チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

物は置き場所、人には居場所(その15)

2016-11-26 08:47:07 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その15)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 14. 物は置き場所、人には居場所のまとめ

 人類は、二本足歩行を獲得した後に、手の自由を利用して道具を使い、さらに言葉を使ってコミュニケーションをすることによって、物と情報との関わりを深くしてきた。

 第二次世界大戦以前までは、物は大切なものであり。何度も修理されて、大切に使われてきた。情報も貴重なものであり、大切にされてきた。

 これまでの物は、主として、木材と鉄と綿花を主材料としていましたので、物が使えなくなった時、そのまま捨てられても、自然界のリサイクルシステムに戻された。

 大戦後、部品の規格化とオートメーションによって主にアメリカで、T型フォードが大衆化した。そして、トウモロコシの一代雑種と肥料、農薬、トラクター、コンバインの出現によって、生産は飛躍的に向上した。

 トウモロコシの飛躍的増産によって、家畜の飼料が安価に供給され、肉や卵や牛乳がアメリカに於いて、庶民の日常の食卓に登場するようになった。

 日本に於いては1940年代、1950年代に、家電が松下電器やソニーによって、洗濯機、冷蔵庫、テレビ(白黒)が家庭に普及した。

 1960年代の東京オリンピック、新幹線開通を起として、カラーテレビが家庭に普及することによって、多くの情報が家庭内に持ち込まれた。

 これらの情報には、有意義な情報も多くありますが、整合性に欠く情報、不誠実な情報、自分の現状の生活をよりみじめに感じさせる情報も多く、整理し、コントロールすることが、むずかしくなってきた。

 そして、これらの情報は、片方向の情報であるため、こちらから発信することを許さない情報であるため、人は本来コミュニケーションの動物であるため、情報のワンサイドゲームは、不満を残すことは避けられない。

 情報の一方通行、接客のマニュアル化にともなって、家庭や地域社会から会話(コミュニケーション)が減ってきたように感じます。

 しかしながら科学技術の発展によって、自然界に本来存在しない、合成樹脂や合成繊維、農薬、PCB、フロン、環境ホルモン……と自然界のシステム戻らない物質が、大量に出回るようになった。

 それに伴って、物は我々に便利さを与えたが、それが使用されなくなった時、有害物質として、我々の生活を混乱させ始めた。


 「物は置き場所、人には居場所」について書いてきましたが、そうたやすく解決策がある訳でもなく、本稿でも、問題を整理したのか、混乱したのか解かりません。

 しかし、小さな一歩は進めたと自負してます。政治家は自分の居場所を熱心に考え、官僚は自分達の居場所を熱心に考えますが、失業している若者の居場所について、考えようとしている試案さえ書かれてません。

 現代はお金を払えば、居心地の良い居場所がありそうに思えますが、一時的には満足できても、その居場所は、あくまでも一時的な物であって、やがて消え去っていくように感じます。

 自分の居場所は、自分で努力して、工夫して、はじめて得られるものかもしれません。最後に、「物は置き場所、人には居場所」の目次を記述します。

 (1) 物は置き場所、人には居場所 (はじめに)

 (2) 物とは何か、物やどのように分類すべきか

 (3) 物について、いくつかの分類方法について

 (4) 置き場所について

 (5) 人の居場所とは何か (人の居場所の全体像について)

 (6) 人は社会とどのように繫がりたいのか

 (7) 人間の三つの生き方について

 (8) 小さな南の島に桃源郷をつくる

 (9) ぼくらの村にアンズが実った (旱魃と植物園)

 (10) ぼくらの村にアンズが実った (菌根菌と樹種の多様性)

 (11) 社会のことを自分ごとに (島根県海士町の試み)

 (12) 森をつくる営みが農業である (アマゾンの日系人移住地トメアスで生れたアグロフォレストリー)

 (13) 森は海の恋人 (気仙沼のカキ養殖)

 (14) 情報の置き場所について

 (15) 物は置き場所、人には居場所のまとめ      

 (第15回)

 


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