての描写をみてみよう。

《右にも左にも親がいる――鼠みたちにこそこそした親、喧嘩早そうな親、偉そうにした親、もったいぶった親、おとなしい親、はしゃいでいる親、その親の集団が、光輝く磁器のような空のもと、群れが群れを呼ぶようにして膨れあがっていく――いったい何のために? 校長は不思議に思った。(終業式を)愉快に思っている親なんかいないはずだ。ましてやその倅(せがれ)どもがたのしいはずはなかろう。それなのに、そこには不思議な、血を沸き立たせずにはおかない何かがあって、校長でさえ、この光景を目の当たりにしては、まったくの無感動ではいられなかった。》

こういう文章を読めるのが、本書の愉しいところだ。

名探偵役のフェン教授は、推理の途中経過を口にしない。
ひとり合点ばかりしていて、真相を明かすのは最後までとっておく。
それまでは、犯人を「あの男」というばかりなので、読んでいてずいぶんやきもきさせられる。

このあと、フェン教授は、犯人にたいし罠をかける。
失踪した娘をさがしに、娘の友人とともに森に入り、そこで九死に一生を得る思いをする(このとき犬のメリソートが大活躍する)。
最後はドタバタのカーチェイス。

カーチェイスは捧腹絶倒のドタバタぶりなのだけれど、解説によれば本書は、以前のクリスピン作品よりも、ドタバタぶりは大人しくなっているそう。
本書以前に書かれた、クリスピンの代表作である「消えた玩具屋」(エドマンド・クリスピン/著 大久保康雄/訳 早川書房 1978)のドタバタぶりは、どうだっただろうか。
読んだのはだいぶ前のことなので、すっかり忘れてしまった。
こんど、本棚から引っ張りだして読み返してみよう。
たしか、「消えた玩具屋」も2冊もっていたはずだ……。



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