チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「読むだけで禅修行」

2018-11-30 09:43:45 | 独学

 178. 読むだけで禅修行  (ネルケ無方著 2014年9月)

 著者は、ドイツ人で、京都大学留学中に禅に出会い、現在、安泰寺住職です。私たちは、日本人ですが「禅とは何か」と問われて、答えられる人は、あまりいないと思います。では、読んで行きましょう。

 『禅の考えでは、生活そのものが修行です。禅の実践はつまり、ただ生きること。一日二四時間のあいだ、修行ではない時間は一分もありません。

 わたしが住職を務める安泰寺(あんたいじ)では、朝の三時四五分に起床して、四時から暁天(ぎようてん)座禅が始まります。しかしそれ以前に、顔を洗うことや布団をたたむことから、修行はすでに始まっています。

 それから食事をいただくのも、掃除をするのも、日中の作業も当然、修行です。トイレに行くのも、お風呂に入るのも、また同じく修行とみなされています。そういう修行は禅寺でなければできない、ということでは、もちろんありません。

 一般社会の中で普通の生活をしながらも、修行として一日を過ごすことはできるのです。そこでまず考えたいのが、「修行」という言葉の中身です。英語ではプラクティス(practice)と訳します。つまり、実践です。

 何を実践しているかといえば、仏(ほとけ)の教えです。仏法に沿って、菩薩となって生きることがすなわち修行なのです。その具体的な方法を、一日一日の実践として示すことがこの本の狙いです。

 わたしが繰り返し申し上げるキーワードの一つは、「自分を手放す」です。「手放す」というのは、ぼんやりすることではありません。そうではなく、「今ここ」に立ち返るために自分の囚われから自由になることです。

 一日の時間を修行として送るにあたって、まず見返りを期待しないことが一番大事です。わたしたち人間は何かを追いかけて生きていることが常です。

 それはお金だったり、他人の評判だったり、異性だったり、あるいは自己実現だったりします。あるいは「悟り」を求めて修行に臨んでいる人もいますが、それはしょせん鼻の前にぶら下がったニンジンでしかありません。

 安泰寺の五代目住職・澤木興道老師(1880~1965)が「得は迷い、損は悟り」といわれたのは、そのためです。悟りを得ようと思っているあいだ、その悟りは遠くへ逃げてしまいます。

 悟りも含め、一切を手放すことから修行が始まらなければなりません。それでは、手放すためにはどうしたらよいでしょうか。答えは簡単、「ただする」ことです。掃除のときはただ掃除をし、仕事の時はただ働く。

 食事はただ食べ、トイレではただ用を足せばよい。しかしその「ただする」とは、「ただなんとなく」という意味では決してありません。今、この一瞬の命をただ生きることです。

 実は、「ただ生きる」ことほど難しいことはありません。どうしても意味らしいもの、答えらしいものを求めてしまうからです。 』


 『 安泰寺では、座禅を行なう禅堂の中に入るときは左足から、外に出るときは右足からと、昔から決まっています。「それはどういうワケがある? その逆ではダメなのか?」

 住職のわたしにそういうふうに問いかけてくる参禅者も少なくありません。安泰寺には外国人の参禅者も多く、特にわたしのような理屈っぽいドイツ人などは、何にでも意味を求めたがります。

 頭の中で納得して初めて行動しようとするのです。「左は陰で、右が陽。陰である内側に向かうときは左足、陽である外側に向かうときは右足……それが理由かなぁ」

 しかし、ここで陰陽の哲学を知ったとしても、それこそ意味がありません。座禅するだけなら、右足から入っても左から出ても、あるいは、逆立ちで出入りしても、できるのですから。

 参禅者にとって重要なのは、歩き方の意味などではなく、この一瞬、この場所で、前へ一歩踏み出したそのときの、自分自身の心です。つまり、「実際に歩いて見なければ、何も分からない」ということ。

 それなのに理屈にこだわって、一歩一歩に集中できないとしたら……。なにも禅寺の境内にかぎった話ではありません。日常の街中でも同じです。昨日の出来事を引きずりながら歩いている人もいる。

 明日に向かって頭の中で計画を練っている人もいる。あるいは、スマホの画面を見ながら歩いている人も。歩くこと以外のことに心を奪われています。

 街を歩くときにかぎらず、毎日の暮らしのあらゆる場面で、やるべきことに集中できずに、何か別のことを考えている自分がいる。気がつけば、わたしたちは何かにとらわれて生きていることが、なんと多いことでしょうか。

 そういうわたしたちに共通しているのは、「今ここ」をおろそかにしているということです。みぎ・ひだり、みぎ・ひだり……その一歩一歩に自分の心がこもっていなければ、人間はやがて立つ瀬を失ってしまいます。

 思えば、わたしもそうでした。「人生の意味はなんだろう」 この疑問がふと頭に浮かんだとき、わたしはまだ小学生でした。人生の意味がわからなければ、生きていても仕方ないと思っていたものです。

 そのときの状態を振り返れば、それはまるで深い穴の底で暮らしているようでした。わたしをその穴から救ったのは、禅との出会いでした。禅が提供してくれた答えを簡単にいうなら、こうです。「人生に意味なんて、ありゃしない。自分の思いを手放して、ただ生きることだ」

 禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」といい、理屈を極端に嫌うフシがあります。だからといって、仏典を勉強する必要がないというのはウソです。また、禅僧がいつもじーっと黙っているわけでもありません。

 「ああでもない、こうでもない」と理屈をこねる禅僧はわたし一人ではないのです。理屈では真実そのものを表すことはできませんが、真実の向かって指すことはできます。禅ではそれを「指月の法」(しげつのほう)といいます。

 真実そのものは空に浮かぶ月のようなものです。言葉は、その月を指し示すユビでしかありません。しかしユビで指さなければ、月に気づかない人もいるでしょう。そのため、禅寺でも言葉を頼りに勉強するのです。

 安泰寺では、五日間に一度「輪講」を開催します。輪講とは、参禅者の一人が当番制で仏典を読み、自らの生活に照らし合わせて解釈を述べる修行です。修行仲間はそれについて鋭い質問で突っ込んだり、異なる持論を述べたりもします。

 わたしもその輪講に加わることがあります。弟子は師匠に横からにらまれながら真剣勝負をしているのです。安泰寺の参禅者には外国人が多いため、仏典を原文で読み上げた後に、まず英語に訳します。

 漢文や鎌倉時代の古い日本語を英語にすることによって、日本人でも新たな意味が見えてくることがあります。それから言葉の内容を現代語と英語で説明し、全員でディスカッションをする。このときもさまざまな言葉が飛び交うことがあります。

 一概には言えませんが、私の日本人の弟子の中にはおとなしい人が多いようです。「このテキストを、あなた自身はどういうふうによんでいるわけ?」とわたしが問うと、どういうふうに読んでいるって、書いてあるとおりにしか読んでいないけど……」と答えるのが日本人のよくあるパターン。 

 その読み方にはつまり、自分の解釈がありません。これではダメです。一方で欧米人に多いのは、原文をそっちのけにした、わがまま勝手な解釈です。

 それはそれで面白いときもありますが、ほとんどが幼稚な自己主張で終わってしまいます。それでは、仏典から学んだことにはなりません。 』

 以上は”はじめに”の前半部分です。次に三十四ある仏教用語の項目の中から、三つを選んで読んでいきます。

 『 身心脱落(しんじんだつらく)  

 仏教の眼目、それは解脱することです。解脱のことを、英語では、「liberation」(解放)と訳しています。つまり、束縛から解放されること、それが解脱なのです。

 問題は解放にいたる道筋です。どうしたら、束縛から自由になれるのでしょうか。この問いに答える前に、まずわたしたちがどうして不自由を感じてしまうのか、その理由について考えてみまよう。

 わたしたちが「なに不自由ない」というのは、好きなことができる、欲しいものが手に入る、物事が思うとおりになるといったときです。しかし、それは「自由」と「気まま」の履き違えではないでしょうか。

 仏教では、「気まま」「やりたい放題」を決して自由な生き方とは考えず、「欲しいまま」と呼んでいます。もっとも不自由なのは、欲しいままに生きている人です。

 欲しいままに生きている本人は自由のつもりでも、実は自分の欲望の奴隷になっているのです。束縛は外的なものではありません。自由でありたいと願っていながら、自分を不自由にしているのは、わたしたちの心です。

 縛られているのではなく、自分で自分を縛っているのです。「これが欲しい」「あれがしたい」という思い、それが束縛の正体なのです。

 ですから、わたしたちをその束縛から解放させるのも、自分自身の働きでなければなりません。自分を縛っているその紐を一本また一本、自分で解いていかなければなりません。

 一番分かりやすいのは、所有物に対する執着です。仏道の入り口とされているのは、「お布施」ですが、小さな寄付であっても世のために役に立つばかりではなく、まず何より自分の束縛の紐を一本解くことができます。

 しかし、物ばかりの話ではありません。人間関係がギクシャクして、相手と意見が合わないときに、自分を無理に押し通そうとしてもうまくいくことはまずありません。相手もそう簡単には引かないからです。

 むしろ自分が譲れば、相手も譲ろうというきもちになることが多いのではないでしょうか。そうすれば、結果的には自分も相手も自由になれるのです。

 道元禅師はこの不思議なカラクリを「はなてばてにみてり」という言葉で表現しています。手放してこそ、手のひらの上で発見できるものがあるという意味です。

 小さな額のお布施も、身近な人にかけた思いやりの言葉も、手放しの実践です。そういう些細な実践でも、仏道の実践にほかなりません。その実践を日々やり続ければ、いずれは解脱を実感することもあるでしょう。

 道元禅師はその実感を「身心脱落」という言葉で表現しています。そして解脱の力は、その人だけにとどまりません。一人が自分を手放せば、その人と縁のできる人にも、「放てば手に満てり」という不思議な力が伝わります。 』


 『 一日不作、一日不食(いちにちなさざれば、いちにちくらわず)

 インド仏教では、修行僧が労働することは固く禁じられていました。田畑を耕せば、土の中のミミズを殺すこともあるでしょう。それは不殺生戒に触れます。また、作物に対する執着も湧いてきます。

 ですからインドの修行僧は、あらゆる執着を捨て去る意味合いもあって、托鉢だけに頼っていました。タイやスリランカ比丘(びく:南方仏教のお坊さん)は、今日もその生活スタイルを守っています。比丘がクワやスコップを持つのは、とんでもないことです。

 中国に仏教が伝わった当初ももちろん、この戒律は守られていましたが、唐代の中頃から仏教界の堕落が問題視され、一時的にお坊さんへの寄付が朝廷によって禁じられたこともあったようです。

 多くの叢林(そうりん:僧侶の共同体)はそのときから廃滅に向かってしまいました。ところが、その大ピンチをチャンスに変えた人がいました。それは百慧海(ひゃくじょう・えかい:749~814)という禅僧でした。

 百丈禅師はその「百清規:ひゃくじょうしんぎ」という僧侶の生活マニュアルの中で、戒律を抜本的に改革しました。作務すなわち肉体労働こそが、仏弟子に一番ふさわしい修行だと言って、従来の考え方を一八〇度ひっくり返しました。

 そしてその思考の転回こそ、仏教の後世への発展につながったといわれています。さて、その百禅師ご自身も田畑に出かけ働いていたことはいうまでもありません。

 弟子たちが禅師のお身体を心配していたほど、ご高齢になられてからでも作務に精を出していたのです。ある日、作業小屋に行った禅師は、そこで自分のクワやスコップをいくら探しても見つけることができませんでした。

 どうやら、弟子たちがそれらを隠してしまったようです。禅師は仕方なく、自分の部屋に帰っていきました。ところが、食事の時間になっても百禅師は部屋から出ようとしません。弟子たちが呼びに行くと、有名な禅語が返ってきました。

 「一日不作、一日不食」(一日作(な)さざれば、一日食らわず) その後、弟子たちが禅師の道具を返したのはいうまでもありません。

 ところで、禅師の言葉がよく知られるようになったわりには、その言葉の真意はあまり深く理解されていない気がします。無駄メシを食べてはいけない、という意味ではありません。むしろこういうことではないかと思います。

 食べ物は天地からいただいた命の源です。食べることによって、仏道を歩むためのエネルギーも湧いてきます。ですから、食べることも大事な修行なのです。

 そして作務のエネルギーも、天地からいただいたものにほかなりません。作務という仏道修行は、食べることと同等です。作務は食べるための手段ではなく、同じ天地いっぱいの命の贈り物なのです。

 ですから「一日不作、一日不食」は世間でいわれている「働かざるもの食うべからず」とは基本的に違います。また、それは「働いた分だけ受け取ろう」というような交換条件でもありません。

 働いた人だけが食べられるというのではなく、あらゆる人が天地いっぱいの力によって働かせていただき、食べさせていただいているということです。働かせていただけないことは、生かしていただけないことを意味します。

 百禅師の時代にはまだ雇用問題はなかったでしょうから、彼には先見の明があったのかもしれません。人から仕事を奪うことは、その人から生きる意欲を奪うことなのです。「作」も「食」も同じ「大いなる命の働き」です。

 その働きに生かされて、「今日この一日を作る」のです。敢えて漢語風に表現するならば、「作一日」という三文字に凝縮できるでしょう。

 悲しいかな、天地の命の力が一番身近に感じられる田畑の仕事に携わっている日本人の数は減っているそうです。田舎に行けば、荒れている田んぼがたくさんあります。

 都会で仕事が見つからない人、あるいは会社勤めを終えた人が畑や田んぼを耕すというのも、仏教を深める一つの修行になるのではないでしょうか。田畑を耕すということは、自分の命を耕すことでもあるからです。 』


 『 日々是好日(にちにちこれこうじつ)

 中国の唐末から五代十国時代にかけて活躍した雲門(うんもん)禅師(八六四~九四九年)は、多くの公案(こうあん)の題材を提供しました。公案とは、修行僧に出される試験問題のようなものです。

 雲門禅師は、「仏とは何か」という弟子の問に対して、「乾屎橛(かんしけつ)」と答えました。所説はありますが、乾屎橛はどうやら尻ぬぐいに使われた、へらのような木製の道具です。

 どうしても上の空を向きがちな弟子たちの視線を、今ここにある日常に向かわせようとしたのが、この雲門禅師の言葉の狙いです。雲門禅師の言葉の中でもっとも有名なのは、「日々是好日」でしょう。

 読み方として、「にちにちこれこうにち」や「ひびこれこうじつ」というものがあるようですが、わたしは「にちにちこれこうじつ」として教わりました。まぁ、読み方にこだわる必要はないと思います。

 まずこの言葉の背景からご説明しましょう。ある月の中日、十五日のことだったのでしょう。雲門禅師は弟子たちに向かって、こう問いました。

 「十五日以前のことはどうでもよい。十五日以降のことについて、誰か一言を持ってこい。ここに出てくる「十五日」とは、わたしたちが今生きている、今日のことです。

 過ぎ去ったことにとらわれてしまい、くよくよしたり、いらいらしたりするのは人間の常ですが、雲門禅師の問いかけは「そんなことよりも、ここからどっちを向いて一歩を踏み出すか」という意味ではないでしょうか。

 ところが、雲門禅師の弟子の中で、発言するものは誰もいなかったようです。そこで雲門禅師が自ら言いました。

 「日々是好日」 この言葉はとても有名ですが、その意味について誤解している人が少なからずいるかもしれません。決して「毎日を楽しく生きていこう」というレベルの話ではないのです。

 そもそも、人生は毎日が楽しい事ばかりというわけにはいきません。いい日もあれば、悪い日もあります。晴れたり曇ったりの毎日です。もちろん、雨の日もあるでしょう。

 さて、安泰寺では六月、田んぼに植えられた苗と苗のあいだを、毎日のように田車(たぐるま)を押して歩きます。田車とは、日本人の知恵が明治時代以降に生み出した、田んぼの除草のための道具です。

 これから大きく育つはずの稲株のあいだを耕しながら、田車についた爪で草の根を浅く掻き廻します。そうすると、除草剤を使わずに雑草を抑えることができるのです。

 雨の日には、田んぼの泥沼の中に入って田車を押すのはなかなかの重労働です。なぜそんなことをするかといえば、一年分の米を育てるためです。今日も、明日のことを考えて生きていかなければなりません。

 しかし、どの日を取っても、わたしが今生きているかけがえのない「今日、この日」ということも、忘れてはいけないでしょう。今日、この日以外には、わたしたちの生きる時間はありません。

 この日は過去のどの日とも、未来のどの日とも違う一日なのです。この日を今、わたしたちが生きている、生かされていることは、なんとも不思議で尊いことではないでしょうか。

 五月には田植えの日々、六月には田車の日々があるからこそ、秋には稲刈りの日々もあるのです。そのどれを取っても、人生ではたった一回しか訪れることのない一日なのです。

 今日、この日のために、全力をつくして、自分の人生の中の最善の一日にしようと務める子と……、「日々是好日」という言葉で雲門禅師が提唱しようとしたのは、そういう生き方ではなかったでしょうか。 』 (第177回)


ブックハンター「五峰の鷹」

2018-11-19 13:54:03 | 独学

  177. 五峰の鷹   (安倍龍太郎著 2013年12月)

 私は始めて、安倍龍太郎の小説を読んだのですが、小説家は通常文系の作家によって書かれるため、科学技術的記述は、少ないものです。

 本書の肝の部分は、ポルトガルから伝来した鉄砲と弾薬を日本人の手によって、造られる話です。私も、鉄砲を日本人が見て、刀鍛冶の技術があったから、つくることができたと思っていました。

 鉄砲や弾薬を造るには、国外から調達しなければならない原材料や完成品とするために技術と技術者と富を集積することが、必要であったと書かれていました。

 さらには、著者は久留米高専(機械工学)の出身であることを知って納得しました。では、ほんの一部ですが読んで行きましょう。

 『 清十郎もそれにならった。いつの間にか酒を楽しむ余裕ができていた。「王烈、わしが嬉しいのは、自分の考えを初めて他人の口から聞いたからだ」 「さっきの火薬の話か」

 「そうだ。わしがポルトガルのならず者どもを種子島に連れていったのは、あの島を鉄砲と火薬の生産拠点にするためだった」

 王直(おうちょく)はマカオで知り合ったフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ダ・モッタ、アントニオ・ペイショットの三人を天文十一年(1542)八月に種子島に連れていった。

 倒産した商人や軍隊から脱走した野心家たちで、何とか起死回生の仕事はないものかと血眼になっていた。

 そこで三人に、ポルトガルの優れた鉄砲と弾薬を種子島の領主である種子島時堯(ときたか)に売らせようと、ジャンクに乗せて島に案内したのである。

 「種子島では昔から刀鍛冶が盛んだった。その技術を生かせば、鉄砲を作ることなど簡単だ。硫黄もとれるし木炭もあるので、硝石さえ持ち込めば火薬の生産もできる。しかも九州本土の間近にあるのだから、日本進出の足がかりにするにはもってこいだ」

 王直は種子島をたずねるたびに、ここを鉄砲と火薬の生産拠点にしたいと考えていたという。「それならどうして、ご自分で鉄砲を伝えなかったのですか」清十郎はそうたずねた。

 「できればわしもそうしたかったさ」 王直はゆでた豚足に目がないようで、骨を派手に床に投げ散らかしながら次々と平らげた。

 「だが我々は明国の法を破り、倭寇と呼ばれているならず者だ。長期的な信用を得ることができないし、公の場に立つこともできない」

 種子島を鉄砲や火薬の生産拠点にするには、種子島時堯ばかりか彼の主人である島津家の了解をえなければならない。ところが島津家は古くから琉球を通じて明国と交易しているので、明皇帝の要請があれば王直らを取り締まりに乗りだすおそれがあるというのである。

 「もし明国が時代遅れの海禁策を改め、我らの活動を支援してくれるなら、何万貫もの銀を皇帝に献上して国の発展につくすことができる」

 だが、明国の高官は誰もこのことを分かっていないし、世界の動きも見えていない。王直は腹立たしげにつぶやいて紹興酒をあおった。

 「それでポルトガル人を表に立てようとなされたのですか」「種子島時堯どのに近付くきっかけにしたかったのだ。彼らを連れていけば、新しもの好きの日本人はかならず飛びつく。

 鉄砲も西洋のものだと言った方が有難がる。わしは彼らを船で案内する役に徹し、様子を見ながら時堯どのに接近しようと思ったのさ」

 まるで処女のような奥ゆかしさだろうと、王直はお夏の尻をなでてからかった。結果的にこの戦略は成功した。王直はその後もマカオから何人ものポルトガル人を案内し、鉄砲の生産技術を種子島家の者たちに教え込ませた。

 そうして生産工場を作る際には時堯に資金を援助し、火薬の原料である硝石を安定的に供給する契約を結んだ。

 「水を飲む時には井戸を掘った者のことを忘れるな。そんな諺が舟山にある。鉄砲を日本に伝えたのはポルトガルの下司野郎どもだが、お膳立てをしたのはこの王直さまだ」

 「それにしては、あまり楽しそうでは在りませんね」「楽しいさ。豚足も酒も旨い」「八つ当たりでもするような飲み方ですよ。なあ三郎」「親父は常に哀しみを抱えている。俺には何故だか分らぬが」

 三郎は淋しそうに肩をすくめた。その仕種に王直に寄せる思いがにじみ出ていた。「わしは翼をもがれた蜂熊鷹(はちくま)だ。もし明国が海禁策を改めて後ろ盾になってくれるなら、干支がひと回りする間に日本を手に入れてみせる。その方法はさっき雛鳥が言った通りだ」

 種子島を鉄砲と火薬の大生産地にして、日本の有力大名に売りまくる。鉄砲がなければ戦争に勝てない時代がくるのだから、大名たちは先を争って買い求めるし、鉄砲の自主生産も始まるだろう。

 だが硝石だけは日本に産出しないのだから、その輸入経路を押さえておけば、大名たちは巨額の銭を払って買いに来るようになる。誰に売るかを決めることで戦の勝敗を左右し、これぞと見込んだ大名を天下の覇者に育て上げることもできる。

 「わしはその大名の上に立って日本国王になり、明国皇帝の僕になる。そうして世界の海へ乗り出していくのだ。あの南蛮人どものようにな」「それでは鉄砲十挺を売ることを、許してもらえるのですね」

 清十郎はこの時とばかり念を押した。「許すとも。ただし、自分で種子島まで買いに行け。お前が稼いだ銀五貫目を、元手として使うがよい」

 王直は硯箱を運ばせ、種子島時堯あての紹介状を書いた。風格のある堂々たる漢文の最後に、徽王(きおう)王直と署名して朱印を押した。

 東南アジア貿易圏を手中にした王直は、出身地の安徽省(あんきしょう)にちなんで徽王と称していたのである。翌日、清十郎は王直とともに五島の福江まで行き、小型のジャンクに乗りかえて種子島に向かった。

 いつものように三郎とお夏が供をしている。銀五貫目も木箱のまま積み込んである。これで何挺の鉄砲が買えるか見当もつかないが、清十郎は鉄砲伝来の島を目前にして期待に胸をおどらせていた。 』


 『 種子島は大隅半島の南東、およそ四十キロに位置している。南北は五十七キロ、東西はいちばん狭い所で約六キロの細長い島である。

 島全体が低くなだらかで、もっとも標高の高い所でも二百八十二メートルしかないので、海上からは平らかな台のように見える。

 清十郎らがこの島に船をつけたのは、天文十六年(一五四七)六月中頃。戦国時代史の転機となった鉄砲伝来から四年後のことだった。

 島の主要港は赤尾木(あかおぎ)、現在の西之表港である。ジャンクの水夫たちも三郎もこの島には何度も来ているので、水路も潮目も分かっている。西からの風に吹かれて港にやすやすと船をつけた。

 「やさしか島ね。五島とはだいぶちがう」お夏は平坦で緑豊かな島をそう評した。なだらかな海岸に寄せる波もおだやかで、岩場が多く人を寄せつけない厳しさがある五島とは雰囲気がちがっていた。

 「島の者たちはここを女島、隣の屋久島を男島と呼んでいる」 三郎がぼそりとつぶやいた。屋久島は二千メートルちかい山々が密集した険しい島である。平坦な種子島と並んでいるところは、夫婦が寄りそっているようだと、古くから言われてという。

 帆柱には王直の船であることを示す蜂熊鷹の旗を掲げている。朱色の地に黄金の鷹をえがいた旗は遠目にも分かる。それに気付いた種子島家の家臣たちが、船着場に迎えに出ていた。

 「三郎どの、よくお出で下された」 白いあごひげを生やした初老の武士が、うやうやしく頭を下げた。名を篠川儀太夫という。王直と硝石や鉛の取り引きをしている責任者だった。

 「世話になる。この男が時堯どのに会いたいそうだ」 三郎はいつものように無愛想だった。 「こちら様は、どにょうな」 「福江十郎と申します」 清十郎は変名を名乗り、王直の紹介状を差し出した。

 儀太夫は書状に目を通し、いぶかしげに清十郎を見やった。 「何か不審なことでも」 「いいえ、珍しい紹介の仕方をなさると思ったものですから」

 儀太夫はそう言ったが、書状を見ていない清十郎には何のことか分からなかった。種子島時堯の城は、港にほど近い高台にあった。城の側まで水路を引き入れ、物資を積んだ舟が入れるようにしている。

 二の丸の西隅に高々と見張り櫓(やぐら)を組み上げ、港に入る船の監視を厳重にしていた。時堯はあいにく接客中で、清十郎らは表御殿の対面所で待たされた。

 畳を敷き詰めた部屋には床の間があり、禅僧の手になるダルマの絵と青磁の壺がかざってある。京都の東山文化にならった設(しつら)えで、時堯の都へのあこがれがうかがえる。

 城の中でももっとも上等な部屋だった。 「時堯どのと会ったことがあるのか」 清十郎はもてなしの丁重さに驚いていた。 「親父の供をして何回か会った。この島は我らの力で立ち上がったようなものだ」 「時堯どのは、どんなお方だ」

 「まだお若い。お前とたいして変わらないほどだが、頭が良く決断が速い」 「気性は」 「おだやかで人なつっこい方だ。だが油断はできぬ」 「ポルトガル人を連れて来た時、三郎も一緒だったのか」

 「俺は十年前から親父の船に乗っている。どこへ行く時も離れたことはなかった」 ところが今はお前の相棒などをさせられている。三郎は腹立たしげに清十郎を見やり、この島との長い関わりを語った。

 初めて種子島に来たのは、天文九年(一五四〇)のことである。東南アジアから東シナ海へ進出し、五島の福江に拠点を持った王直は、宇久盛定(うくもりさだ)の紹介状をもって種子島時堯をたずねた。

 良質の硫黄を購入するためだが,時堯は王直が明国の海禁策を破っていることを理由に交易を拒否した。そこで王直は、二年後の天文十一年にポルトガル人三人を連れて再び種子島をたずねた。

 彼らを時堯との交易の仲立ちにしようと考えてのことだが、初めからそれを言えば乗船を拒否されるおそれがある。それを危惧した王直は、三人には舟山諸島にむかうと話して船に乗せ、途中で遭難したふりをして種子島の小浦(こうら)という港に船をつけた。

 西之島に着き時堯と対面した時も、王直は嵐にあって漂着したと言い通した。あくまで偶然をよそおいながら通訳をつとめ、時堯とポルトガル人が火縄銃を売買する仲介をしたのだった。

 最新式の火縄銃の威力を目の当たりにした時堯は、大金を投じて二挺を買い取った。自ら鉄砲を撃ち、この新兵器に魅了された頃を見計らって、王直はこの島で鉄砲を生産したらどうかと持ちかけた。

 ポルトガル人が作り方を指導し、当面の資金と軟鋼や真鍮(銅と亜鉛の合金)などの原材料は王直が提供する。そのかわり鉄砲の生産が軌道に乗ったなら、硝石と鉛は王直から購入するという条件だった。

 時堯はこれを受け容れ、領内から刀鍛冶や金物細工師を集めて鉄砲の作り方を学ばせた。刀鍛冶は銃身を。金物細工師には火挟みや引鉄(ひきがね)などのカラクリを、そして篠川小四郎ら家臣数人は火薬の調合法を担当した。


 日本人の器用さには定評がある。彼らは半年もしないうちに作り方を身につけたが、ひとつだけ大きな問題に直面した。銃身の後部を封じる尾栓(びせん)のネジの切り方が分からなかったのである。

 尾栓の雄ネジは何とかなったが、銃身の内側の雌ネジをどう切ったらいいか、皆目見当がつかなかった。三人のポルトガル人にもそこまでの知識はないので、鉄砲製造は大きく頓挫した。

 そこで王直は三人をマカオまで送り届けるついでに、ポルトガル人の鉄砲鍛冶を紹介してもらい、翌天文十二年(1543)に再び種子島をたずねた。

 この鍛冶屋はヨーロッパで開発された捻錐(タップ)を持っていて、刀鍛冶の棟梁だった八板金兵衛に使い方を教えたこうして鉄砲の製造が種子島で完全におこなえるようになった。

 五島三郎こと王烈はそのすべてに関わり、王直とともに重要な役割をはたしたのだった。

 半時ほど待った頃、時堯が儀太夫を従えて現れた。細面の精悍な顔立ちで、月代をそり髷を結い、豊かな口ひげをたくわえている。まだニ十歳の若者だが、種子島家第十四代当主としての威厳をそなえていた。

 「王どの、お久しゅうござる。五峰先生もお元気のようで何よりです」 三郎に気さくに声をかけ、王直の紹介状を拝見したと言った。

 「こちらが福江十郎です。鉄砲の買い付けに参りました」 三郎がめずらしく素直なのは、時堯に敬服しているからだった。

 「私より若いようだが、いくつになられますか」 「十六でございます」 「ほう。五峰先生はあなたを余程見込んでおられるようですね」 「紹介状にそのように記していただいたのでしょうか」

 「気に入らなければ切り捨ててくれと記しておられます。その程度の者をよこされたのかと思いましたが、あなたを見てそうではないと分かりました」

 絶対に気に入るという自信があるからこんなことが書けるのだと、時堯は真っ白な歯を見せて涼やかに笑った。「夏姫どののことも先生からうかがっております。姪御さんだそうですね」

 「はい、私の母は王直の妹です」 お夏が緊張して改まった言葉を使った。 「聞きしにまさる美しさだ。ゆっくり話をしていたいのですが、客を待たせていますので」

 時堯は丁重にわび、鉄砲のことは儀太夫に任せているので何なりとたずねてもらいたいと言って席を立った。 』(第176回)

ブックハンター「女が三割ならば若者も三割」

2018-11-17 09:31:50 | 独学

 176. 女が三割ならば若者も三割  (塩野七生著 文芸春秋12月号 日本人へ百八十六回)

 本文は、古代ローマ、現代のイタリア、日本の政治・文化・人間模様を観察し、日本人へ百八十六回の文章です。私が本文を紹介しますのは、その内容と展開の巧みさと、その中心にある人間の素質と勝負カンに対する洞察力の確かさを紹介するためです。

 『 落ちるところまで落ちないと目覚めないと言われるのは、イタリアでは橋にかぎらない。ジェノヴァでおこった陸橋の墜落以上にイタリア人にショックであったのは、今年行われたサッカーの世界選手権では出場さえ許されなかったことだった。

 予選で落ちてしまったからだが、サッカー人口イコール国の総人口とさえいわれるイタリアである。世界チャンピオン最多を誇るブラジルに次ぐイタリアなのに、大会開催中は終始観戦を強いられたのだから、イタリア人の気分が落ちるところまで落ちたのも当然である。

 これで始めてイタリア人は目覚める。少なくとも目覚める必要は感じたのだ。まず、監督を代えた。温厚で円満な人から激しい性格の人に。

 つまり、選手たちをなだめすかしながらイイ線にまでもっていける監督から、温厚でも円満でもないが勝ちをとることを最重要視する監督に代えたのである。

 ロベルト・マンチーニは現役時代から、メリハリの効いた試合ぶりで知られていた。一応はストライカーなのでゴールも決めるが、それよりも見事な目の醒めるように美しいパス。

 だから彼のアシストは、必ず得点に結びつく。今は辛口の解説者に転身しているヴァィアーリとのツートップでセリエAの連覇を成しとげたのではなかったか。

 私には、監督には二種類あるように思う。一つ目は、選手たちを育てながら一年を通してまあまあの成績を残す人。二つ目は、持ち駒を駆使することで勝ちを重ねていく人。

 マンチーニは、監督になってからの各国を渡り歩いての実績からも、明らかに第二種に属す。この派の監督の代表例はムリーニョ(現マンチェスターユナイテッドの監督)だが、この種の男に美男が多いのはなぜか、まではわからない。

 というわけで落ちるところまで落ちたイタリアのナショナルチームを率いることになったマンチーニだが、ベテランから若手に代替わりしたチームのスタートは苦戦の連続になった。

 その試合後に行われた記者会見でマンチーニの言葉が、私の関心を刺激したのである。

 「クラブチームの監督たちには、イタリア出身の若手により多くの出場の機会を与えてくれるように願いたい。彼らには、素質ならば十分にある。欠けているのは、勝負カンなのだ。この種のカンは、現場経験を積むことでしか習得できない。しかも、カンが衰えてくると素質まで低下してしまう」

 イタリアでのサッカーは完全な営利事業なので、観客動員のために世界中から有名選手を集める。私でさえも、クリスティアーノ・ロナウドがでるなら観に行くかと思うほど。

 おかげでこれからクラブチームの監督たちはすざましい重圧下に置かれていて、二度つづけて負けるやとたんに進退問題化する始末。この人たちだって若手にチャンスを与える気持は充分にあるのだが、それで敗れようものなら自分のクビがとびかねない。

 いきおい、レギュラーは外国からの有名選手に頼るようになり、イタリア人の若者はベンチに居つづけることになる。マンチーニは、彼ら監督だけでなく外国の有名選手を喜ぶ観客たちにも、むずかしい問題を突きつけたのであった。

 私の仮説だが、素質は先天的なところが多いかもしれなくても、カンとなると後天性が強くなると思っている。今のイタリアを見ていて心が痛むのは,この国の若者たちの失業率の高さである。

 彼らは、カンを磨く機会を得られないまま衰えていく。若年層に現場体験を積ませる効用は、サッカーにかぎったはなしではないのだ。これまでの私は、女性の登用を三割に上げるべきとする説は反対だった。

 逆差別になりかねない、と思っていたからだ。だが今では、これも有りだと思うようになった。制度化することによって女が三割は占めるようになると、各人の能力の有る無しがモロに出てくるからである。

 女だからできないなのではなくて、できる女とできない女の別しかないということもはっきりしてくる。その結果ガラスの天井などという、自らの無能を社会の責任に転化する言葉も消えてゆくだろう。

 この三割強制的登用システムは、女性だけでなく、四十五歳以下の若者にも広げるべきである。内閣も大臣の三割は女で別の三割は若者で、残りは従来どおりにベテラン世代で構成するとかして。

 一億総活躍は大変にけっこうなアイデアだが、一億というからには、女も若者も加わってのことでしょう。かけ声だけで終わらせないためには、政策は具体的でなければならない。

 となると、経験のない女や若者が失敗したらどうするのか、と言うかもしれない。なにしろ頭数をそろえるのが経験の多少よりも優先するのだから、失敗する人も出てくるだろう

 それによる実害を最小限に留めることこそが、年長世代の役割である。サッカーに例えれば、間違った方角にパスしてしまったボールを、時を置かずにベテランがフォローすることで失点にならないで済んだ、というケース。

 そして、この方式をつづけるうちに人材も淘汰されてくるだろうし、登用された女も若者も、自然に経験を積んでくるだろう。こうなって始めて、一億総活躍も現実になるのである。

 ただし、次の二つは忘れないでもらいたい。第一は、全員のためを考えていては一人のためにもならないという、人間性の真実。

 第二は、全員平等という立派な理念を守りたい一心こそがかえって、民主政の危機という名で、民主政からポピュリズムに堕す主因になっているという歴史の真実である。 』 (第175回)