チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「英語で味わう名言集」

2016-03-30 15:12:12 | 独学

 112. 英語で味わう名言集  (ロジャー・パルバース著 2011年3月)

 本書は前々回紹介しました「英語で読む啄木」の著者の本です。そこで感じたパルバースは、英語力もさることながら、日本語力には舌を巻くものがあります。英語をより理解するには日本語をより理解する必要があり、言語をより理解するには、文化を理解する必要があります。

 本書はパルバースが選んだ200の名言が書かれています。そのうち70人ほどが日本人のもので、英語にはパルバース自身が翻訳しています。それぞれの名言の出典が巻末に明記されてます。

 ここでも、一つ一つの名言の意味を著者自身が深く理解し、名言の作者の人間的魅力についても言及しています。名言は、日本語であろうと、英語であろうと名言自体に力というか、含蓄が含まれてなければなりません。〔RP〕は、著者 Roger Pulvers が翻訳したことを示します。English : 日本語 は私の蛇足です。

 

 『 Chance  favors  those  who  are  mentally  prepared  for  it.  〔RP〕 原文はフランス語

  好機は心の準備ができている者のもとにやってくる。 (ルイ・パスツール フランスの化学者・細菌学者)

 科学の発見には偶然のチャンスが大きな役割を果たすことを、科学者はほかの誰よりもよく知ってます。でも同時に、そのチャンスが目の前にやってきたとき、それに気づくことができる鋭敏さを持ち合わせていなくてはならないのです。

 ここでの chance は「偶然の幸運、好機」といった意味。本当に幸運な人とは、その幸運が他の誰かのところへ行ってしまう前に、しっかりつかまえられる人のことです。 favor : 好意を示す


 If  you  wish  to  accomplish  something  in  life,  be  honest  to  a  fault.  Oh,  don't  just   let  your  talents  fly.  〔PR〕

 事を成し遂げるのもは、愚直でなければ。あー才ばかり走ってはイカヌ。 (勝海舟 江戸・明治時代の政治家)

 日本語の「愚直」は――似た言葉でもっと親しみやすい「ばか正直」もそうですが――とてもすてきな言葉ですね。英語にはこれに一語で相当する単語はありませんが、ぴったり同じ意味のフレーズならあります。それが honest to a fault です。 accomplish : 成し遂げる


 True  talent  comes  from belief  in  yourself,  in  your  own  power.  〔RP〕 原文はロシア語

 本当の才能は、己自信を信じ、己の力を信じることから生まれる。 (マクシム・ゴーリキー ロシアの作家)

 ゴーリキーの戯曲「どん底」の中の、とあるセリフから取った言葉です。この作品では、 down and out (落ちぶれ、絶望の底にある)な人々が描かれています。

 私たちも down and out なとき、あるいはちょっと down (落ち込んでいる)なとき、この名言が何らかの助けになってくれるかもしれません。


 Ordinary  people  think  merely  of  how  to  spend  their  time.  A  person  of  talent  strives  to  use  it. 〔RP〕 原文はドイツ語

 凡人はただ時間の過ごし方だけを考えるだけだが、才能のある人は時間を使おうと努力する。 (ショーペンハウエル ドイツの哲学者)

 この名言でおもしろのは、時間を「過ごす」(spend)ことと、「使う」(use)ことの対比です。ショーペンハウエルは、時間を過ごすだけではだめだ、有意義に使わなくてはならない、と説いています。strive : 努力する


 I  do  not  know  anyone   who  has  got  to  the  top  without  hard  work.  That  is  the  recipe.  It  will  not  always  get  you  to  the  top,  but  should  get  you  pretty near.

 努力なしに頂点に立った人など、ひとりも知りません。努力こそが秘けつです。努力があれば必ずとは言えませんが、頂点にかなり近づけるはずです。 (マーガレット・サッチャー イギリスの元首相)

 recipe (レシピ)という語が、料理とは何の関係もない文脈で使われていることに注目。これは「秘けつ、やり方」といった意味で、a recipe for disaster (災いのもと)という決まり文句もあります。 』


 『 Luck  is  a   dividend  of  sweat.  The  more  you  sweat,  the  luckier  you  get.

 幸運とは、流した汗に対するボーナスです。汗をかけばかくほど、幸運になるのです。 レイ・クロック(アメリカの企業経営者)

 この名言の中核をなすのは dividend という語です。これは divide (分ける)をいみするラテン語から来た単語。つまり dividend とは、受け取るべき「分け前」のこと。予想していなかった「おまけ、ボーナス」を意味することもあります。


 To  cultivate  bravery,  you  must  endeavor  to  nurture  not  only  the  boldness  to  forge  ahead  but  also  the  calm  courage  to  retreat  and  stand  your  ground.  True  bravery  is  a  combination  of  the  two. 〔RP〕

 勇気を修養する者は進む方の勇ばかりでなく、退いて守る方の沈勇も、またこれを養うように心がけなければならぬ。両者が揃うて真の勇気が成る。 新渡戸稲造(教育者、農学博士)

 これは驚くべき名言ですね。前に進むための強い勇気と、退却するための静かな勇気とを結びつけて表現しています。私も勇気を持って、「勇」を boldness と英訳してみました。

 foge ahead は「どんどん前進する」という意味。 stand your ground は「自分の地位や立場を守る」というニュアンスです。cultivate : 修養する、bravery : 勇気、endeavor : 務める、nurture : 養う、forge : 進める、ahead : 前へ、calm : 穏やかな、courage : 勇気、retreat : 退却


 I  love  the  sky   and  flying   more  then  anything  else  on  earth.   Of  course  there's  danger;  but  a  certain  amount  or  danger  is  essential  to  the  quality  of  life.

 私は、空を飛ぶことを何よりも愛している。もちろん危険はある。しかし、適度な危険は人生を豊かにするのだ。 チャールズ・リンドバーグ(アメリカの飛行家)

 この名言に使われている essential 「不可欠な、必要事項」といった意味になります。


 Everything  that  is  happening  at  this  moment  is  a  result  of  the  choices  you've  made  in  the  past.

 今起きていることはすべて、過去にあなたが行った選択の結果である。 ディーパク・チョプラ(インド出身の医学博士)

 Deepeak Chopra (1946- )インド出身のアメリカの医学博士。心と体の健康を総合的にとらえる医学およびウェルビーイングを提唱。


 Anything  can  be  done,  but  only  if  you  try.  If  nothing's  done,  the  fault  lies  with  you.  〔RP〕

 成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬなりけり 上杉鷹山

 この言葉はとても有名ですね。意味をくみ取って思いきって意訳してみました。その際に使った fault という単語をご紹介しましょう。これは「(過失)責任」を表し、 one's fault で「~のせい」という意味になります。 lie : ある

 上杉鷹山(ようざん)(1751~1822)1767年、財政破綻にあった米沢藩(山形県)藩主となる。農村復興、倹約の奨励、藩校の創立など大胆な藩政改革を行う。

 1961年、米国大統領に就任したジョン・F・ケネデ ィは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」 ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」という有名な話があります。 』


 『 Life  is  like  riding  a  bicycle.  To  keep  your  balance  you  must  keep  moveing.

 人生は自転車だ。倒れたくなければ走り続けよ。 アルベルト・アインシュタイン (息子への手紙より)

 鋭く、そして楽しいこの名言は、simile (直喩)で始まっています。直喩とは like や as を使って物事をたとえること。この名言でおもしろいのは、最初の文が謎かけになっていることです。

 なぜ人生は自転車に乗ることなのか? それは、こぎ続けなければ倒れてしまうから、とアインシュタインは言います。人生は動きつづけなくてはだめだ、ということです。 keep … balance (バランスを保つ)はよく使われる表現です。


  People  can  say  of  me  what  they  will.  But  the  fact  remains  that  no one  knows  what  makes  me  tick  like  I  do. 〔PR〕

 世の人はわれをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞしる 坂本龍馬

 この魅力的な言葉の英訳には、いくつか興味深い表現を使っています。まずは、say … what they will。これは「好きなことを言う、勝手に言う」という意味です。 the fact remains は「(~という)事実は変わらない」の意味です。

 世の中の人が何を言おうと、自分の信念は変わらない、という強い気持ちを表現するのにこのフレーズを使ってみました。 what makes (someone) tick は、「(人)を動かすもの」。

 tick という動詞には「(時計が)カチカチと音を立てる、時を刻む、時が進む」という意味もあります。龍馬の時代から時は大きく進みましたが、彼の思想やその行動、強烈な個性は、現代の人にも大きな影響を与えています。 tick : 動く


 Trustworthy  managers  should  possess:  first,  honesty;  second,  foesight;  third,  health.  〔RP〕

 信頼できる経営者は、一に誠実、二に先見性、三に健康。 伊夫伎(いぶき)一雄 (1920-2009、元三菱銀行会長)

 確かに、この3つは誰でも持っていたいものですよね。2番目の foresight は、日本語の「先見性」と同じく、先のことを見通す力という意味です。反対語は hindsight 「あと知恵」です。 possess : 〈才能など〉を持つ、trust + worthy 〈人などが〉信頼できる


 Most  mistakes  that  business  leaders  make  arise  from  not  being  willing  to   face  reality  and  then  acting  on  it.

  経営者が犯すミスの大半は、現実を直視しないまま行動を起こすことによる。 ジャック ウェルチ(1935- GEのCEO)

 アメリカの企業家による、なかなか興味深い名言ですね。この face は「直面する」という意味。 face reality で「現実を直視する」という意味です。 arise : 起る、willing : …するのをいとわない


 Keep  your  head   low  and  your  antenna  high.  〔RP〕

 アタマは低く、アンテナは高く。 鈴木三郎助 (1922~ 味の素名誉会長)

 なんたる簡潔さでしょう! 』


 『 Business  is  not  about  what  you  have  to  do  to  sell  product,  but  about  what  you  can  do  to  give  customers  satisfaction  and  joy.  〔RP〕

 事業の原点は、どうしたら売れるかではなく、どうしたら喜んで買ってもらえるかである。 松下幸之助

 松下幸之助は「経営の神様」と呼ばれます。理由は、この名言を見れば明らかですね。 satisfaction は「満足」という意味の名詞。


 Never  tell  people  how  to  do  things.  Tell  them  what  to  do  and  they  will   surprise  you  with  their  ingenuity.

 いかにすべきかではなく、何をすべきかを伝えよ。そうすれば、人は驚くべき才能を示す。  ジョージ・パットン(アメリカの軍人)

 ingenuity とは「巧妙さ、精巧さ」といった意味。ジョージ・パットン(1885~1945)勇猛果敢な性格で戦術に優れ、第二次大戦でアフリカ上陸、シチリア島侵攻、ノルマンディー上陸作戦でも功績を残した。


 Whenever  an   individual  or  a  business  decides  that  success  has  been  attained,  progress  stops.

 個人であれ、企業であれ、成功を手にしたと思った瞬間に進歩は止まるのです。 トーマス・ワトソン(1874~1956) IBMを世界企業に成長させた

 偉大な企業家による、優れた名言です。営業マンからビジネスの階段を駆け上がったワトソンは、self-made man (たたき上げの男)と呼ばれています。attein sucess は「成功を手にする」。 attain は get  と同じく「手に入れる、獲得する」という意味です。 individual : 個人


 Have  the  will  to  become  number  one  in  the  world  in  the  field  of  work  you've  been  given.  〔RP〕

 与えられた仕事の分野では、世界一になるんだという意気込みを持て。 賀来龍三郎(1926~2001)キャノンを世界的企業に成長させた。

 「意気込み」をそのまま英語にすれば、ardor や enthusiasm (どちらも「情熱、熱意」という意味)になるでしょう。しかし、この名言で賀来龍三郎が伝えたいのは、単なる情熱ではなく、成功をつかむんだという強い意志ではないか――そう思って、私は will (意志)という語で訳してみました。


 One  of  the  great  discoveries  a  man  makes,  one  of  his  great  surprises,  is  to  find  he  can  do  what  he  was  afraid  he  couldn't  do.

 ひとりの人間にとっての最大の発見、最大の驚きは、自分にはできないと思っていたことが実はできるのだ、と知ることである。 ヘンリー・フォード(1896~1947) T型フォード車を開発

 この名言のポイントは、he was afraid he couldn't do というフレーズです。 afraid は「恐れて」という意味ですが、この場合は「恐怖」ではなく、自信がなくてたじろいでいる、ということです。

 ヘンリー・フォードは self-discovery (自己発見)を、まるで科学やテクノロジーの大発見、大発明と同じように語っています。 』


 『 Virtue  is  a  kind  of  health,  beauty  and  good  habit  of  the  soul.

 徳とは一種の健康であり、美であり、魂のよいあり方である。 プラトン(古代ギリシャの哲学者)

 これはすてきな言葉ですね。英知にあふれるこの古い名言以上に真実を表した言葉はないのではないでしょうか。 virtue : 美徳


 For  attractive  lips,  speak  words  of  kindness.  For  lovely  eyes,  seek  out  the  good  in  people. 

 魅力的な唇を手に入れるためには、優しい言葉を話すこと。美しい瞳を手に入れるためには、相手の長所を探すこと。サム・レヴェンソン(アメリカの作家) ("Time-Tested Beauty Tips")より

 この本で紹介している名言の中でも、一、二を争う美しい言葉かもしれません。女優オードリー・ヘプバーンが愛したことで知られる詩の一節です。

 ポイントとなるのは attractive と lovely という2つの単語。 attractive は attract (魅了する)という動詞の形容詞形で、人を磁石(magnet)みたいに引き付けてしまうパワーがある、というニュアンスです。


 There's  a  way  to  do  it  beter ----find  it.

 もっとよい方法があるはずだ。それを見つけなさい。 トーマス・エジソン

 最後に出てくる命令形の find it により、とても力強い名言になっています。まるでエジソンが、私たちにアドバイスではなく命令を下しているかのようですね。 good の比較級 better の使い方も気が利いています。


 Making  the  simple  complicated  is  commonplace.  Making  the  complicated  simple ―― awesomely  simple ―― that's  creativity.

 単純なものを複雑にするのは、ごく普通のことだ。 複雑なものを単純に――とてつもなく単純に――すること、それこそ創造というものだ。 チャールズ・ミンガス(アメリカのジャズ演奏家)

 まるでチャールズ・ミンガス自身のジャズのように、とてもリズムのある名言です。 awesomely という語の使い方がおもしろいですね。これは awe という、短いけれど複雑な意味を持つ単語からきています。

  awe には「驚き、感嘆」のほかに、「恐れ、畏怖」といった意味もあります。この後者の意味から、awful (恐ろしい)という語がうまれました。

 形容詞 awesome も、もともとは畏敬の念を表す語でしたが、最近は180度違う「すてきな、かっこういい、すげぇ」という意味で広く使われるようになっています。 complicate : 複雑にする、commonplace : 平凡な


 It  is  not  knowledge,  but  the  means  of  gaining  knowledge  which  I  have  to  teach.

 教えるべきは知識ではない。知識を得る方法だ。  トーマス・アーノルド(イギリスの教育者)

 根っからの教育者だったトーマス・アーノルドの言葉です。本物の教育とは一生涯続くものであることを、彼はわかっていました。 means は「手段」という意味。 』


 『 There  is  no  shame  in  not  knowing.  Not  making  the  effort  to  know:  That's  a  shame.   〔RP〕 

 知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥である。 澤柳政太郎 (教育者、成城学園創立者 「学修法」より)

 英語版ぼ最後の3語、That's a shame. には「それは恥である」と「それはもったいない」という2つの意味があります。もともとの日本語版には「もったいない」の意味はありません。これはちょっとした偶然ですが、翻訳によって新たな意味が生まれることもあります。 effort : 努力


 All  people,  whether  clever  or  not,  possess  a  strong  point  or  two.  By  combining  these,  they  can  accomplish  great  things.  〔RP〕

  世の中には賢い人も愚かな人もいるが、それぞれ1つ2つは才能をもっている。それらを統合し事にあたれば、必ず成し遂げられる。 吉田松陰 (幕末の思想家、教育者)

 吉田松陰は、相手がどんな能力を持っているか、ぱっと見抜くことができる才能の持ち主でした。教師になろうとするひとには、きっとこうした能力が大切でしょうね。

 この名言における「才能」を、私は strong point と表現しました。 possess : (才能などを)持っている


 We  are  becoming  the  servants  in  thought,  as  in  action,  of  the  machine  we  have  created  to  serve  us.

  今や人間は自分の召し使いとして生み出した仕組みの召し使いである。思考も、行動も。 ジョン・ケネス・ガルブレイス(アメリカの経済学者)

 ここで言う machine とは、経済という名の巨大で無常な機械のこと。経済は人間のためにあるべきであり、人間が経済に隷属してはならないのだ、ということです。 serve はこの場合、「仕える、~のために働く」という意味です。

 同じ著書( The new industrial state )の中で、ガルブレイスはこうもいって言っています。

 What  counts  is  not  the  quantity  of  our  goods  but  the  quality  of  life.

 肝心なのは私たちの持ち物の量ではなく、生活の質でる。

 ガルブレイスは人間を重要視し、人々のニーズを最優先した経済学者だったのです。


 Being  rich  does  not  mean  having  lots  of  money,  but  having  an  amount  you  consider  enough.  Being  poor  is  not  lacking  in  money,  but  considering  what  you  have  not  enough.  〔RP〕

 (金持ち)とはお金がたくさんあることではなく、これ以上お金は必要ないと思っている人のことである。(貧乏人)とはお金がないということではなく、お金があってもまだ足りないと思っている人のことである。 久保博正(1938-)作家

 これは relativity (相対性理論)をお金に当てはめたもの。 rich か poor かは、自分の見方とその使い方によって変わるのかもしれません。


  With  nobler  desires,  greater  earnestness  and  wider  sympathy  not  limited  to  just  a  few  …  the  weakest  of  us  may  attain  success.

 高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。 津田梅子 (津田塾大学創立者)

 子ども時代のほとんどをアメリカで過ごした津田梅子は、女性の地位向上のために人生をささげました。彼女はここで、日本の若い女性にアドバイスと励ましと希望を与え、成功を手にするにはどうすればいいかを教えています。

 自己実現を果たし、成功を手にできる一番の方法は、他人へ心を開くことなのだと、彼女は説いているのです。この名言にはいくつもの形容詞が出てきますが、 noble、great、wide は -er で終る比較級、そして最後の weak は -est で終る最上級になっています。

 この3つの -er と1つの -est が作り出すリズムがすばらしいですね。梅子の英語はやや古めかしいスタイルですが、たとえば not limited to just a few (少数の人だけでなく)というフレーズは、現代の私たちでも十分使えます。

 彼女はこれを、日本の女性たちに「視野を広げてほしい」という意味で使っています。 』 (第111回)

 


ブックハンター「内山晟の五大陸どうぶつ写遊録」

2016-03-20 12:31:49 | 独学

 111. 内山晟の五大陸どうぶつ写遊録  (内山晟(あきら)著  2009年7月)

 『 一四歳の時、野鳥に興味を持ち、なけなしの小遣いをはたいて「原色野鳥ガイド」を買った。高校時代には、周はじめの写真集「カラスの四季」 「滅びゆく野鳥」などを貪り読んだ。

 動物の写真を撮りたいと思うようになったのはこの頃だった。でも、写真で食べられるようになるとは考えてもみなかった。大学時代、アルバイトで貯めた金で500ミリの望遠レンズを買い、「白サギ」の写真家・田中徳太郎先生に弟子入りした。

 そして大学四年の時に瓢湖で撮ったハクチョウの写真が子供向けの雑誌に採用され、完全にその気になった。二三歳の時である。その後、日本の野鳥と動物園の動物を撮り回るうち、ついに海外取材のチャンスが訪れた。

 一九六九年一二月、ガラパゴスに向けて飛びたった。一ドルが三六〇円、五〇〇ドルしか持ちだせない時代だった。その写真が、本格的な動物写真家として歩き出すきっかけになったのである

 以来、カメラの向くまま、気の向くまま、動物を求めて五大陸を飛び回り、気がつけば四〇年がたっていた……。 』 (”はじめに”より)


 本書は、著者の四十年にわたって世界を旅して撮った動物たちの写真集です。そして、その一枚の写真を撮るための旅のお話です。ここでは、その中から南極にいるコウテイペンギンをとるために出かけた南極への旅の話を紹介いたします。躍動する動物たちの写真はここでは、紹介できませんが、それにまつわる旅の話を読んだ後に、それらの写真を見るといっそう感懐深いものになると思います。


 『 私の事務所を訪れる編集者は「氷上にいるペンギン」を求めていた。世界に存在するペンギンは十八種類、その中で南極にいるペンギンはアデリーペンギンとコウテイペンギンだけだ。

 それも、氷の上で繁殖するのはコウテイペンギンだけだと言っても、彼らは納得しなかった。そのうち私自身もコウテイペンギンを見たいという思いが、日に日に強くなっていった。

 一九九七年一二月、南アフリカ共和国の港町ポートエリザベスへ飛んだ。そこから船でインド洋を越えて南極のコウテイペンギンのコロニーのうち三つを訪ね、オーストラリアのパースで終る、三二日間の船旅だった。

 私にとって四度目の南極取材だが、「皇帝」に謁見しにいくのは、実は初めてだった。出港して二日もすると、甲板に出ているのも辛いほど寒くなった。

 南緯四六度~四九度に位置する、ロイヤルペンギンやオウサマペンギンのコロニーがあることで有名なクロゼ島やケルゲレン島に寄る頃には、あまりに乾燥している空気に喉が痛んだ。

 ダイニングルームからレモンのエキスや蜂蜜を盗んできて飲むものの、一向に改善されず、南極の本番を思うと不安が募った。暴風圏に突入した時の船の揺れは、それまで体験したことのないほどのものだった。

部屋の椅子は鎖で床に固定されていたが、座っていても吹っ飛ばされた。寝ている時も、ベットの縁にしがみついていないとベットから放り出された。裸で寝ていて、落ちた途端に絨毯で膝を擦りむいたりもした。

 それでも三度三度の食事にはダイニングルームに出かけた。そんな時だから、出てきたのは、九〇人を超える乗客の中でも三割もいなかったと思う。テーブルクロスには水がかけられていた。こうすると器が滑っていかないのだった。

通路を歩くにもコツがあった。坂道を歩く要領で足を踏みしめていないと、つんのめったりひっくり返ったりしていまう。これに左右の揺れが加わるのだから、想像を絶する体力が必要なのであった。

 あまりの揺れの凄まじさに、腰を痛める者が出始めた。私も例外ではなかった。こんなこともあろうと、塗り薬と湿布薬をもっていたが、その噂が船の上を駆け巡り、何人もが私の部屋にやってきた。

 たいていの場合、患部に貼るようにと言って湿布薬を渡していたのだが、一人ドイツ人の若い女性には、親切な私だから、彼女の腰に手ずから貼ってやったのはいうまでもない――。 』


 『 何日も続いた揺れもようやくおさまり、我々を乗せた砕氷船は、流氷をかきわけながら氷原に入った。それまで乗ったことのある船は普通の客船ばかりだったから、初めて乗った砕氷船は、何か頼もしい気持ちがした。

 見渡す限りの氷の海に入り込むのも初めてだった。とうとう南極に着いたのだ。翌日、いよいよコウテイペンギンのコロニーに行くことになった。船に積んできた二台のヘリコプターが、何往復もして、乗客たちを船からコウテイペンギンの繁殖地のある内陸部に運ぶ。

 ヘリコプターに乗り込むのはABC順だからUchiyama は最後の方だった。防寒具に身を包んで機材を背負い、橇を片手に甲板でひたすら待つしかなかった。

 しかし、三〇分あまりの飛行中、ヘリコプターから見下ろす景色は想像を絶するものだった。白一色の中にそびえる巨大な氷山を見つめていると、感激で涙が込み上げてきてならなかった。人目もはばからず、おいおいと声を上げて泣いた。

 ヘリコプターがクロア・ポイント・コロニーに降り立つと、一〇羽ばかりのコウテイペンギンが出迎えに現われた。憧れに憧れた皇帝に謁見するような気持ちで、またまた涙があふれた。

 こんな感激を味わえる自分は幸せだと心から思ったし、この時ほど、この仕事に就いたことに誇りを感じたことはなかった。巨大な氷山の下にはたくさんのコウテイペンギンがいた。

 私は親の足下にいる小さなヒナを探しまわったが、残念なことに皆大きくなっていた。ガイドに聞くと、「別のコロニーにいるかも。メイビー(たぶん)」という返事が返ってくるだけだった。

 最終のヘリコプターが出るギリギリまで探しまわった。白夜とはいえ、太陽が地平線に近くなるときの寒さは尋常ではない。私の失望感に追い討ちをかけるように、寒風が吹き荒れた。

 結局その旅の間、ヘリコプターで南極大陸に上陸したのは四回だけだった。訪ねるコロニーのどこにも小さなヒナはおらず、綿毛から換毛した親離れ直前のものが多かった。

 一二月では遅過ぎたのを知った。南極の雰囲気を堪能し、コウテイペンギンをひと目見るだけで満足している人が大多数を占める中、しょんぼりしているのは私だけだった。

 大陸を離れた船では、往路催されたパーティーや楽しい催しはなくなり、ただひたすら航海するだけだった。いつしか氷山も見えなくなった。そうして帰り着いたオーストラリアのパースは異常な暑さだった。

 旅の間親しんだ人たちとの別れは、信じられないほどにあっけなく、私は疲れと、小さなヒナの写真を撮れなかったという虚しさだけが残ったのだった。 』


 『 その後、日本で悶々とした日々を送っていた私に、アメリカのコロラド州ボルダ―で旅行社を経営する友人から、面白い旅が見つかったとの知らせが届いた。一九九八年の真夏のことである。

 料金はそれまでの船旅よりもかなり高いものだったが、コウテイペンギンへの思いはますます募っていたので、老後のための蓄えを吐き出すことに躊躇はなかった。

 一〇月下旬、チリの最南端の港町プタンアレナスへ飛んだ。同行者はアメリカやドイツ、オランダなど様々な国から集まった十数人。コウテイペンギンの写真を撮る者、南極の最高峰を目指す者などである。

 ここから輸送機に乗り、まずは南緯八〇度、南極点から一〇七八キロの地点にあるベースキャンプへ飛ぶ。さらに軽飛行機に乗り換えてコウテイペンギンのコロニーへ向かい、一〇日間のキャンプ生活をするというツアーだった。

 飛行機は車輪のまま氷の上に着陸するため、南極の天気がよく無風でなければ出発できない。その日を皆、ただひたすら待った。日本から三日かけて来た私にとって、一日や二日は時差ぼけ解消にちょうどよかったが、三日もたつと焦燥感が募ってきた。

 遅くなればなるほどヒナが大きくなってしまう恐れがあったからだ。ましてやここでの滞在費は自前なので、余計に身の細る思いがした。待ち続けること一週間、その朝、ようやく「天気回復、夕方空港集合」の知らせが届いた。

 機内に預ける荷物は二〇キロまでは無料だが、オーバーしたものについては一キロにつき六〇ドル払わなければならない。ただし、なぜか寝袋はその限りではないというので、重いレンズや三脚は寝袋の中に巧みに隠した。

 防寒具はできる限り着こみ、首にはカメラを吊って、ポケットや防寒靴の隙間にはバッテリーやフイルムを押し込んだ。誰もが着膨れした格好をして顔を見合わせ、ニヤリと目配せをし合った。皆、計量したら二〇キロ以内だったのだ。

 ハーキュリーという名の四発プロペラの輸送機は、中は骨組みもむき出しで防音装置も何もない。後ろ半分は荷物が山済みされ、トイレはカーテンで囲われているだけだった。

 防寒具を脱いでホッとしたのも束の間、配られた耳栓をつけていても、爆音の凄まじさにみな驚かされた。夜中に飛び立った飛行機は、一寝入りして見下ろすと、白一色の世界に飛んでいた。 』


 『 ベースキャンプは、ダイニングルームとなる大きなテントと、いくつかの二人用のテントで構成されていた。寒かった。寒暖計は氷点下二〇度を指していた。

 トイレは、男子の小便用はブルキの漏斗がついたドラム缶が置いてあるだけ。女性用は狭い小屋のバケツでしたものをドラム缶にいれる。大便のほうは、一応ドアの付いた囲いがあり、便座を付けた大きなバケツで用を足し、丈夫なビニール袋に溜める仕組みになっていた。

 南極条約により、出したものはすべて本土に持ち帰るきまりなのだ。寝ている時にトイレに行くのは大変だった。狭い空間で防寒具を着て防寒靴を履くのは面倒で、ついギリギリまで我慢するのでなおさらだった。

 テントの中でおしっこをするためのピー・ボルトを配られたいたが、一人だったらいざ知らず、他人がいる空間でははばかれた。風の強い日にドラム缶の穴を目がけておしっこをしたら、飛沫になってズボンにまつわりついたがすぐに凍っていった。

 食事は、決められた時間内で三々五々、ダイニングルームのテントに集まった。暖房用のストーブがあるが、床は凍りついていた。夕食にはテーブルごとに箱詰めの赤白のワインが出た。

 私は吞兵衛のあまりいないテーブルを選んで座ることにしていた。そのほうが量が飲めるからだ。極地での活動を支えるため、食事は見た目にもカロリーの高いものだったが、それでも腹が減り、人一倍飲んで食った。

 日本に帰って体重を量ってみたら、三キロ以上減っていた。あれだけ好きなように飲み食いしても体重が減るのだから、南極の旅は「究極のダイエットツアー」なのである。

 本来、それは本土を発ってから一〇日間のツアーのはずだった。しかし、一〇日を過ぎても一行はまだ、ベースキャンプで待機していた。

 そこから我々を乗せて飛び立つ予定の双発の飛行機は、車輪の代りに橇をはいているとはいえ、出発地と到着地両方の天候が良くなければ飛び立つことができないのだ。数年前、天候が好転せずに行けなかったことがあると聞くと、不安にさいなまれた。

 客の中にアメリカ人の外科医がいたのだが、このままコロニーに行ったら11月中旬に予約された癌の手術に間に合わないといって、泣く泣く次の便で帰ることになってしまった。でも、その便がいつ本土から来るかさえ、誰にもわからないのだ。

 ある日の一七時、突然出発すると知らされた。出発はいつも「突然」なのだ。テントをたたみ、寝袋をまるめ、撮影機材を持って飛行機に飛び乗った。

 極地の天候は変わりやすいから、このチャンスを逃すと次はいつ出発できるかわからない。一緒に行けないドクターは寂しげに我々を見送ってくれたが、その時の私には同情する気持ちの余裕はなかったように思う。 』


 『 パイロットや整備士、ガイドを含めた総勢一四人の一行が南緯七六度三〇分西経二九度にあるドーソン・ランプトン・コロニーに降り立ったのは、午前一時だった。

 飛行機が停まるとすぐに数十羽のコウテイペンギンが集まってきた。歓迎を表明するためか、はたまた単なるミーハー的野次馬か。真夜中というのに誰も眠いと言わず、テントの設営は後回しにして、二キロ離れたコロニーへと先を競うように向かった。

 私は今回も、まだ親ペンギンの足の甲の上にいるような小さなヒナをひたすら探しまわった。今度こそ、何としてでも、そんなヒナを撮るつもりだったのだ。

 ほとんどが三〇センチほどの大きさに育っていたのだが、ようやく一羽見つけた時にはとてつもなく嬉しかった。と同時にホッとした。それからは、氷点下二〇度の寒さの中、ペンギン三昧の生活が始まった。

 白夜だったから、昼夜関係なく好きな時に食べ、好きな時に寝て、それ以外はひたすらコロニーでペンギンと向き合った。腹這いになって糞にまみれながらペンギンの側にいるのが、何よりも楽しかった。

 ひとたびブリザードに見舞われれば、五、六メートル先も見えなくなった。帰り道を見失うといけないので、目印に旗のついたポールを立てながら進んだ。

 フィルムが割れるような寒さの中で、暖をとるために身を寄せ合い、大きな一つの塊となっているヒナたちを撮った。一週間もたつと食料が尽き始めた。パンも卵もなくなった。パンケーキにビスケット、硬いチーズを削って、お茶を飲んで飢えを凌いだ。

 辛かったのはトイレだ。ベースキャンプでは少なくとも囲いがあったが、ここでは吹きさらしだった。防寒具を脱ぎ、尻を出すのが面倒だった。

 面倒だからと行かなかったため、便秘になって大騒ぎをするはめになったのは私だけではない。時には好奇心の旺盛なペンギンが覗きに来るのにも困った。

 南極では氷を溶かして水を作るので、水は貴重品だ。顔も洗わないでいたある日、鏡を見たら、寒さと乾燥で皮が剝けてぼろぼろになった汚い顔が映り、我ながらゾッとしたのだった。 』


 『 滞在予定日の終わりが過ぎても天候が悪く、そのうえフィルムも底をついたのか、誰もがテントから出てこなくなった。かといって、一人でコロニーに行くのは危険だ。

 写真を撮れずに悶々としていた夕方、晴れ間が見えた時にまたしても突然出発することになった。帰れると聞き、皆勢いよくテントから飛び出してきた。

 狭いテント生活と乏しい食糧にウンザリしていたのだ。荷物をすべて積み込み、発つ間際にまた雲が出てきた。間一髪、危ないところだった。

 ベースキャンプに辿り着くや、吞兵衛の私はワイン片手に餓鬼のように食べまくった。何を食べても美味しかった。しかし本土からの迎えの便はいつ着くとも知れない。再びひたすら待つ日が続いた。

 白夜の世界でもう朝だか夜だかわからなくなったある日、飛行機が本土を飛び立ったという報が入った。ダイニングルームのテントの中にワッと歓声が上がり、誰からともなくワインで乾杯が始まった。数時間後、爆音が聞こえるや皆一斉に飛行場へと走った。もう待ちきれなかったのだ。

 三週間ぶりにプンタアレナスのホテルに帰った途端、「すぐに部屋に入って!」と怒鳴られた。改めて着ているものを見たら、ペンギンの糞だらけで強烈な臭いも発していたのだ。

 部屋に入るやすぐに裸になって風呂に飛び込んだ。三週間着たきりだった下着からもひどい臭いがした。シャンプーは全く泡立たず、水も黒く濁った。バスタブの水を取り替えること三度、ようやく澄んだお湯にのんびり浸かることができたのだった。

 長くても二週間で終るはずだった旅は、結局四週間になった。小さなコウテイペンギンのヒナをこの目で見るという夢は、五度目の南極取材にしてようやく夢は叶ったのだ。この旅は、今でも私の誇りである。 』 


 本書は写遊録とありますように、写真家としての仕事であり、究極の遊びの記録です。南極で撮った氷山とコウテイペンギンの群れと青空の写真は美しいものです。船で南極に行くには、狂う50度や吠える40度と呼ばれる暴風圏を通らなければなりません。

 チリの最南端から飛行機で行っても、気象条件が整わなければ、出発できません。真夏でもマイナス20度の中で、小便と大便をしなければならず、迎えの飛行機が来なければ、帰ることもできません。

 遊びも究極になるとある種のぎょう(修行)を乗り越えなければ、すばらしい遊びの世界には到達することは、出来ないのではないかと感じました。(第110回)


ブックハンター「英語で読む啄木」 (後)

2016-03-16 20:47:26 | 独学

  110. 英語で読む啄木 (後) 〔自己の幻想〕  (ロジャー・パルバース著 2015年4月)


 私も啄木の歌集「一握の砂」を40年ほど前に、読んでいるはずですが、今回のように日本語と英語で啄木の歌を読んでみますと、百年の時を超えて、訳者を介して詩の感動が伝わってきました。

 最初の目的は、英語を学ぶために効果があればと考えましたが、私たち日本人が啄木短歌の感動を知らないのは、もったいないと思い、もう20首ほど紹介します。


 『  THREE-STORY  BUILDING 

 A  spring  snow                   春の雪

 Is  falling  gently  against  bricks        銀座の裏の三階の煉瓦造に

 On  a  Ginza  backstreet.             やわらかに降る


 啄木の短歌の一部は明治末期をリアルに描いています。この短歌も写生画のひとつです。当時、銀座の裏通りにあった「高層ビル」の描写は、その時代を生き生きとよみがえらせ、柔らかくて白い雪と硬い赤い煉瓦の対照はとても啄木的です。


  ON  A  TRAIN

 I  glimpsed  out  the  window  on  a  rainy  night       ふと見れば

 To  catch  the  clock  at  a  station                 とある林の停車場の時計とまれり

 Stopped  in  the  woods.                       雨の夜の汽車 

 

 まるで「銀河鉄道の夜」に出てくる小さな場面のようなこの短歌を賢治は知っていたのでしょう。汽車が森の中の駅を通り過ぎようとしているのに、時計が止まっているイメージは、賢治の創作のひらめきになったものだと感じました。


  MY  HOME  TOWN

 I  face  the  mountains              ふるさとの山に向いて

 speechless.                     言うことなし 

 I  owe  those  mountains  everything.    ふるさとの山はありがたきかな


 「言うことなし」は彼が故郷に感じている気持ちをとても生き生きと描写しています。「ありがたき」は grateful または thankful と訳してもいいかもしれませんが、ここでは適切ではありません。啄木の故郷への反応はもっと絶対的です。ふるさとの山が存在しなければ、創造力のある人間になることはできなかった……少なくとも彼はそう信じていたでしょう。 owe : のおかげをこうむる


  WITHOUT  A  THOUGHT

 I  hopped  onto  a  train              何となく汽車に乗りたく思いしのみ

 But  jumped  off  at  a  station          汽車を下りしに

 Unable  to  move  backward  or  forward.  ゆくところなし


 hopped onto (乗りこんだ)と jumped off (飛び下りた)といった言葉は、何も考えずに取った行動が衝動的だったことを強調しています。


  NEVER  FAR

 I  miss  the  mountains  of  Shibutami.       かにかくに渋民村は恋しかり

 I  miss  the  rivers  of   Shibutami.          おもいでの山

 They  ara  never  far  from  my  mind.        おもいでの川


 渋民にかんするもう一編の有名な短歌。「恋しかり」を never far from my mind (こころから決して離れてない)と訳し、詩を NEVER FAR (決して遠くない)と名づけました。これらの言葉は、彼の心は渋民を離れたことがなかったことを暗示してます。


  RAIN

 The  rain  in  the  capital  conjures            馬鈴薯のうす紫の花に降る

 The  rain  that  falls  equally                 雨を思えり

 On  the  pale  purple  potato  flowers  of  home.   都の雨に


 雨は、彼のいる東京と、自分の心のよりどころである渋民を物理的につなぐものです。 』


 『 BELIEF

 I  believe  in  the   new  age.       新しき明日の来るを信ずという

 My  belief  and  my  word        自分の言葉に

 Are  one …  yet.              嘘はなけれど―――


 この短歌のニュアンスは「なけれど」(英語の場合は yet )から来ています。ですが、この yet には二つの意味があります。ひとつは「けれど」に近く、もうひとつは「今までのところ」に似ています。それはタイトルの単語 belief によって補強されています。


  LABOR

 However  long  I  work         はたらけど

 Life  remains  a  trial.          はたらけど猶わが生活楽にならざり

 I  just  stare  into  my  palms.     じっと手を見る


 この有名な短歌は、労働者の生活に関する啄木の代表的な発言のひとつです。彼にとって生きることは trial (苦難)です。生きることを単に hard または not easy というのではなく、慎重にこの英語を選びました。人生は、「どうするのですか」と問われる trial (裁判、試練)でもあるのです。啄木の答えはただ自分の手を見つめて状況を省みるだけのようです。


  A  FAIND

 I  slipped  my  hand  into  a  sand  dune.     いたく錆びしピストル出でぬ

 As  I  dug  in  my  fungers  touched        砂山の

 A  pistol  crusted  in  rust.               砂を指もて掘りてありしに


 ここでは、ドラマが読者の心に残ります――この次、彼は何をするのでしょうか? dune : 砂の小山 crust : 堅い外皮で覆う


  FUMES

 It  gaves   me  no  joy  to  turn  my  gaze             新しきインクの匂い

 To  my  garden  turning  green                   目に沁むもかなしや

 While  my  eyes  sting  from  the  fumes  of  fresh  ink.   いつか庭の青めり


 「かなしや」を it gives me no joy と訳すことにしました。もっとも良い訳はときおり文法的には反対になります。賢治の「雨ニモマケズ」でも同じことをして strong in the rain と訳しました。これは興味深い短歌です。啄木が新しいインクで書くことに意欲満々なのは明らかです。「突然」咲き出した庭、あるいは原稿用紙のどちらを見るべきなのでしょうか。 fume : 刺激臭


  MY  PULSE

 The  nurse's  fingers  on  my  pulse      脈をとる看護婦の手の

 Feel  warm  some  days             あたたかき日あり

 And  some  days  cold  and  stiff.       つめたく堅き日もあり


 療養中は、過ぎていく時間の感覚が鈍くなります。何か聞こえてもその意味はわかりません。一方、看護婦のような人にさわられると、そのさわり方と「意味」に敏感になります。


  COMING  TO

 Affection  for  my  wife  and  daughter       病院に来て

 Visiting  the  hospital                  妻や子をいつくしむ

 Has  brought  me  back  to  myself.         まことの我にかえりけるかな

 「我にかえり」と完全に一致するのは bring back to oneself、あるいは come back to oneself です。啄木が深く落ち込むときに、自分は自分でないとはっきりと意識していることをあらわしています。

 

  MY  THOUGHTS  AGAIN

 The  pain  in  my  chest  today  is  intense.     今日もまた胸に痛みあり

 If  I  am  to  die  let  me  go  and  die         死ぬならば

 In  my  old  home  town.                 ふるさとに行きて死なんと思う


 岩手にある啄木の故郷に関連した有名な短歌。啄木はそこで死にたいのですが、結局、彼が死んだのは東京でした。実行できないかもしれないアイデアについて、啄木はふたたび書いています。 』


 『 THE  RAIN

 When  did  summer  come  upon  us     いつしかに夏となれりけり

 With  the  comfort  for  faint  eyes       やみあがりの目にこころよき

 Of  radiant  rain?                  雨の明るさ!


 ふつう、夏雨は目にまぶしいものです。長い間、病院の暗い部屋になれている目にはとくにそうです。時に東京の雨季に暗い空はつきものです。まぶしさは啄木に安らぎを与えます。だって、もうひと夏、生き延びることができたのですから。


  IN  BED

 The  weight  alone  of  this  book       寝つつ読む本の重さに

 Exhausts  me,  sending  my  mind      つかれたる

 In  all  directions.                 手を休めては物を思えリ


  SAND

 How  easily  this  pathetic  lifeless  sand     いのちなき砂のかなしさよ

 Slips  between  the  fingers              さらさらと

 Of  a  fist!                         握れば指のあいだより落つ

  

 pathetic は「苦痛」を意味するギリシャ語の pathos に由来します。悲しみと哀れみの両方を連想させる性質が pathos にはあります。「握る」ときの手の力を強調するために fist (拳骨、握りこぶし)を選びました。


  ONE  MORNING

 The  smell  of  simmering  miso            ある朝のかなしき夢のさめぎわに

 Entered  my  nostrils  just  before  awakening   鼻に入り来し

 From  a  sad  dream.                    味噌を煮る香よ


 翻訳の最初の一行には smell (匂い)、simmering (とろ火でグツグツ煮えること)といった頭韻があり、m と s を含む miso という言葉の音は、その効果を上げています。この行とその音は空気中にただよう匂いのイメージをかもし出します。みそは今、多くの国で食べられているので、その言葉はそのままにしました。


  THE  JAPANESE  ISLE

 Tears  stream  down  my  cheeks        東海の小島の磯の白砂に

 Into  the  coarse  white  sand           われ泣きぬれて

 And  I  amuse  myself  with  a  crab.      蟹とたわむる


 啄木の孤独感と孤立感を表現する、やはり有名な短歌です。coarse white sand に coarse を選んだ理由は、それが磯を意味するだけではなく「きめの粗い」という意味があるからです。「たわむる」の場合、彼の孤独と自分に固執することを強調する amuse myself (おもしろがる、楽しむ、自らを慰める・惑わす)のほうが play with (遊ぶ)よりもいいと思いました。


  FOR  NEARLY  HALF  A  DAY

 I  picked  at  the  hard  bark  on  the  tall  tree     大木の幹に耳あて

 With  my  fingertips                      小半日

 My  ear  flush  against  the  trunk.            堅き皮をばむしりてありき


 かたい樹皮と柔らかい皮膚の対照、そして高い木と小さな耳の対照的なスケールにはっとさせられます。これは生きることのつらさのメタファーでしょうか。賢治には自然からのあらゆる種類の音、音楽さえも聞こえていました。啄木はここで自然からメッセージを受け取ろうとしているのでしょうか。しかし自然は何のメッセージを発することもありません。啄木のことを「二十世紀最初の実存主義詩人」と呼ぶことができるでしょう。


  DRIFTWOOD

 I  look  around  before  addressing       砂山の裾によこたわる流木に

 The  driftwood  left  at  the  edge        あたり見まわし

 Of  a  sand  dune.                  物言いてみる


 to address という動詞はここで展開されている二つの意味があります。ひとつは「話しかける」、もうひとつは「(物・事)に焦点をあてる」です。啄木は、「流れる(drift)」木のように、状況によってあちこち運ばれるモノとして自分を見ているのです。 』 


 啄木は、結核と戦い、貧しさと戦い、有り余る才能(情熱)と戦って、二十六歳の若さで亡くなりましたが、そのおかげで、百年の歳月を経ても、英語に翻訳しても、世界の人々に感動を与えることができます。

 啄木にもう少し楽な人生を歩んで欲しかったと思いますが、そうであったらこのような詩の輝きは、生まれていないのでは……。今回は自分の英語力不足は無論ですが、自分の日本語力不足までも痛感しました。(第109回)



ブックハンター「英語で読む啄木」 (前)

2016-03-14 10:19:09 | 独学

109. 英語で読む啄木 〔自己の幻想〕(前)   (ロジャー・パルバース著 2015年4月)

 著者のロジャー・パルバース(Roger Pulvers)は、1944年にニューヨークでユダヤ人の家庭に生まれる。UCLA、ハーバード大学院に学ぶ。ベトナム戦争への反発から、ワルシャワ大学、パリ大学へ留学後、1967年に初来日。京都産業大学、オーストラリア国立大学、東京工業大学で教鞭をとり、作家、劇作家、演出家。

 著書に「英語で読む銀河鉄道の夜」、「英語で読む桜の森の満開の下」、「英語で読み解く賢治の世界」、「旅する帽子 小説ラフカディオ・ハーン」など多数。2008年、宮沢賢治賞、2013年野間文藝翻訳賞を受賞。


 『 長い間、啄木の短歌を英訳することは気がすすみませんでした。うまくできそうになかったからです。翻訳は原文と同じような感動を与え、その感動の度合いが原文と同じくらい深い分だけ成功しているのです。

 啄木の短歌にとても具体的なメッセージがこめられていることに気づくようになったのは比較的最近のことでした。彼の短歌が名作と言われるのは、それが完璧に彫られたダイヤモンドのように澄み切っているからですが、魅力はそれだけではありません。

 多義的でいろんな意味がありますし、美しい暗示もあります。言外のニュアンスが豊かにこめられています。とらえがたい感情がただよっています。

 この矛盾しているかのような二つの特徴(具体的であることと暗示的であること)を同時に表現できなければ、翻訳は失敗に終わってしまいます。

 詩の翻訳の中でも、俳句と短歌を別の言語に訳すのは最大の困難をともないます。危険な割れ目、迷い道、恐ろしい絶壁におおわれた山に登るようなものです。

 宮沢賢治の詩を翻訳するのに費やした四十五年間をとおして、私はそういう割れ目や裂け目に何度も出会いました。しかし、啄木の場合は、割れ目はさらに深く、迷い道はさらに多く、その絶壁は見上げるだけでも首を捻挫するほど高い。

 微妙な意味にあふれたいろいろな意味が響き、あいまいで、はげしく抒情的、ありのままで切なく、簡潔……そうしたものすべてが具体的な詩のメッセージにつつまれています。

 この詩を英語にして、読者に強い印象を残すにはどうすればいいのかわかりませんでした。しかしある日、登り方が閃いたのです。私はすべての短歌を簡潔で明晰な文にして、それにタイトルをつけることに決めました。 

 日本のもっとも偉大な近代詩人の二人である石川啄木と宮沢賢治はおよそ五十キロしか離れていない場所で生まれました。その年齢差はわずか十歳で、同じ中学校に通いました。

 すべて偶然の一致かもしれません。二人とも若くして結核で死にました。啄木二十六歳、賢治三十七歳。 』 (まえがき(Perfce)より)


 石川啄木は、明治19年(1886)2月に盛岡市渋民で生まれる。明治31年(1898)に12歳で、盛岡中学(現盛岡一高)に学んだ。三年先輩に金田一京助、10年後に宮沢賢治が入学する。

 啄木の第一歌集は明治43年(1910)12月に「一握の砂」、第二歌集は明治45年(1912)6月に「悲しき玩具」を発行した。啄木は結核のため26歳の若さで、明治45年(1912)4月に亡くなっているため、啄木が「悲しき玩具」を見ることはありませんでした。


 『 ON  A  LARK

 I  lifed  my  moter  onto  my  back.           たわむれに母を背負いて

 She  was  so  light  I  wept            そのあまり軽さに泣きて

 Stopped  dead  after  three  steps.        三歩あゆまず


 題名の lark は、ヒバリと同じスペルですが、この場合は、”はしゃぐこと”の意味で、on a lark で「たわむれに」という意味です。 dead は、彼の母がこの世にあと長くいないことを示しているため、stop dead (急に止まる)を用いました。


  SURPRISE

 My daughter's  face  lit  up          猫の耳を引っぱりてみて

 When  I  yanked  the  cat's  ear         にゃと啼けば

 And  it  yelped  "Meow!"            びっくりして喜ぶ子供の顔かな

 

 「にゃと」、「びっくり」、meow、yank、yelp はすべて擬声語。題名は「びっくり」からとりました。


  IN  MY  DARKENED  ROOM

 I  turned  off  the  oil  lamp,  alone                   灯影なき室に我あり

 As  my  father  and  my  mother  walked  out  of  the  wall   父と母

 Each  holding  a  cane.                           壁のなかより杖つきて出ず


 たまたまある人が体験した現実が、読者にはシュール(超現実的)のようにとらええられるのです。 cane は ”トウ製のの杖” の意味。


  INTIMACY

 When  I  compare  myself  unfavorably  with  my  friends   友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

 I  buy  a  bouquet  for  my  wife                     花を買い来て

 To  cherish  her.                               妻としたしむ


 「したしむ」という言葉ひとつで、妻との間に何が起こるかを暗示しているからです。誰かを守りたいことから誰かを愛することに至るまで、いろんな意味あいを含む美しい英語の単語 cherish を選びました。啄木が家に戻った時、彼と節子が行うかもしれないことを、タイトルの Intimacy (深い関係、愛情行為)はさらに示唆しています。


  LOVE

 I  want  to  try  to  love  like  a  man       やわらかに積もれる雪に

 Burying  his  burning  cheek            熱てる頬を埋むるごとき

 In  soft  drifts  of  snow.               恋してみたし


 一行目の「やわらかに積もれる雪に」の抒情的な効果を soft drifts of snow であらわそうとしました。


  WEATHER

 The  rain   brings  out  the  worst            雨降れば

 In  every  single  member  of  my  family        わが家の人誰も誰も沈める顔す

 Oh  for  one  clear  day!                  雨晴れよかし


 私がイギリス人の家内にこの翻訳を見せたとき、彼女は笑いながら言いました。「まったくイギリス人の家族みたいだわ!」と。どうやら、日本とイギリスで共通なのはたくさん降る雨だけではなさそうですね。 』


 『 MEMORY

 Dozing  on  my  belly  on  a  sand  dune       砂山の砂に腹這い

 Brings  back  every  single  distant  pain       初恋の

 Of  first  love.                         いたみを遠くおもい出ずる日


 「遠く」という対象的な言葉がこの苦しい思い出を特徴ずけています。思い出の時間や場所は遠くにあるかもしれませんが、わたしたちの中では現実として生きているのです。この短歌には色気があります。彼は柔らかくてしなやかな砂の上にいます。この感覚は愛の思い出を呼び起こします。


  ONE  DAY

 I  waited  for  her  hour  upon  hour             待てど待てど

 Yer  she  never  showed  up.   So  I  carried        来る筈の人の来ぬ日なりき

 My  little  writing  table  to  where  it  is  now.      机の位置を此処に変えしは


 わたしは作家なのでこの短歌が大好きです。やはり、作品を書く机は大事です。彼は彼女のことをあきらめたでしょうか。それとも彼女への手紙を「変わった位置から」書くだけのために机を動かしたのでしょうか。


  A  FRIEND

 I  opened  myself  up  to  him          打明けて語りて  

 And  felt  I  had  lost  something       何か損をせしごとく思い

 Before  we  parted                友とわかれぬ


   BEFORE  WE  WERE  MARRIED

 My  wife  once   longed             わが妻のむかしの願い

 To  have  a  life  in  music.            音楽のことにかかりき 

 Now  she  sings  no  longer.          今はうたわず


 節子はもう幸せではないようです。とくに啄木の時代の結婚生活は、女性から自分の時間を奪い去りました。起きているすべての時間は、夫、子供、身内の世話をするのに費やされます。


  FOR  SOME  UNKNOWN  REASON

  All  I  did  was  wave  my  hat          高山のいただきに登り

 At  the  top  of  tall  mountain          なにがなしに帽子をふりて

 Before  setting  back  down  again.        下り来しかな


 「なにがなし」の英訳はいくつかあります。なぜ帽子をふるだけのために山を登り歩きしたのか、啄木本人にもわかっていなかたでしょうから、for some unknown reason を使いました。 


  AT  THE  STATION

 I  slip  into  crowd              ふるさとの訛なつかし

 Just  to   hear  the  accent         停車場の人ごみの中に

 Of  my  faraway  home  town.     そを聴きにゆく


 啄木のもっとも有名な短歌のひとつ。どれだけ故郷を恋しがっていたかわかります。擬声語の slip (そっと入る)は気づかれないように群集にとけこんだことを指しています。 』


 『 IN  THE  RUINS  OF  KOZUKATA  CASTLE

 I  dozed  off  in  the  weeds        不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて

 As  the  sky  seized              空に吸われし

 My  fifteen-year-old  heart.        十五の心


 grass は西洋の読者に芝生を連想させるので、草は grass ではなく weeds (草、雑草)を用いました。 sucked into the sky のほうが「空に吸われし」の直訳になりますが、sky (空)を能動態動詞の seize (ぐいとつかむ)の主語にしました。するとダイナミックな感じが詩にあらわれます。  ruin (荒廃)で、dozed off (まどろむ)です。


  AUTUMN  WIND

 The  millet  leaves flutter             はたはたと黍(きび)の葉鳴れる

 Rustling  along  the  eaves  of  home     ふるさとの軒端なつかし

 Taking  me  back.                  秋風吹けば 

 擬声語の「はたはた」を翻訳すると英語の二つの擬声語の flutter (はためく) と rusting (サラサラ音がする)になりなす。 leaves (葉っぱ) から l を取ると eaves (軒)になります。日本語の「懐かしさ」に一致する英語がないとよく言われます。もちろんそうではありません。これを英語にする幾つかの方法があります。ここでは taking me back というフレーズを選びました。過去の時間や場所にtakes you back、つまり運んでくれるものは、「懐かしさ」があるものです。


  ASAKUSA

 Nothing  isolates  me  more          浅草の夜のにぎわいに

 Then  slipping  in  and  out  of        まぎれ入り

 Merry  nighttime  crowds           まぎれ出で来しさびしき心


 浅草は啄木の時代、今よりはるかに娯楽の中心地でした。宮沢賢治でさえ、そこに行って劇や映画を見るのが大好きでして。群衆の中で啄木が感じる孤立感は明らかです。


  THE  TRAIN

 I  hear  a  distant  whistle.             遠くより

 It  lingers  in  the  air  before  vanishing    笛ながながとひびかせて

 Into  woods.                      汽車今とある森林に入る


 「ながなが」はここで lingers (いつまでも残る)として表現しています。 linger の語源は long (長い)や lengthen (長くする)と同じです。 vanish :見えなくなる


  SEEING  OFF  AT  THE  TRAIN  STATION

 My  wife  came  with  our  daughter  on  her  back.      子を負いて

 I  caught  sight  of  her  eyebrows                  雪の吹き入る停車場に

 Through  a  blanket  of  snow.                    われ見送りし妻の眉かな


 この短歌は大好きです。雪が激しく降っているのに、節子は娘をおんぶして駅まで啄木を見送ります。 blanker (毛布)は愛しあう人たちをかぶせるものなので、blanket of snow (雪一面)というたとえを選びました。(訳者は角巻で母と子が包まれている情景を想定してると思います)


  JAPANESE  ROSE

 Will  you  flower  again  this  year,  Japanese  rose     潮かおる北の浜辺の

 In  the  sand  dunes  of  the  northern  beach         砂山のかの浜薔薇よ

 Fragrant  with  the  tide?                      今年も咲けるや


 浜薔薇(はまなす)は英語で Japanese rose と呼ばれています。潮とバラの香りがこの短歌では美しく混ざっています。まるでその香りがするようです。frabrant : よい香りの、tide : 潮の干満 』


 ここで終る予定でしたが、紹介したい啄木の歌が、20首ほど残りましたので(後)とします。(第108回)

 


ブックハンター「マタギ」

2016-03-05 10:00:06 | 独学

 108. マタギ――矛盾なき労働と食文化  (田中康弘著 2009年4月)

 今回も「チェンジング・ブルー」と同じく、成毛真著の「面白い本」に紹介されていた一冊です。では、まず「面白い本」の話から始まります。

 『 「マタギ――矛盾なき労働と食文化」はカメラマンでもある著者が、いまや失われつつあるマタギの生態に迫ったフォト・ドキュメンタリーだ。読み進めるにつれ、マタギの生き様が日本人の忘れつつある生命観を呼び覚ます。

 かつて日本人は、自然を畏れ、敬いながら生きてきた。狩りの獲物にも、人間のための「食べ物」としてではなく、自然から「命をいただく」という姿勢をもって向かい、ありがたく供養してきた。その精神性がマタギの狩りには脈々と受け継がれているのだ。

 目を奪われるのは迫力の写真とともに綴られる「けぼかい」と呼ばれる熊の解体作業だ。まずマタギたちは熊の魂を鎮め、山の神に感謝するために祈る。そして高価で取引される毛皮を剥がし、全身を解体する。

 鮮やかに写し撮られた、自らの生を堂々と与えんとする皮膚のない熊の姿には威厳すら漂う。脂は「熊の脂」に、胆のうは「熊の胆」として薬になる。捨てる部分は一切ない。

 マタギはいまや一般人と同様に会社勤めをし、学校に通っているものの、その精神文化を受け継ぐため、熊狩りをいまも行っているという。熊はマタギにとって命をつなぐものであり、その狩りは人をつなぎ、さらには人が自然とつながる術なのである。 』 (面白い本 成毛真より)

 本書は、カメラマンである著者が、秋田県阿仁町で、ウサギ狩り、岩魚釣り、天然舞茸を追う、熊狩り、鍛冶屋西根正剛の袋ナガサ……と行動を共にした写真集であるから、写真だけを見ても、感動が伝わってきます。

 私はうすうす感じてましたが、一流の写真家は文章も上質です。このブックハンターでも、写真家の本をずいぶんと紹介してます。「面白い本」で成毛真は、「チェンジング・ブルー」に負けず劣らず、このように絶賛してます。

 

 『 私は廃村寸前の集落を取材したり、自給自足の生活を目指す人たちの写真を撮っていた。元々が九州の田舎人であり、大学も島根県の田舎大学農学部出身のカメラマンで、バブル経済が終わりを告げた1990年代初め、私の稼ぎは知れたものであった。

 そんなある日、暇だったので某雑誌の編集部に遊びにいった。「最近面白いことあった?」 いきなり仕事をくれとは言いにくい、これはそんな時の常套句である。

 「うーん、マタギの鍛冶屋さんの所に行ったけど」 マタギ? マタギて山猟師みたいなものだったかな。 マタギに対してはその程度の認識しかなかった。しかし ”マタギ” という言葉の響きは妙な力を持っていたようで、この日から私はマタギとの不思議な縁に導かれるのである。

 初めてマタギの里へ行く日がやって来た。ある雑誌にマタギの企画を持ち込み、それが採用されたのだ。旅費が出るこの取材は、仕事が少ないカメラマンにとっては大変有り難い話である。

 目指すは秋田県阿仁町(あにまち、現北秋田市)。田舎系自然系の取材をメインとしているカメラマンであるにもかかわらず、私はそれまで秋田県には行ったことがなかった。

 秋田初体験がマタギの取材である。東北自動車道を盛岡まで北上、そこから一般道で田沢湖を抜けて、国道105号線を真っ直ぐに阿仁を目指す。広葉樹の森がうっすらと色付き始めた10月初旬のことである。

 慣れない道に8時間以上かかってやっと阿仁町に入った。比立内(ひたちない)という集落が、今日の宿があるところだ。調べると、阿仁町にはこの比立内と根子(ねっこ)、そして打当(うつとう)というマタギの集落が三ヵ所あるようだ。

 泊まる所は集落の中程にある松橋旅館という宿で、玄関を入ると熊の剥製や敷き皮が沢山置いてある。さすがはマタギの集落だと感心していると、やはりここの主人はマタギだった。ずらりと並んだ熊達も全部自分で仕留めた獲物らしい。

 一泊二日というタイトなスケジュールで旅館の主人や役場の人、そしてマタギの鍛冶屋さんの取材をこなした。帰りの時間を考えると午後3時過ぎには阿仁を出なければならない。まさに駆け足の取材であった。

 この時の取材ではマタギについてはよく分からなかった。町中で会う人に話を聞くと「マタギ? マタギはもういね(いない)」と何回か言われたのだ。至る所に”マタギの里”という看板があふれているのに、そのマタギがいないとは一体どういう意味なのだろうか。

 マタギがいなければ、旅館の主人や鍛冶屋さんは一体何だというのだろうか。実に不思議な話である。マタギについてはよく分からない取材だったが、ただひとつ心に残る台詞があった。それは鍛冶屋さんの次の言葉だ。

 「マタギにとっては一日40キロなんて日帰りの距離っすべ」 一日40キロ! それも山での話である。山の中を40キロも歩き回るのはのは、精神的にも体力的にも驚異的だ。体力に自信のない私は、その一点だけでもう尊敬してしまう。

 しかし、マタギは何故そんなに山を歩くのだろう? 何故そんなに歩けるのだろう? 見たい、知りたい、一緒に山に入りたい。帰りの車の中で少しずつそんな気持ちが強くなっていくのであった。

 マタギと一緒に山に入りたい。そんな願いをかなえて叶えてくれたのは、印象深い言葉を言ったマタギの鍛冶屋である西根正剛(まさたけ)氏だ。彼は初めて阿仁を取材で訪れた時から快く迎えてくれた。

 「あの、また遊びに来てもいいですか? 出来れば山にも行きたいんですが……」 取材の帰り際、西根氏に恐る恐る伺った。「どうぞどうぞ、いつでも来てください」

 私はこの答えで、西根氏を勝手に山の師匠と決めつけたのである。そして、ここからマタギとの数々の冒険(私にとっては)が始まった。 』

 

 『 マタギは非常に特殊な狩猟集団だ。日本国中に山漁師は存在するが、実はマタギと呼ばれる人々は限られた地域にしかいない。北東北から長野県北部の雪深い山間部にマタギ集落は点在している。

 マタギは猟をするが、決して職業猟師ではない。マタギに限らず、現代日本国中に猟師を生業としている人は皆無に近いのである。これを初めて聞いたときには驚いた。

 てっきりマタギは狩猟を生業としていると思い込んだいたからだ。ところが、実際には狩猟法で猟期や獲物が限られているので、猟で生計を立てるのは極めて難しい。

 ではマタギ達は何を生業としているのか。ある人は旅館であり、ある人は工場勤めであり、またある人は公務員なのである。つまり我々と同じ、ごく普通の社会人という訳だ。もっとも私はごく普通の社会人とは言い難いが。

 古のマタギは、鳥も獣も山のすべての生き物を狩猟対象としたきた。今では狩猟対象外である特別天然記念物のニホンカモシカさえ、マタギにとっては有り難い山の恵みだった。

 昔のマタギが狙う獲物はというと熊、ウサギ、テン、キツネ、アナグマ、サル、カモ類やヤマドリなどである。しかし、毛皮の需要がほとんどなくなったテンや狐などは狙う人も少なくなり、今は熊、ウサギ、ヤマドリやカモ類が現在のマタギ達の獲物である。

 現在のマタギ達にとっても古のマタギ達にとっても、最大最高の獲物はなんといっても熊である。実際にマタギが狙う熊は、月の輪熊で、大物でも100キロほど、平均で60~80キロ前後である。 』

 

 『 いまは魚でも肉でも綺麗にパック詰めされている。それが命あるものだったとは、感じさせない妙な工夫が施され、単なる食材としてしか意識されない。食肉は特にそうだ。

 まず命を奪うことから始まり、血と脂の中で解体されていく行程がまったく隠されているのだ。果たしてこれは正しいことといえるのだろうか。私はそう思えない。

 他者の命を頂くことで人が生きていくという大切な行為は、狩猟の中にそのすべてを見ることが出来る。ぜひ見たい。それもマタギ最高の獲物である熊ですべてを確認したい。

 その為には、一緒に熊狩りに行く必要がある。しかし、阿仁地区猟友会はマスコミ関係や素人の参加を基本に認めていない。それは危険であると同時に、思想を異にする人々からの抗議が予想されるからだ。

 これには阿仁地区猟友会も頭を痛めている。私も一度真正面から猟友会に取材依頼をしたが、にべもなく断られた。そこで猟が無理なら解体の現場だけでも立ち会えないものか考えた。

 マタギは熊の解体の作業を ”けぼかい” と呼ぶ。ぜひ、けぼかいが見たい。猟に行くには体力的に保たないだろうし……。根性無しの代表である、私は。

 ある初冬の朝、それは西根師匠からの電話で始まった。「今朝、熊獲れたども、田中さんどうする?」 えっ! どうするもこうするもない。「もちろん、行きます!」 このひと言だけを伝え、電話を切る。

 電話を受けたのは朝の十時。昼に入っていた予定をすぐさま取り止め、大急ぎで荷物をまとめて車に放り込むと高速道路に飛び乗った。休息もろくに取らずひたすら走り、西根師匠の家に着いたのはぴったり午後六時。

 着いてみると、家の前に熊が万歳をするような格好で吊るしてあった。これは凄い、大迫力。その大きさには圧倒される。聞けば、体重100キロ超の雄の熊だという。

 西根師匠の家は道路に面しているので、これがまた目立つ。どんな看板よりも人目を引き付けるのは間違いない。実際、わざわざ車を止めて写真を撮る人が何人もいたらしい。

 大熊が獲れたことはあっという間に町中に知れ渡り、あちこちからお祝いのお酒が届いている。猟の仲間も仕事を早仕舞いして駆けつけて来るし、何か祭りの始まりみたいでそわそわする。 』


 『 本来は熊が獲れたら直ぐに解体するものである。しかし、私が前々から「けぼかいを見せてくれ」と頼んであったので待ってくれていたのだ。けぼかいで最初に行うのは、祈ることである。

 熊の魂を静め、この熊を授けてくれた山の神に感謝をする。仰向けの熊の頭を北に向け、御神酒を手向けて塩を盛る。 「あぶらうんけんそわか」 呪文を唱え、しばし祈る。

 この呪文はマタギが山に入る時に必ず唱えるものであり、また山中でも何か不吉な感じがすればすぐに口にする。儀式の間中、周りの者達は神妙な面持ちだ。

 これが済んでから初めて熊の肉体にナガサ(マタギ山刀)が入る。まず喉元から胸に掛けて一直線に、そして四肢の内側にも切り込みを入れる。ここから服を脱がすように丁寧に皮を剥がしていく。

 見ていて、この作業は非常に神経を使っているのが分かる。熊の胆と並んで、毛皮は換金性が高いので穴でも開けたら台無しだ。いくら手際のいいマタギでもこの作業は大変そうだ。

 特に冬眠前の熊なので皮の下にはかなりの脂肪を蓄えていて、これがぬる付いて時間がかかる原因となっているのだ。体をぐるっと回しながら全身の皮を剥ぎ取る。

 背中にはかなりの量の脂が付いている。背脂という物だろうか。脂は、背中のものも皮に付いたものも丁寧にこそぎ落していく。これは ”熊の脂” という立派な薬になる。

 丁寧に皮を剥がされた熊は、まるで人間のように両手(前足)を空中に突き出している。これがまた凄い筋肉だ。熊の力は人間を遥かに超えているそうだが、見れば納得である。

 皮を剥がれた頭部は、よく見ると意外に細い。熊の顔は丸いように見えて実は細面だったのか。すっかり皮を剥がし終えると、足首を外してから腹を裂いていく。

 喉元から骨盤まで断ち割るように切り終えると、今度は内臓を取り出す。仕留めてから解体までに時間がかかったせいで、腸内が発酵して風船のように膨らんでいる。内臓の中でも肝臓と胆のうは薬効があるから特別扱いだ。

 肝臓は薄くスライスしてあぶり焼してもいいし、乾燥することも出来る。内臓の中から肝臓は直ぐに取り出したが、胆のうがまだ見つからない。掻き分けるようにして探すと、縮こまった胆のうがやっとあった。

 「こりゃあ、小さいな。まあ冬眠前だからしょうがないべしゃ」 聞けば、上質の熊の胆は冬眠明けの熊から採れるものらしい。冬眠中に胆のうが大きくなり、胆汁をたっぷりと蓄える。

 だから春熊からは水を入れた風船のような胆のうが手に入り、立派な熊の胆のうができるのだ。今回は冬眠前の秋熊であるため、残念ながらしぼみきった胆のうしかなかった。

 すっかり内臓を取り出すと、熊の胴体にぽっかりと穴が開く。この腹腔に溜まる血をおたまで掬い取る。意外と少ない。この血液も昔は大事な商品だった。乾燥して粉末にした熊の血は婦人薬として重宝されてきた。

 脂、血液、骨、肝臓、胆のう、これらは大事な薬であり、重要な山里の収入源だったのである。内臓を処理し終えると、四肢を切り外して枝肉と胴体に分ける。そこからさらに肉だけの部分と骨付き肉とに分けるのだ。

 残っている肉をナガサで丁寧にこそぎ落すと、あばら骨がまるで開いた葉っぱのように見える。最後に残った太い骨は小振りの手斧でバンバンと断ち割っていく。こうして熊は赤肉、骨付き肉、内臓に姿を変えた。

 後にはべろーんと伸びた皮が血と脂に光っている。この上にたっぷりと塩を掛けてからくるくるっと丸めて、解体全行程は約二時間で終了した。

 以前、食肉加工工場で豚の処理を見たことがあるが、基本は同じ。処理場が分業制でオートメーション化された肉の工場なのに対して、マタギのけぼかいは家内制手工業である。 』


 『 けぼかいが済むと、次は肉の配分である。今回は巻狩りの末に手に入れた獲物ではない。西根師匠が見つけて仲間三人と追い、仕留めた熊だ。それでも独り占めしないのがマタギの作法である。

 巻狩りの時でも同じ決まりだ。勢子もブッパ(鉄砲打ち)も同量の肉を手にする。さらに参加できなかった仲間にも肉を分ける。これを ”マタギ勘定” という。

 100キロ超の熊からは、30キロ程度の肉が取れる。熊の胆や皮のように、換金性が高く分けられない物に関しては入札にかける。食べる分は完全に平等だ。

 ある時テレビ見ていたら、極北の狩猟民族が同じやり方で肉を分けていた。 「マタギ勘定だ!」 思わずテレビの前で叫んだ。マタギ勘定は狩猟民の素晴らしい知恵なのである。

 一部の人間だけが腹一杯食い、残りはカスをしゃぶっているといった状態で、狩りという危険な共同作業をやれるわけがない。だから、体調が悪く猟に参加出来なかった仲間にも同量の肉を届ける。

 明日はわが身である。相互扶助の精神が素晴らしい。これは小さな共同体を守っていく知恵なのだ。今は食うに困らない時代であるが、マタギ勘定はしっかり生きている。

 西根師匠は、均等に分けられた肉の塊をビニール袋に入れると「これは田中さんの分」と差し出してくれた。マタギ勘定の中に入れてもらえて最高にうれしい。 』


 『 マタギや山の民の生活に興味があるが、熊を殺して食べるのは許せないという人が結構いる。まず言っておくと、マタギは欧米のハンター達とは違う。欧米のスポーツハンティングは豊かな階層の遊びであり、ただ殺すのが目的である。

 人間より遥かに巨大だから殺して自慢する。珍しいから殺して自慢する。殺生それ自体を楽しむために、あらゆる生き物を狩りの対象にしてきたのだ。それらとマタギを同じハンターと考えることが間違っている。

 特に欧米の作り上げてきたシステムがいかに自然を痛めつけるものだったか。近代文明がいかに傍若無人に振舞ってきたか。エコロジーという考え方はつい最近出てきた話である。

 しかし、マタギや山の民は大昔からエコロジカルな生活をしてきた。そんな山の民の生活の一部である熊狩りを、山里の暮らしがなんたるかを知りもせず、また知ろうともせずに異を唱える人達がいる。

 可愛い熊を殺すとはけしからん、許せんと。そうした人々から自分たちの生活形態を守ろうとしたその結果、マタギ里の猟友会ではマスコミを排除する方向に動いたのである。

 しかし、これには賛成しかねる。積極的に宣伝する必要はないが、ことさらに隠す必要もないと思う。 「何故、熊を撃つのだ」 こう言われたら、きちんと主張すべきである。ただしその時に ”伝統” ”文化” のみを強調するのは間違っている。

 伝統や文化は時代の流れの中で生まれて変化し、場合によっては消えていくものなのだ。マタギという集団がその家族を認識する為の重要な行為が狩猟であり、アイデンティティーの一部なのである。

 そのことを抗議する人達にきちんと説明すべきだ。人間は決して一人では生きていけない。必ず何らかの集団に属している。その手段が結びつくための大事な結束材料が、マタギの場合は狩猟なのである。

 古来、日本人は自然を敬い恐れてきた。決して自然を征服しようなどと考えず、その力を上手く利用し、折り合いをつけようとしてきた。すべてのものに人知の及ばない力を感じ、神として敬った。

 山にも川にも海にも木にも石にも田にも畑にも便所にすら神をみていたのだ。ヨーロッパ文化圏の多くでは神はキリストだけであり、まして自然の中に神を感じることはない。

 彼らがよく高山などで神を見たなどという時の神もキリストのことであり、決して日本人の言う神的なものではない。元々彼らにとって自然は脅威以外の何物でもなく、出来れば徹底的に人間の都合のいいように変えてしまいたかった。

 森は悪魔の棲家であり、神々がいる場所ではない。とてつもなく巨大な鯨も海の悪魔として長く描かれ続けたではないか、脂を取ったら後は捨ててしまう彼らのやり方と、すべてを利用させてもらうと考えて鯨の魂をきちんと供養してきた日本人。

 動物は神が人間の為に作ったものだから、殺しても、その為に絶滅しようとも構わないと考えていた欧米文化。いったいどちらがエゴイストであったのかは歴然としている。 』 (第107回)