チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「コロナウイルスで考えたこと」

2020-03-13 13:19:21 | Weblog
 192. コロナウイルスで考えたこと  塩野七生著 (文藝春秋2020年4月号)

 私が今回この文章を紹介しますのは、人類の歴史は、幾多の疫病との闘いの歴史であり、株式相場は、暴落との歴史であったとあらためて感じたためです。

 本文で15世紀のヴェネチアですでに、交易と疫病の問題をより深く考察して、解決への道筋を実践していたことを今回知って、歴史とはこのように、学び実践すべきことを知りました。

 塩野七生の文を読む前に、「福岡伸一著 生物と無生物のあいだ」から細菌とウイルスついて、確認していきます。細菌は、0.1~30㎛(10⁶分のm)(0.1~30x10³分のmm)の窮状・棹状・螺旋(らせん)状などの単細胞の微生物です。

 微生物を大きく分けると、無機塩の酸化によりエネルギーを得る化学独立栄養菌と有機物を栄養源とする化学従属栄養菌とがある。微生物は、代謝を行ない、細胞分裂によって、増殖する。

 『 ウイルスは、20~300㎚(10⁹分のm)(2~30x10⁵分のmm)の大きさです。ウイルスは単細胞生物よりずーと小さく、大腸菌をラクビーボールとすれば、ウイルスは、ピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。

 従って、細菌は光学顕微鏡で見ることができるが、ウイルスを見れたのは、光学顕微鏡より十倍から百倍もの倍率を実現する電子顕微鏡が開発された1930年代以降のことである。

 野口英世が黄熱病に斃れたのは、1928年である。まだ世界はウイルスの存在を知らなかった。彼が生涯をかけて追った黄熱病も狂犬病もその病原体は、ウイルスによるものだった。

 ウイルスを電子顕微鏡下で捉えた科学者は不思議な感慨に包まれたに違いない。細菌はウェットで柔らかな形状であるが、ウイルスはエッシャーの描く造形のように幾何学的な美しさをもっていた。ウイルスは一切の代謝を行なわない、物質に限りなく近い存在だった。

 ウイルスを混じり物がない純粋な状態にまで精製し、濃縮すると、「結晶化」することができる。これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。

 つまり、この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質である。しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画しているのは、ウイルスが自らを増やせることだ。

 ウイルスは単独では何もできない。ウイルスはまず、惑星の不時着ように、細胞の表面に付着させ、その接着点から細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。宿主細胞は、自分の一部だと勘違いして、複製をおこなう。
 それら新たに作り出されたウイルスは、まもなく細胞膜を破壊して一斉に外に飛び出す。
 』 (福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」より)
 
 前置きが長くなりましたが、一緒にヴェネツィアの実践を読んでいきましょう。

 『 コロナウイルスの流行はいまだに先が見えていないが、いずれは終息するだろう。人類の歴史は流行病の歴史と言ってよく、いくらかの期間は置くにしろ、発生と終息の繰り返しったのだから。

 とは言え歴史上では、発生するのは後進国でそれが先進国に伝染して終息する、が常であったので、前回のSARSも今回も発生地が世界第二の強国というのは、伝染病の歴史では異例になるかも。

 現代では「検疫」の意味の世界共通語になっている「Quarantine」とは、もともとは中世ヴェネツィアの言葉で「四十日間」を意味する「Quarantana」に由来する。
 ヨーロッパとオリエントを結ぶ交易で成り立っていたヴェネツィア共和国は、オリエントで疫病が発生したからといって国境を閉じるわけにはいかない。

 また、中近東への聖地巡礼をパック旅行化するほどの観光立国であったので、オリエントから戻ってくる船には、オリエント産の物産だけでなくヨーロッパ人の巡礼客も乗っている。
 だがこの状態を放置しておくと、ヨーロッパの人口の四分の一は確実に死んだと言われるペストの大流行のくり返しになってしまう。

 人道上の問題だけでなく、経済的にも政治的にも大打撃をこうむりかねない。それで正確に言えば一四二三年、世界で最初の恒久的な疫病対策に着手した。疫病発生地から来た船や一か月もの長い船旅の間に原因不明の病因で病人が出た船は、ヴェネチツィアに帰りついても都心部への着岸は許されない。

 リドの運河は通って湾内に入れても、ヴェネツィアを象徴する陽光を浴びてバラ色に輝く元首官邸も遠く眺めるだけ。船はただちに右に導かれ、湾内に数多くある島の一つに強制的に下船させられる。ラヅァレットだが、この名を聞いただけでだれでも、「隔離のための島」とわかるのだった。

 船着場以外は高い石塀で囲まれているが、広さはあり緑にも恵まれているので、居心地は悪くはなかったろう。だがここで「四十日間」を過ごすのだ。ようやく帰国できたというのに四十日間もの隔離。居心地の良さにも配慮していたのは、この種のプレッシャーも無視しなかったということだろう。

 隔離中も、ヴェネツィアの病院からの医師の監視はつづく。もちろん、隔離される前に病状があらわれた人は別の、同じくラヅァレットという名の島に移されて病因の解明が行われる。

 その結果、疫病患者と判明した人はその島で治療され、他の病気の患者はそれぞれ専門の病院に送られて治療がほどこされる。今ならば波打ちぎわでの対策というだろうが、人や物産の出入りを全面的に閉鎖することは許されないヴェネツィアのそれは、この面で先進国に恥じない完璧さだった。 』

 『 人道上の精神が高かった、からではない。都市国家として生まれたヴェネツィアは常に人口が少なく、塩田から採れる塩以外は天然資源に恵まれていないので、人間一人一人を「資源」と考えていたからにすぎない。

 近くにあるパドヴァにはイタリアでは二番目に古い大学があり、この大学の医学部とヴェネツィア内の病院は密接な協力体制にあったから、ヴェネツィアが長期にわたって医療水準では先進国であり続けのも当然だろう。

 ザヴィエルとその同志の若き修道士たちも、日本に布教に向かう前にヴェネチアの病院でインターンをしたのだった。しかし、これほどまでしてもヴェネツィアが、疫病に無縁でいられたわけではない。

 昔は色彩豊かだったのが、今では黒一色のゴンドラも、ある年のペスト流行で大量の死者を出したことを忘れないために、喪の色に変えたのが今に続いているだけである。
 また、聖ロッコの広い会堂全体は、天井も壁面もすべて、ペスト流行の恐ろしさを描いたティントレッドの傑作で埋めつくされている。

 それでもなお、海洋都市であり交易立国であったヴェネツィアは、国境を閉鎖するよりも疫病対策を確立するほうを選んだのであった。
 結果は? 「地中海の女王」と言われるようになった高度成長期から数えただけでも五百年に及ぶ経済力の維持、建築、絵画、音楽、演劇と、多方面にわたる文化のリーダーとなって結実する。

 これもすべて、同時代のイタリアの都市国家の中では唯一、人材は流出するより流入していた、ヴェネツィアならでは、だからであった。イノベーションと呼ぶか呼ばないかに拘らず、新しいことへの挑戦は、異分子との接触のないところには生まれないからである。

 コロナウイルスは、イタリア人の間でも心配の種になっている。観光客の中の無視できない数はもはや中国からの人だし、ミラノで開かれるファッションウィークに来るバイヤーの二割までもが中国人で占められているという。

 それで、心配になった彼らは、私にも問いかける。日本で開かれるオリンピックはやれるの、やらないの、と。 私は、予定どおりやったらよいと思っている。

 ただし、日本の医療関係者を総動員してでも、完璧な予防対策、また不幸にもかかった人には、これまた完璧な治療をほどこす体制を完備してのぞむのだ。

 1964年の東京オリンピックは、敗戦からの復活と以後の高度成長の始まりを、世界中に宣言したではないですか。 
 それが今では経済力は低下の一方、軍事力はあっても対外的には無に等しく、あらゆる面で半世紀前の面影はない。

 ならばいそのこと、今年のオリンピックは、日本では国を閉じなくても人的物的交流は可能だということを宣言するものにしてはどうか。
 文明国であることの条件は、資本力や軍事力だけではない。人命と衛生に対するセンシビリティ(鋭敏な意識)、にもあるのです。(2月19日記) (第191回)


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