チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「一〇三歳になってわかったこと」

2016-04-30 15:10:00 | 独学

 113. 一〇三歳になってわかったこと  (篠田桃紅著 2015年4月)

 著者の篠田桃紅は、1913年(大正2年)3月28日に、日本の租借地だった関東州大連に生まれる。5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。1956年に渡米。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。

 文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画(墨象)と呼ばれる。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。

 和紙に、墨・金箔・銀箔・金泥・銀泥・朱泥といった日本画の画材を用い、限られた色彩で多様な表情を生み出す。作品は国内外の美術館で展示され、現在(2016年5月)も現役です。


 『 これまで私は、長寿を願ったことはありませんでした。死を意識して生きたこともありません。淡々と、生きてきました。今でも、死ぬときはこうしよう、死ぬまでにこういうことはしておきたい、などなに一つ考えていません。

 いつ死んでもいい、そう思ったこともありません。なにも一切、思っていません。先日、死生観は歳とともに変わるのかと、若い友人に尋ねられました。私には死生観がないと答えました。彼女はたいへんびっくりしていました。

 考えたところでしょうがないし、どうにもならない。どうにかなるものについては、私も考えますが、人が生まれて死ぬことは、いくら人が考えてもわかることではありません。

 現に、私になにか考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世に出てきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。

 さすがに病気にならないようにしようということぐらいは考えます。しかし、死なないようにしようと思っても、死ぬと決まっています。死んだ後の魂についても、さまざまな議論がありますが、生きているうちは、確かなことはわかりません。

 人の領域ではないことに、思いをめぐらせても真理に近づくことはできません。それなら私は一切考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。 』


 『 静かに笑っているように見える。見る側がそう感じる仏像があります。なんとの言えない静かな微笑みに、自分の寂しさを微笑んで受け止めてくれていると感じる。

 それだから人は、仏像を見ると自然と拝みたくなるのでしょう。歌人の会津八一さん(明治十四~昭和三十一年)の歌に、法隆寺夢殿の救世観音を詠んだ歌があります。

 天地にわれ一人いて立つごとき  この寂しさを君は微笑む

 私は一人で天と地の間に立っている。この寂しさを観音様は微笑む、と詠んでいます。会津さんという人は、ご自分の孤独をここまで客観視することができる。秀逸な歌だと思いました。

 一人で立っているという孤独感をつねに持っていた人でした。一生、結婚されず、早稲田大学の教授で、お弟子さんはたくさんいましたが、偉くなりたいなどといった出世欲はない人でした。

 孤独に徹し、孤高の学者とも言われていました。私は、渡米する前の一九五〇年代に、展覧会などで会津さんにお会いしました。渡米してまもなくニューヨークで手にした日本の新聞で、会津さんの訃報を知りました。

 孤高の人でしたが、観音様をお連れにしていたのだと知りました。観音様もまた一人で立っている。この寂しさを君は微笑む、ほんとうの孤独を知っている人でなければ、こういう歌はつくれなかったと思います。 』


 『 日本人は、なにかあると「いい加減にしておきなさい」と言います。ご飯がおいしいからといって、食べ過ぎてはいけない。いい加減にしなさい。口論が激しくなっていく様子を見てとれば、いい加減にやめておきなさい。

 「いい加減」は、すばらしい心の持ち方だと思います。ほどほどに余裕を残し、決定的なことはしない。戦後まもなく渡米したとき、そこで知り合った日本人の通訳者が、こんな話を私にしてくれていました。

 ある通訳の場で、相手のアメリカ人が「お茶はいかがですか」と日本人に尋ねて、日本人は肯定も否定もせず「結構です」とこたえたそうです。「結構」 は 「いい加減」 と同じで、決定的な言葉ではありません。

 お茶が欲しいという意味の 「結構」 と受け止めることもできるし、要らないという意味での 「結構」 と理解することもできます。

 このとき、アメリカと日本の文化の違いを知る通訳者は、「恐れ入りますが、この国ではどちらかに決めていただく必要があります。イエス結構なのか、ノー結構なのかをおっしゃってください」と尋ね返したそうです。

 このように日本の文化には、余白を残し、臨機応変に、加えたり減らしたりすることのできる「いい加減」の精神があります。そしてこの精神は、長寿の心得にも相通じるのではないかと思います。

 たとえば、歳をとったら体を冷やすのはよくない、温かくしておいたほうがいいと言います。それでなくとも抵抗力は衰えているので、冷やすと、それが引き金となって体全体のバランスを崩しかねないからです。

 しかし、かといって汗をかくほど温かくすると、体内の機能は小さく縮みつつあるので、よけいな負担をかけてしまう。その人に合ったいい加減の温かさを保つことがいいのです。

 しかし、いい加減というと、あの人はイイカゲンなことを言う、イイカゲンな人、と否定的な意味で使われる場面が多くあります。本来は、ほどよい状態にするために加減するから、いい加減と言います。

 「お加減はいかがですか?」と尋ねれば、体の具合は良くなりましたか、それとも思わしくないですか? という意味です。「お風呂の温度はいい加減です」と言えば、ちょうどいいお湯の温度だという意味です。

 中国の孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と、度が過ぎることも、不足することも、同じように良くないと言ってます。そして「中庸の徳たるや、それ至れるかな」とも言っています。

 元来、人は、食べ過ぎてもいけないし、少な過ぎるのもいけない。飲み過ぎるのもよくないけれど、長生きしたいからと言って、我慢してやめるのでは、生きている甲斐がありません。

 働き過ぎるのはよくないし、なにもせずにゴロゴロしているのもよくない。なんでもいい加減に調整するのがいいのです。歳をとると、ますます体の機能範囲は狭くなりますから、ちょっとした偏りが大きなダメージになります。

 食事、睡眠、仕事、家事労働、人間関係など、あらゆる面で、その人に合ったいい加減さを保つことができれば、もう少しの長生きを望むことができるのではと思うこのごろです。 』


 『 アメリカ屈指の美術批評家、ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・キャナディ氏が、生前、私にこんなことを言いました。「絵には作品名がないほうがいい。作品名があると、見る側がそれに左右されていまう。自分の目で判断しているので、僕は展覧会へ行っても、作品名は見ない」

 もちろん、キャナディ氏は、ギャラリーから作品の説明は一切、受けません。作家本人に会うこともしませんでした。説明を受けたら、自分の判断が鈍るかもしれない。作家に会うと、情が移るかもしれない、と考えたからです。

 自らを律した厳しい目で作品を見て、批評をしていました。それだから、世界的な美術批評家として高い信頼を得ていたのでしょう。キャナディ氏に否定的なことを書かれたら、アーティストとしておしまいだと、美術関係者はおそれていました。

 このごろはずいぶん減りましたが、私も、展覧会などで、「これはなにを表している絵なのですか?」とよく聞かれたものでした。絵というものは、自分のなかに湧いてくる思いを、目に見えるようにしたものなので、なにを、という質問には、私はいつも戸惑いました。

 絵に表れているものこそが、質問の「なにを」で、そしてその「なにを」で、そしてその「なにを」は見る人によって、どのように受け止めてもいいものだからです。

 人は、説明を頼りになにかを見ていると、永遠に説明を頼りに見えるようになってしまいます。パソコンや携帯電話などの機器を買うとき、人を頼りに買っていれば、使うときも人頼りになります。

 機器を使いこなす楽しみを自ら放棄していることになります。参考にできることは、おおいに参考にしたほうがいいと思いますが、頼るのではなく、自分の目で見て、考える。キャナディ氏の言葉は、私たちの日常の生きる姿勢にも通じると思います。 』


 『 昔、私の展覧会でのことです。ある人が私に、「墨で線を引けばいいだけだろう。こんなもの誰だって描けるよ」と言うので、「それなら、あなたもおやりになったらどうですか」と応じたことがありました。

 のちに、「悪かった」と謝ってきましたが、誰かがやったことを自分もすることは、誰にもできることです。しかし、まだ、誰もやらないときに、それをやった、ということが大事です。

 まだ誰もやらないうちにやった人は、それだけの自信を蓄え、自分の責任でやっています。その結果が、受け入れられるか、受け入れられないかはわかりませんが、なかには、高く評価してくれるかもしれませんし、認めてくれる人がいつか現れるかもしれません。

 人の成功を見届けてから、私もできます、と言うのは、あと出しじゃんけんをしているようなものです。

 誰もやらないときに、やった、ということで、私は最初に思い出すのは、二十世紀のアメリカの画家、ジャクソン・ポロックです。私が一九五六年に初めて渡米したとき、最も会いたかった人でした。

 彼は、当時、まだ誰もやらなかった、絵の具を、筆ではなく、撒いて描きました。彼の作品を見て、私は、子どものときにさせられていた水撒きを思い出しました。

 家の玄関から門まで続く踏み石に、柄杓で水を撒いていたのですが、垂らしたり、飛び散らせたり、自分の撒き方次第で、水のかたちがさまざまに変わり、撒いた水に濡れて、踏み石の景色が移り変わるのを、子ども心ながらに美しいと感じて、眺めていました。

 ジャクソン・ポロックは、白いキャンパスを床に広げて、キャンパスの上から、絵の具の入ったバケツを手に、撒いていましたが、撒くという新しい描き方を生み出し、絵というものは自由に描いていいものだと、人々の心を解放しました。

 そうした手法は、アクション・ペインティングと呼ばれるようになり、のちに大きな芸術運動の基礎にもなりました。しかし、彼自身は、ひどい躁鬱病に苦しみ、自らが運転する車を大木にぶつけて、四十四歳で亡くなりました。

 それは自殺としか思えない事故死で、いまだ自殺なのか、事故死なのかは謎です。彼がニューヨークで事故死を遂げたとき、私は自分の展覧会のためにボストンにいました。ボストンに行く前に、ニューヨークに立ち寄っておけばよかったと、今でも時折、悔やみます。

 若くして亡くなったジャクソン・ポロックは、自分のやったことが、世界の美術界に多大な影響を与えたこと、百五十ドルでしか売れなかった自分の作品が、のちに史上最高額の一億四千万ドルの値がついたことを知りません。

 彼のように、誰もやらないときにやった人がいたから、新しい境地が拓け、後世の私たちもそれを享受することができています。 』


 『 「真実は皮膜の間にある」  これは、人形浄瑠璃、歌舞伎の作者、近松門左衛門の有名な言葉です。もちろん科学的に、皮と膜の間にはなにもありません。なにもないのに、そこに真実がある、というのは、どういうことでしょう。

 私の従弟で、近松門左衛門が書いた「心中天網島」を映画化した篠田正浩は、言葉と言葉の間にあるという意味だろうと、私に言いました。

 真実は、言葉にしえないし、文字にもしえない。想像力を頼りにしなければ、語れないもの。近松門左衛門は、そういいたかったのでしょう。

 たとえば、悲しい、という言葉一つとっても、悲しいという感情が主体であっても、寂しさや辛さなど、ほかの感情が微かに混ざっているかもしれません。

 心の奥底には、本人も自覚していない安堵感もあるかもしれません。ですから、悲しい、と言葉にした時点で、ほかの多くの感情は失われてしまいます。

 伝えきれないもどかしさ、寂しさ、表現には限界があり、そして真実自体も、本人すらはっきりとわかりえない神秘的な、不思議な部分があります。

 真実というものは、究極は、伝えうるものではない。ですから、私たちは、目に見えたり、聞こえたりするものから、察する。そうすることで、真実に触れたかもしれないと感じる瞬間が生まれるのかもしれません。

 真実は、想像のなかにある。だから、人は、真実を深し続けているのかもしれません。 』


 『 私が通っていた女学校に、北村ミナ先生という英語の教諭がいました。英語をわかりやすく、ときには英語の歌も取り入れて、これはやさしいメロディーだから歌いましょう、と言って、英語を楽しく教えてくれる先生でした。

 そのナミ先生が、実は北村透谷の未亡人だったことを「北村透谷全集」が立て続けに刊行されたことで、私たち女学生は知り、学校中、大騒ぎになりました。

 そのころ文学全集といえば、たいていの家庭が買っていたもので、編纂は当代の人気作家、北村透谷の友人の島崎藤村によることからも、注目を集めました。

 北村透谷という人について知識のなかった私たちは、明治時代、自由民権運動に関わった近代を代表する評論家であり、詩人であること。

 大恋愛で結婚をし、二十五歳の若さで自殺。その大恋愛のお相手が、ミナ先生だったことを知りました。

 著名な代議士の娘だったミナ先生は、親の決めた許嫁との婚約を破棄し、反対を押し切って、貧しい透谷と結婚したとのことで、透谷が自殺してからは、単身で渡米し、アメリカの大学で学位を取得していました。

 自分で相手を選んで結婚するなんてことは、世間では御法度。とんでもない不良娘だとされていた明治時代に、さらに渡米までして、学位を取得。

 私たちは、ミナ先生は先駆的な女性だと感心し、特に三歳上の姉の学年は、学年中が先生の大ファンとなり、結婚する相手は自分で見つけなくてはね、と互いに言い合っていました。

 女学生たちには憧れの的でしたが、大人たちは、ミナ先生のような生き方ができる人は特別な人なのだから、真似してはいけない、と私たちをいさめていました。感化されては困る、と思ったのでしょう。

 私は、ミナ先生のことを思い出すと、明治・大正時代の人は、新しい精神に憧れて新しい生き方をした、今の人とは違う理想主義的なものを感じます。

 もちろん、ミナ先生のような人は、ごく一部でしたが、自分は新時代を生きなければと覚悟し、向う見ずのような勇気がありました。まだ封建的な時代でしたから、想像を絶する困難と苦労が伴ったことと思います。でも、ずっといきいきと生きていたように思います。 』


 『 初めて渡米した一九五六年のクリスマスのことです。私は、ギャラリーの女主人、画家夫妻とともに、ある家庭のクリスマスディナーに招かれました。夫はスペイン系の彫刻家、妻は英国人の記者、お二人の間に子どもがいました。

 食卓には、メインディッシュの大きな七面鳥が供され、続いて、デザートに、ブランデーで炎を上げたクリスマス・プディングが出されました。

 プディングのなかには、紙に包まれた二十五セントのコインが入っているとのことで、切り分けて、誰にそのコインが入っているかで、その運を占いました。

 コインは私のなかに入っていました。私はみんなから口々に祝福され、「こうしたクリスマスの祝い方は、妻の祖国である英国式である。来年は僕のスペインの式でクリスマスを祝うことになっており、毎年、交互にしている」と夫に説明されました。

 その言葉を聞きながら、私は、どちらか一方の文化に従うのではなく、お互いの習慣を尊重して、ともに楽しもうとする家族の姿に、深く感心しました。

 また、これはニューヨークのある一流ギャラリーのオーナーが自宅で開いたパーティでのことでした。集まった人たちは、国籍もさまざまなら、服装もばらばらでした。

 著名な女流彫刻家は、白いタフタのイブニングダレスをまとって、裾から背中まで、泥をはね上げてやって来ました。その夜は雨だったのですが、車からわざわざ降りて、セントラルパークで泥をはね上げ、泥模様をつくってから来たと、私に言いました。

 そうかと思うと、頭のてっぺんからつま先まで、グレーのシルクで全身を覆っている女性もいました。見えるのは両目とおへそだけ。彼女はある国の大使の娘で、一流ファッション誌のモデルをしてました。

 タキシード姿の若い男性を伴っていました。また、スペイン系の人なのでしょうか、黒のジョーゼットのブラウスを着た中世の騎士のような姿の男性もいましたし、カジュアルなジーンズ姿の人もいました。

 このように、さまざまな人種、文化、習慣を持つ人々が集まるニューヨークでは、なんでもアリ。お互いに文化を持ち寄っているのでなにがいいかなんて決めつけることはせずに、違うことを面白がっている。

 こんな楽しい街はない、と私は思いました。影響を受けることも、それによって変化することもいとわない。いつも新しくなにかをつくろうとしていました。

 オーナーはというと、一人になりたい人は壁に向かってどうぞ、と椅子を全部壁面に向けて置いた部屋を用意していました。パーティーの趣旨とは真逆なはからいでしたが、みんな面白がっていました。 』


 『 私は、友人の誰よりも長生きしてしまっていますから、折にふれて、志高く、生きた友人たちのことを思い出します。なかでも、エドウィン・ライシャワーさんと松方ハルさんは、私と同じ世代で、いろいろと思い出があります。

 お二人が駐日大使夫妻として、東京に住んでいたときのことでした。私は、随筆を書いていて、あらっ、これはいつだったかしら、と思って、エドウィンとハルさんが同じマンションの最上階に住んでいたときに、聞いたことがありました。

 そうすると、エドウィンは、それは応仁の乱の前ですから、とすぐに教えれくれました。日本の歴史を熟知している学者にはかなわない、と感服しましたが、相当な日本通でした。

 彼は、戦後まもない日本とアメリカの折衝で、両国のパートナーシップを築くなど、大切な責務を担ってましたが、日常生活においても、日本の文化を深く理解し、実践に生かしている人でした。

 たとえば、ある暑い夏、さーっと夕立が降ったあとのことです。彼は空を見上げて、「いいおしまりですね」と私たちに言いました。

 「今どき「おしめり」なんて高級な日本語を知っている日本の人は、あんまりいませんよ」と私が言うと、「そうですか」といいましたが、別のときには「根回しがたりなかったんですね」と言ったことがありました。

 彼は、日本文化の魅力を心で受け止め、「おしめり」という言葉の持つ、深い情緒を理解していました。「雨が降って涼しくなった。よかった」と言うのと、「いいおしめり」と言うのとでは、運泥の差です。

 「おしめり」のような、日本独特の情報と表現の仕方、英語には同じ言い回しはありません。アメリカと日本の両方に熟知したいたからこそ、かれは、日本人が忘れ去るのは惜しい、と思いながら、使っていたように思います。

 エドウィンとハルさんの願いは、アメリカと日本の架け橋になることでした。自分たちを無にして、尽力されていました。世の中には、ときどき、お二人のような、立派な人がいるおかげで、社会は浄化され、なんとかもっているのではないかと思います。

 お二人は死後、二国間を隔てる大平洋に遺灰が撒かれることを希っていました。 』


 『 ジョン・D・ロックフェラー三世(1906~78年)は、父のジョン・D・ロックフェラー・ジュニア(二世)の遺志を継いだ、たいへんな慈善家でした。

 慈善活動を行うために母体となる財団を幾つも設立し、公共、私立の文化、教育、医療機関などへの支援を熱心に行っていました。

 その支援は、米国内にとどまらず、戦後のアジアとの文化交流を円滑にさせるため、アジア・ソサエティを設立し、財政破綻をいていたヤッパン・ソサエティも復興しました。

 巨万の富を得た一族の長男自らが、生涯を慈善事業に費やした、桁外れのスケールの一端を、その時代、アメリカで作品を発表していた私は、垣間見ることがありました。

 ジョン・D・ロックフェラー三世のブランシェット夫人に、何回か食事に招かれ、また、ジョン・D・ロックフェラー二世が寄贈したメトロポリタン美術館の別館、ハドソン河沿いのクロイスターズ美術館にも案内していただいたことがあります。

 すばらしい庭園を抜けると、河岸には舟が係留されており、ハドソン河の遊覧を楽しむことができました。マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニングなど、当代の抽象表現主義の旗手といわれた画家たちの絵、そして私の絵もクロイスターズ美術館に、当時保管されていました。

 ブランシイェット夫人もまた、慈善家として忙しく過ごすかたわら、アジアのアート、そして近代アートの支援と収集を熱心に行っていました。

 戦後まもない年から、積極的にニューヨークの近代美術館の運営に関わり、理事も務めていました。彼女には私設のキューレーターが数名おり、収集するアート作品の候補を選んでいました。

 私の作品展のときもそうでしたが、最初は一人が観に来て、その人がいいと思ったら二人目が観に来ます。二人以上のキューレーターが推薦すれば、収集の対象となりました。

 そのことを私が知ったのは、二人目が観に来たとき、たまたま私もギャラリーに居合わせたからでした。ギャラリーのオーナーに、あの人はロックフェラー夫人のキューレーターだから、あなたはすぐに隠れて、と言われました。

 美術批評家もそうでしたが、キューレーターもまた、作家に会うことで、作品への厳選な判断が損なわれることを嫌ったのです。身を隠した私に、オーナーが事情を説明してくれました。

 また、ニューヨークのリンカーンセンターで公演されたメトロポリタンオペラのボックス席に招かれたときのことでした。

 リーンカーンセンターは、ジョン・D・ロックフェラー三世が主軸の一人となって設立された、総合芸術施設で、のちに彼は、リンカーンセンターの会長、名誉会長に就任しました。

 ボックス席は、ロックフェラー家が年間購入したもので、ブランシェット夫人は、チェック柄のスーツ姿で現れました。その前にお目にかかったときと、まったく同じ身なりでした。

 当時、世界一のお金持ちと称されていた一族でしたから、私は、偶然、、続いたのだと思い、お付きの人に、「ミセス・ロックフェラーは、よほどチェック柄のスーツがお気に入りなのですね」と言いました。

 すると、「ミセス・ロックフェラーは、お気に召した洋服は、同じものを二十着ぐらいはお作りになります」。それを聞き、私は、これは話にならない、と思いました。

 高級ブランドを取り替え引き換え着て装うという次元ではない。いつも同じ服、それでかまわなかったのです。自分を見せびらかそうという感覚がない。

 乗せていただいた車もそうでした。型が古く、オールドスタイルと言っていました。しかし、エンジンは最新のものを搭載していました。

 美術家がゆえに、私は、こうした世にも稀な人に会うことができたわけですが、ジョン・D・ロックフェラー三世のご実家は、世界の美しいアートや工芸品に囲まれていたそうです。

 それは、ご自分たちが好きだったということもありますが、子どもたちが物心ついたときから、世界中の「美」に触れていれば、おのずと、その「美」を生み出した文化とその人々に対して、敬愛の念が培われるという、ご両親のジョン・D・ロックフェラー二世とアビー夫妻の教育信念によるものだったそうです。

 美しいものは、多少の好みはありますが、どの国の人も美しいと感じます。そうした敬愛の念を抱けるものが地球上で増えれば増えるほど、共通の心を持つ人は多くなり、価値観の違いや自己の利益を第一とした戦争は少なくなっていく。そう考えたのではないかと、私は思います。 』


 『 近ごろ、私の身のまわりでは、欠けたり、はがれたりして、ガタがきている物がポツポツと出てきました。あるじが、思いもかけず長生きしてしまっているのですから、すっかり疲れ果てていまったのでしょう。

 これまで、私は、買うことを目的にして出かけたことは、ほとんどなく、訪ねた先でたまたま出会い、縁があり物を手に入れてきました。そうした物は、物が水先人となって、私を、昔懐かしい人、懐かしい時間へと引き戻してくれます。

 おそらく誰にも、そんな思い出の一つや二つ、あると思います。私は、五歳から親しんできた書を、今でもよく書いていますが、題材にしているのは、自分の好きな古典の歌です。

 そして、昔は、国民的な詩人だった三好達治さんの詩が好きでよく書いていました。有名な詩集「艸千里」は、丸暗記してしまったほどです。三好さんの詩は、古典的な調べなので、古今集を書いているようなリズムで、書けたことも一因でした。

 三好さんに、初めて会ったのは、戦後まもなく、文藝春秋の本社が銀座八丁目にあったときでした。文芸春秋の地下の文春クラブでお茶をしていたところ、ちょうど、三好さんもお茶をしていました。

私が三好さんの詩を好きなことを知った編集者は、すぐその場で引き合わせてくれました。

 しばらくお話をしていると、三好さんが、今日はこれから上野のほうの古道具屋をまわろうと思うから、一緒にいらしゃい、と言って、初めてお会いしたその日に、古道具屋をまわることになりました。

 あるお店で、三好さんが、黒漆の筆箱を見つけて、桃紅さん、これをお買いなさい、と強い口調で言ったので、私は言われるがまま買い、ほかの店では、藍染の文様入りの陶筆を手にして、これは汗ばまないから、と言って、プレゼントしてくれました。

 三好さんは、古道具屋を巡るのはたいへん好きだと言い、ご自分には、好きなお酒を注ぐ伊羅保焼の徳利などを買い、私たちは、日本橋で食事をしてから帰りました。

 また、これはある晩のことでしたが、小料理屋で食事をしていると、お店の柱に胡蝶が止まりました。三好さんは、お店の主人から、品書きを書く経木を一枚もらうと、さっと、俳句を書き付けました。

 秋深し 柱にとまる 胡蝶かな

 六〇年ぐらい前のことでしたが、私の手元にある、筆箱、陶筆、俳句が書かれた経木は、いつでもその日のことを、鮮やかに思い出させてくれます。 』 (第112回)