チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

 物は置き場所、人には居場所(その13)

2016-11-05 10:45:43 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その13)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 12. 森は海の恋人 (気仙沼のカキ養殖)

 第一話のフィリピンの人口三〇〇人のカオハンガ島での人の居場所は、島の美しい自然と観光と教育でした。

 第二話の中国黄土高原の大同市では、植物園を研究所として、樹木の苗を育て、植林し、アンズの苗を植えて、アンズを収穫し、杏仁(きょうにん)を得て、人の居場所を確保し、黄土高原の土壌を守りました。

 第三話の鳥取県の沖合六十キロの日本海に浮かぶ、隠岐(おき)諸島の中ノ島に位置する、人口二四〇〇人の海士(あま)町での取り組でした。

 流通と営業を町長以下が受け持って、しろイカや岩ガキや隠岐牛を東京でブランド化し、閉校寸前の高校さえも島外から生徒を呼び、町民の居場所をつくり、社会のことを自分ごとにしました。

 第四話のアマゾンの日本人移住地トメアスで、悪性のマラリアの感染、せっかく成功したコショウの水害と土壌菌による病害虫の蔓延で全滅の末に、森林と農業を融合し、さらにクプアス、グラビオラ、アセロラ、マンゴスチンなどの果樹を組み合わせた。

 それらの果汁ペーストを海外に組合をつくって輸出し、入植者の居場所とアマゾンの熱帯雨林を再生した。

 第五話は、三陸リアスの海辺、宮城県の気仙沼湾でカキ・ホタテの養殖家・畠山重篤さんが、森は海を恋人であると確信し、気仙沼湾に注ぐ大川上流の室根山に森をつくるお話です。

 気仙沼のカキ・ホタテの養殖家・畠山重篤(しげあつ)がなぜ森に木を植えるようになったのかを「リアスの海辺から」(1999年5月 畠山重篤著)の”はじめに”より紹介致します。


 『 私は三陸リアス式海岸の静かな入り江で牡蠣や帆立貝の養殖をしている漁民です。父の代からの養殖漁民で私で二代目、息子が三年前から跡を継いでいるので、三代漁民としての生活が続いている。

 振り返って三十六年前、私が父から引き継いだ海は実に豊かな海であった。牡蠣や帆立貝は、種苗(稚貝)を海に入れておきさえすれば何もしなくても大きく育ったし、海中を覗けば、目張(メバル)、鯔(ボラ)、鱸(スズキ)、鰻(ウナギ)などが群れをなしていたものだ。

 ところが、昭和四十年代から五十年代にかけて、目に見えて海の力が衰えていった。貝の育ちが悪くなり、赤潮などが頻繁に発生するようになってきたのだ。

 同業者が集まると、この仕事も俺たちの代で終わりだなあと、あきらめムードだけが漂い、浜は活気を失っていったのである。そんなとき、もう一度昔の海を取り戻そうと、一つの運動が湧き起こった。

 気仙沼湾に注ぐ大川上流の山に、漁民の手で広葉樹の植林を行い、海を元気にしようというのである。また、それをきっかけにして、大川上流の山の子供たちを海に招いて体験学習をしてもらう。名づけて「森は海の恋人」運動である。

 それは私が、昭和五十九年、フランスルターニュの海辺に、牡蠣の養殖事情を視察に行ったことがきっかけだった。フランス最長の河川、ロワール川河口の養殖場を訪れたおり、見事に育っている牡蠣と出会ったのである。

 また、干潟に点在する潮溜りに蠢(うごめ)く、寄居虫(ヤドカリ)、竜の落とし子、蟹(カニ)、小海老、海鼠(ナマコ)などの多さに驚かされたのだった。

 小動物が多いということは、川が健全であることの何よりの証拠である。それは、私が子供の頃の宮城の海そのものであった。川の源は森。私はロワール川上流に足を運んでみた。

 そこには、思った通り、山毛欅(ブナ)、水楢(ミズナラ)、胡桃(クルミ)、栗などの広葉樹の大森林地帯が広がっていたのである。それは、杉山に変わる前の三陸の森の原風景であった。

 広葉樹の森は海を支配している。そのとき私はそう確信した。 』


 『 平成元年九月、気仙沼湾に注ぐ大川源流の室根(むろね)山に、時ならぬ大漁旗が何百枚と翻(ひるがえ)った。山に大漁旗とは意外な光景であるが、それは、森に対する漁民の感謝の表れであった。

 森、川、海と続く自然の中でしか生きられないことを悟った気仙沼湾の養殖漁民たちの、植林風景だったのである。

 赤銅色に日焼けしたねじり鉢巻き姿の漁民たちが、慣れない手つきで植えている木は、保水力があり、良質の腐葉土が早く形成される、水楢、水木(みずき)などの落葉広葉樹である。

 海のことについては生き字引を自負している私たちであったが、山のことや植林についてはまったくの素人であり、初めは失敗の連続だった。

 低地の水気の多いところに育つ水木を高地の風当たりの強いところに植えて枯らしたり、せっかく植えた苗の芯を野兎に全部食われてしまい、途方に暮れたこともあった。

 しかし、岩手県室根村や気仙沼市新月(にいつき)の山の民の協力を得て、次第に森づくりは軌道に乗りだした。水楢、栃、瓜膚楓など五十種の広葉樹の苗が二万本植えられた。

 植林は一九九八年十年目を迎え、その地は「牡蠣の森」と命名されている。漁民による植林が橋渡しとなり、上流の森の民と下流の海の民との交流も深まっていった。

 室根村の人たちは、大川の土手の草を年二回刈るが、「今までは雨が降ったら流れるからいいさ、と土手の内側に重ねておいたものを、これからは片づけるようにしました」と伝えてくれた。

 体験学習に訪れた子供たちからも手紙が届いた。「朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました。給食後の歯磨きのとき、歯磨き粉の量まで注意してます。下流の海の人たちに迷惑はかけられません」というのである。

 村当局も、なるべく農薬を使わない、環境保全型農業を推進している。もちろん漁民みずから、海を汚さないよう注意するようになってきた。工場排水の規制強化や、下水道の整備とあいまって、大川流域に暮らす人々の環境に対する意識は高まっていった。 』


 『 その結果、嬉しいことが起こった。二十年以上も姿を消していた鰻が川に戻りはじめ、海には目張、竜の落とし子などが姿を現してきたのである。

 こうして、気仙沼湾は確実の蘇(よみがえ)りつつある。「森は海の恋人」という呼びかけに呼応するように、運動は全国に広がっていった。現在、全国三十団体の漁民が、森づくりに励んでいる。

 運動が広がるにつれ、いいだしっぺの私にさまざまな問い合わせも多くなってきた。ところがまったく迂闊なことに、こちらの地理的条件を説明するとき日常語として何気なく使っている「リアス式海岸」という言葉の、本来の意味を理解していなかったのである。

 それ以前に、片仮名言葉の「リアス」が何語であるかさえしらなかったのだ。四十年以上も昔、小学校の教科書で、「三陸海岸に代表される複雑に入り組んだ海岸」と教えられて以来、それ以上の知識の上積みはまったくなく、そのままを繰り返していたのだ。

 ところが、偶然にもつい最近、この言葉がスペイン語であり、その本来の意味は、単なる入り江ということではなく、「潮入り川」という意味であることを知ったのである。

 このことは、ほとんどの人がイメージしてきたリアス式海岸という地理的特性の解釈が、反対であったことを教えてくれる。

 私は今まで、三陸海岸のような入り組んだ湾は、海の波が削ってできたものとばかり思っていたが、本来は、川が削った谷であり、地殻変動で地盤が沈降したため、海が逆に入り込んできた姿であったのだ。

 「リアス」の「リア」の語源は、「リオ(川)」であることも知った。つまりリアスの主役は川であり、その源の背後の森だったのである。

 魚介類が豊富なのは森の養分を含んだ川の水が、海の生物生産の基となる植物プランクトン、海藻を育んでいるからなのだ。

 リアスという言葉を理解したことは、私たちが十年前から行ってきた「森は海の恋人」運動の方向性が妥当であることを意味していた。

 そのことを足がかりにして調べていくと、我が三陸リアスとスペインとは、四百年も前から歴史的にも深くつながり、また、西北部のガリシア地方とは多くの共通性があることを知ったのである。それは、いっきに霧が晴れるような、新しい発見の連続だった。

 それらのことを踏まえて、三陸リアスの海辺の暮らしや、子供の頃、森や川や海で遊んだことを思い出してみると、高速交通体系から取り残された辺境の海辺とういマイナーな見方とはまったく逆の、森と川と海が一つとなった、魅力溢れる小宇宙であることを再発見するのである。

 とうとう私は、リアスという言葉の意味をこの眼で確かめるために、その発祥の地スペイン北西部ガルシア地方の森や川や海を訪ねる旅にも出かけることになった。

 そこには、想像をはるかに超えた豊かな森、地味の肥えた農地、魚介類の豊富な海、そして、そこの海辺を歩いていて私は、"El  bosque  es  la  mama  del  mar." (森は海のおふくろ)と語るガルシア漁民の声を確かに聞いたのである。

 地球を半周した地理的空間を越えて、スペインリアスと三陸リアスの漁民は、同じ想いで結ばれていたのだった。 』


 本書は、少年の頃の気仙沼湾を回想して、目張釣り、えごの木の下の小海老、豹のような目早、とうじんぼう、雪代水と鯔、リアスの山の幸、……と少年のころの豊かな海の記述が続きます。

 それもこれも森と川が健全であれば、牡蠣の養殖は豊漁で、気仙沼の漁民の居場所が確保されると言われていると思われます。(第13回)



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