チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「魚屋の基本」

2017-04-19 16:05:02 | 独学

 134. 魚屋の基本(角上魚類はなぜ「魚離れ」の時代に成功することができたのか?) (石坂智恵美著 2016年11月)

 本書は、”新潟県・寺泊を拠点に関東信越に22の直営店を展開する鮮魚専門店・角上魚類。消費者の魚離れやスーパーマーケットの台頭をものともせず、「魚のプロ」である経営者はいかにして繫栄店をつくりあげたのか?” と帯に書かれています。では、いっしょに話を聞きましょう。

 『 魚種を増やして対面方式で売上が増えるならば、どの鮮魚店でも同じことをすれば角上魚類並に繁栄することになる。ところが、そうはならない大きな強みが、角上魚類には二つある。

 第一に、地元新潟で仕入れた魚の直送便があること。通常、鮮魚は各地の漁港で水揚げされたものが東京・築地市場に集結し、そこで買い取られる。水揚げされた地域によっては、築地で売り出されるまで二日がかりのこともある。

 その点、角上魚類では毎日築地市場で仕入れを行うと同時に、新潟市中央卸売市場で朝競り落とした魚をそのままトラックで運び、各店に昼までには配送することになっている。

 日本海側のギスやハタハタといった珍しい魚が、最高の鮮度をキープしたまま店頭に並ぶのだ。築地からの魚と合わせて約100種類の鮮魚が揃う様子に、買物客の角上魚類への期待感はおのずと高まる。

 第二に、価格の安さである。角上魚類では鮮度が高く種類豊富な魚を、一般的スーパーより、二~三割安く販売している。

 角上魚類では、新潟と築地の両市場にそれぞれ八~九人のベテランバイヤーがスタンバイし、バイヤー同士が電話でどちらの市場で、どの魚種をどれだけ買うかを決定する。

 さらに角上魚類の価格競争力を支えているのが、驚異的な廃棄率の低さである。スーパーの平均が7.8パーセントであるが、角上魚類の廃棄率は、なんと0.05パーセント!

 角上魚類の店舗面積は平均100坪ほどだが、そこに20人ほどの正社員が配置され、パート・アルバイト社員を加えると、平日は約30人、土日は役70人で店舗を運営する。

 店舗には、「鮮魚対面」 「鮮魚パック」 「寿司」 「刺身」 「マグロ」 「鮭」 「魚卵」 「冷凍」 「塩干」 「珍味」 「惣菜」の11部門あり、各部門は3~5人が担当する。

 通常のスーパーと比べて圧倒的に人手をかけ、各部門の役割を明確にし、商品を売り切ることに全力を注いでいるからである。

 さらに、店長が頻繁に売り場をチェックし、新鮮さを失わないうちに自慢の寿司ネタや刺身盛り、また惣菜などへと商品形態を変え、売り切る策を講じる。タイミングを外したが最後、売れ残りロスとなってしまうため、その判断が重要となる。

 廃棄率について柳下は、常々各店舗の店長たちに「売れ残りや廃棄は、会社に対する背信行為だ」と言っている。店長たちはさぞプレッシャーに感じているだろうと思いきや、存外、その緊張感を楽しんでいるようにも見える。

 ある店長は、自信に満ちた笑顔で言う。「今日の魚をどう売るか。戦略を立てて、自分の裁量で売り切る楽しさがあるんです」 』


 『 柳下浩三は昭和15年、新潟県の中越地方に位置する、日本海に面した小さな漁村、寺泊町(現長岡市)に生まれた。

 網元兼卸商の柳下商店は、寺泊港で水揚げした魚や新潟市の市場から買ってきた魚を長岡や三条の市場へ出すほか、近隣町村の料理屋や魚屋へ行商をして生計を立てる。

 寺泊の家に戻った浩三は、新潟市場へ行っては地魚のほか、九州のアジや北海道のサンマなどいろいろな魚を二トン車一台分買い付けて、それを寺泊の魚屋に卸していた。

 また寺泊や出雲崎で水揚げされた魚は三輪トラックに積み、分水や加茂、三条、長岡など、近在の魚屋や料理屋へ売りに行くのが日課だった。

 寺泊町の周囲には、弥彦や岩室といった温泉場、花街がある。江戸時代から続く情緒ある遊興の場に、二〇歳を過ぎて間もない浩三は、一発ではまってしまったのである。

 たとえば寺泊から三十キロほど離れている巻町(新潟市西浦区)の料亭・三笠屋では、浩三が座敷に上がると店の主がいつも、宴会終わりに寺泊の自宅まで送ってくれた。

 その晩は「飲み代がない」といってツケ、二週間後に前回の飲み代を払いに行ってはまた飲んで、ツケてくる。ところがその後、父から、「この年末を越せないと倒産するかもしれない」と、打ち明けられた。

 父が言うように、冷静になって帳簿をみると、柳下商店の経営は決して楽ではないことがわかり、青くなった、ここで浩三の芸者遊びは、終焉を迎えた。

 そんな折、商売の方向性を大きく左右する出来事が二つ、起こる。浩三はこれにより、経営者としての第一歩を踏み出すのである。 』


 『 道路の整備はまだまだ不十分だが、自動車がやっと増え始めてきた昭和四十年。今のように保冷車などはないので、せっかくとれた魚も鮮魚として流通できるのはたった二日間だった。

 特に六月から八月にかけての暑い時期は、魚の鮮度が保てず苦心をする。そこで浩三は夏場になると、獲れた魚を焼いて「浜焼き」としても販売した。

 当時は縦一メートル、横幅約二メートルの木箱の中に砂を入れ、中央に火を熾し、イカやサバ、アナゴ、カレイなどの串刺しの魚を四〇~五〇本、火の周りに刺して焼く。

 箱の周りにはパートで頼んだおばさんたちが四,五人立ち、片側が焼けるまで一五分ほどじっと待つ。焼けたところを見計らって、汗をぽとぽと流しながら、一本ずつ表裏をひっクリ返し、また焼き上がるまでじーっと……。

 浩三は毎年見るその光景を、「なんという無駄なのか!」 と、じれったく思っていた。焼いている者は焼けるまでが仕事とばかりに箱に張り付きっぱなしだし、炭火の熱も上に逃げていくので、無駄が重なる。

 浩三はいかに合理的に浜焼きを作れるかと、思案に暮れた。昭和四四年になって浩三は、火のトンネルをつくって焼いてみたらどうかと、はたと思いつく。

 幅三〇センチ、奥行き二メートルのトンネルを作り、その両端にはグリラー(魚を焼くところ)をつける。トンネルは二本作って平行に設置し、トンネルをくぐったらUタ-ンして周回するように、ベルトコンベアーを楕円型に配する。

 ベルトコンベアに魚の串を一本ずつ挿せる筒を立てて魚を回転させれば、往復で計四メートルの火の中を自動で通り、魚はすっかりきれいに焼けるのではないか……。

 そのアイデアを簡単な手書きの図面にして、新潟市内の鉄工所に見てもらう。一ヵ月後、精密な設計図と共に、「製作費は百五十万円かかる」と返事が来た。

 浩三は後先を考えずに製作を依頼したのである。昭和四四年の一五〇万円といえば、現在の貨幣に換算すると1千万円ほどになる。

 柳下商店も左前で苦しいところだが、やはり地元では信頼されている古い家柄である。なんとか現金をかき集め、浜焼機の製造を依頼した。

 機械のでき上がりは想像以上のものだった。店に運ばれてきた畳二枚分の、ステンレスで作られたトンネル状の箱はぴかぴか光って、いかにも立派である。

 うまくいくのかと内心ハラハラしていた浩三の前で、見事にこんがりと魚を焼きあげてくれた。浩三による浜焼機の開発で人件費は三分の一に、燃費は五分の一に節約できたが、何といっても大きかったのは、同じ時間でそれまでの三倍の量を焼けることだった。

 当然、浜焼きの売上も三倍になり、経費は今までの三分の一以下となった。この成功により、柳下商店の経営はずいぶん楽になる。その後、この機械はあっという間に同業者に真似をされ、広まっていった。 』


 『 次に浩三が手がけたのは、いまではすっかりおなじみのあの発砲スチロールの魚箱である。実は発砲スチロール箱をふた付きの魚箱に転化した最初の人物が、柳下浩三なのである。

 浩三の頭を悩ませていた問題は、浜焼きの他にもう一つ、あった。イカは東シナ海で生れ、成長しながら日本海を北上してくる。新潟沖には六、七月にやってきて、そのイカを目指して全国からイカ釣り船が集結した。

 寺泊港にも約四〇艘の船が水揚げして、その莫大な量のイカを東京の築地市場へ送っていた。当時の魚箱といえば100%が木製で、内側をビニール二枚で覆い、大きな氷と海水を入れてイカを詰めて送った。

 原始的な方法だったが、その頃はみなそれが当たり前で、他の容器で代用しようなどとは誰も考えもしなかった。しかし、寒い時期に木箱で送るにはまだよいが、夏場の暑い時期の出荷にはどうにも難儀した。

 水揚げされたイカをたっぷりの氷で覆っても、翌朝築地に到着した時点で氷はほとんど溶け、肝心のイカの鮮度が落ちて値段も当然安くなってしまう。

 船から水揚げされたときには黒々と、瑞々しいイカが白くなり、刺身ではとても食べられない状態になってしまうのだ。「なんとかして、この活きのよさを保ってまま築地へ送ることはできないか」浩三は日々、思いを巡らせた。

 ある日、業務用の大型冷蔵庫の修理に立ち会うことになり、その作業を見ていて、ふと気になった。修理をする職人が、発砲スチロールを持っている。

 「このスチロールは、何のために使ってるの?」 訊ねると職人は、「冷蔵庫の断熱材ですよ」と言う。断熱材は文字通り、熱を通さないもの……。 「発砲スチロールだ、これはいける!」 浩三は直感した。

 さっそく専門の製造業者を呼んで、サイズはこんなもの、ふた付きで強度はこういうふうにと相談する。業者は笑顔で快くひきうけてくれたが、「金型代の九十万円は、お客さんが負担してくださいね」

 浜焼機の一件から三年を経た昭和四七年——浩三には浜焼機で成功した気持ちもあり、また九十万円なら手持ちの金で何とか出せると踏んだ。のるかそるかの博打であったが、やらない後悔はしたくなかった。

 まもなくふたに、柳下商店の屋号「角上」のマークが付いた箱が仕上がり、さぁ、一勝負!と浩三は息巻いた。獲れたてのイカを詰めて築地へ送る。その結果をいまかいまかと首を長くして待つ。

 ところが、である。浩三の意に反して、届いた声は「手鉤が使えないから困る」という、落胆させるものだった。市場では荷揚げ屋が木箱に手鉤をひっかけて荷物を下ろすので、発砲スチロール箱では手鉤が使えず荷を下ろすのに手間がかかるというのだった。

 しかし大枚をはたいて箱を量産したのだ。ダメと言われてもそう簡単にあきらめられなかった。浩三は築地からの苦情を無視した、その後も四,五回にわたり、新しい箱でイカを送り続けた。

 すると……、ある日を境に、柳下商店のイカはそれまでの四倍、五倍もの値段で売れはじめたのである。築地から「もっと送れ」の熱烈コールが入る。

 それもそのはず、角上の屋号の入ったふたを開けると、発泡スチロール箱の中にはまだ生きて、半透明で美しいイカが虹色に輝いている。

 それまでどんなに活きのいいイカでも、すでに白く変色していたので、新鮮なイカが市場に並ぶなど、想像すらされていなかったのだ。浩三は飛び上がって喜んだ。「まさに、俺の狙い通りだ!」

 ただ、浜焼機の一件同様、人の成功を黙って指をくわえて見ている同業者はいない。翌年には同じ箱を競って作り、木箱の箱は見る見るうちに、真新しい発砲スチロール箱へと変わっていくことになった。

 しかし、わずか一年でも同業者より早く箱を開発したことで「角上」ブランドのイカはすっかり有名になっていた。二年目、三年目以降も他社より五割ほどの高値で売れ、柳下商店は財政的にもゆとりができた。

 この一件は浩三に、商売をする上での大きな自信を植え付けた。現在、日本の水産物取扱量全国一である築地市場の広大な場内に、気が遠くなる数の魚箱が積まれ、並んでいる。

 この風景の源が、浩三のアイデアなのだ。これはまさに、鮮魚の流通革命と言える発明である。 』


 『 昭和四十年代後半になると、これまでのように多種類の魚が売れなくなり、魚屋が軒並み廃業するという、混沌の時代が到来した。浩三は毎日、寺泊の魚屋に魚を卸しながら、時代の変わり目をひしひしと感じていた。

 昭和三十年代の寺泊の魚屋といえば、柳下商店から魚を仕入れて在郷へ売り歩く棒手振りも入れれば三十人はいただろう。その小売がにっちもさっちもいかなくなり、一人、また一人、一軒、また一軒と商売をやめていった。

 小売店がつぶれれば、卸業も不振にあえぐ。柳下商店も例外ではなかった。「このままいったら、うちもいつかダメになる。どうすればいいのか」

 昭和四八年に、県都である新潟市の万代シティにダイエー新潟店が営業を開始。地元でも以前からスーパーマーケットを開業していた清水フードセンター、原信、ウオロクも多店舗展開を始めて競争が激化していた。

 浩三はまず敵を知ることが肝心と、それらのスーパーの偵察を始めた。魚売場を見て回って驚いたのは、魚がとても高い値段で売られていることだった。どれも原価の二倍、三倍もする。

 「これなら直接、俺が仕入れをして売れば、この半額、いや三分の一以下の値段で売れる。お客さんも鮮度のいいもので安ければ、買いに来てくれるのではないか」浩三はすぐに、小売店経営を思いついた。

 ただし寺泊の人口は六千人しかないので、寺泊だけを相手にしては成り立たない。近在の与板や和島、分水といった、車で一〇~二〇分で来られる地域から集客をしようと考えた。

 決めた。となったら気は急ぐ。その頃、信濃川の大河津分水建設をきっかけに河口の土砂が堆積し、寺泊の砂礫海岸が広がったことで新しい道路が敷かれたことも浩三の気を引いた。

 「この道路に面した一角で、小売店を開こう」浩三は三三歳、所帯を持ち子供も生まれていた。一歩も引けない状況での決断だった。 』


 『 柳下の家で、新道路に面した一画を所有していたこと、それは浩三にとって幸いであり、そのことが小売店を始める後押しにもなった。

 「お前がしっかりやるなら何をしてもいい。だが、うちは借金も重ねてきて、俺には金の工面はしてやれない。全部自分で手配できるというなら、思い切ってやってみろ」

 父親にそういわれ、浩三は腹をくくった——といえば聞こえはいいが、実は浩三は、銀行から金を借りるのは初めての経験。浜焼機にしても発砲スチロールの魚箱にしても、手元の現金をかき集め、あとは父の算段にまかせていたのだ。

 まず浩三は建築屋を訪れ、土地の広さや建物の大きさと間取り、設備の内容をざっと話して、「設計図を書いて、見積もりを出してくれ」と頼んだ。建築屋はまもなく、設計図と見積もりを持ってきた。

 「この規模の店だと、五千万円かかる」そういわれて浩三は、「じゃあ、まず手付に1千万をあんたに払う。工事の中間に三千万、でき上がった時に1千万払うようにするから。明日さっそく、銀行に行ってくる」と気安く請け合った。

 翌日、銀行の窓口に出向いた浩三は勇んで、銀行の支店長と直談判をした。「今度できる新しい道に、小売店を開こうと思う。店舗を建てるのに五千万円かかるから、貸してくれ」

 支店長は眉をひそめて浩三を眺めると、聞き慣れない書類の名前を訊ねた。「柳下さん、あんた、事業計画書はあるのか」 「事業計画書——(ってなんだ?)——いや、持ってない」 「馬鹿をいうな!」

 銀行は金を貸すところ、こっちは金を借りてやるんだから、などと軽い気持ちで行った浩三は、一喝された。「あんたの家はこれから借金をするには担保がない。保証人は誰かいるのか」

 「いや、いない」支店長は呆れた様子で、借り入れに必要な書類や条件をメモに書き記し、浩三に手渡した。「うちに帰って事業計画書を書いて、担保や保証人を揃えてから、また来てください」

 コトバは優しかったが、乾いた響きが浩三に浴びせられた。銀行からさっさと追い返された浩三だったが、ひるむことはなかった。計画書は、計画という「予定」を書けばいいのだから、自分で適当に書ける。それならば大丈夫。

 問題は保証人だ。気楽に考えていたが、浩三に金がないのは誰もが知っている。なり手がいないかもしれないが、当たって砕けろとばかり、あくまで前向きだった。

 浩三はそれから、地元で商売をして勢いのあった親戚や友人などを複数回って頼んだが、すべて断られた。そんなものかと気落ちしたが、ここであきらめてはいられない。

 保証人探しをはじめて一ヵ月が経とうという頃に、今度は高校時代に下宿をさせてくれた新潟の叔父に頼みに行くことにした。事前に「保証人の話で」と匂わせたのも、よかったのかもしれない。

 向かい合って座った座敷で、無口な叔父はだまって浩三の計画を聞いてくれた。叔父は北洋漁業の網元をしていて、漁獲高もかなりあり、実際、景気もよかったようだ。

 浩三が高校生のときは、叔父は一緒に住んでいても顔を合わせることもなく、話すこともなかった。ただ、高校時代に浩三が、野球に夢中になっていたことは知っていて、密かに応援してくれていたと、のちに父から聞いたことがある。

 叔父は床の間を背に、静かに煙草をくゆらせながら、なぜ小売店を出したいのかを懸命に話す浩三を見つめていた。「しょうがない」突然、叔父が発した。「保証人になってやる」

 ありがとうございますと、浩三は勢いよく頭を下げた。叔父にとってみれば実家である柳下商店の一大事ということで、力を貸してくれたのだろう。

 北洋漁業の成功も浩三が思ってた以上で、たとえ浩三が失敗し、保証人として返済しなければならなくなったとしても、叔父には痛くもかゆくもない額だったのかもしれない。 』


 以下、”何もない浜辺に鮮魚専門店を出店”と続きますが、私が紹介するのは、ここまでです。(第133回)


ブックハンター「ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」

2017-04-10 14:19:29 | 独学

 133. ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた (パット・シップマン著 2015年12月)

  THE  INVADERS (How Human and Their Dogs Drove Neanderthals to Extinction) by Pat Shipman Copyright ©2015

 本著は、題名でその結論を述べてますが、著者の仮説はおそらくかなり近いと考えられますが、これを証明するための確たる証拠となると非常に難しいのです。

 人類が30~40万年前に、旧人類からネアンデルタール人と現生人類に分かれたらしいのですが、種としてはほぼ同一であると考えられます。ネアンデルタール人が先にアフリカを出てヨーロッパに渡って、新人類が後らしいのですが。

 7万年前頃に、アフリカを現生人類は出発して、ユーラシアからベーリング海峡を渡って、北アメリカから南アメリカまで拡散しました。

 地球は、現在までの百万年の間に11回の氷河期と11回の間氷期をノコギリ状に入れ替わっており、気象変動がどの状態にあったかが、一つの要因である。(この部分は、チェンジング・ブルー 大河内直彦著に詳しいです)

 人類がアフリカでどのように進化したのか。(この部分は、この6つのおかげでヒトは進化した チップ・ウォルター著を参照ください)

 ネアンデルタール人の人骨は少なく、三万年前の年代を千年単位の精度で決定することは、同位元素や遺伝子(ミトコンドリア遺伝子を含めて)や地層(火山の噴火)を総合的に駆使しても、簡単ではありません。

 ネアンデルタール人と現生人類のかかわりが、どうであったかは、かなりグレーです、しかし、ネアンデルタール人も、現生人類もマンモスなどの大型草食動物のハンターとして、競合し頂点捕食者であったことは、事実です。(捕食者なき世界 ウィリアム・ソウル・ゼンバーグ著を参照ください)

 もう一つの主役は、犬です。狼から、オオカミイヌにそして犬になったのかの年代測定は、やっかいです。

 しかしながら、私の住んでいる北海道で、アイヌがヒグマを狩猟する時の、犬がいなければ、無理でそれほどアイヌ犬は重要です。

 私が子供の頃、北海道で農業をするには、馬の優劣が農業の優劣を支配してました。

 著者のパット・シップマンは、米国の女性古人類学者で、広い分野の最新の研究成果を総動員して、この壮大な推理小説のような謎(ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた!)に挑んでいます。では、いっしょに読んでいきましょう。


 『 現生人類とネアンデルタール人が生存した時代と場所が重なることが最初に注目されて以来、古人類学者のみならずアマチュア研究者もこれらの事実の解釈に格闘してきた。

 現生人類のテレトリーがユーラシアへ拡大したことがネアンデルタール人を絶滅に追いやったのか? 

 ネアンデルタール人は現生人類が到着するより少なくとも20万年前からユーラシア地域に定着していたのに、どうして絶滅したのか? ネアンデルタール人は地形も動物相も知らない新参者より有利だったはずではないのか?

 現生人類がネアンデルタール人を絶滅に追いやったとすれば、その過程を裏付けるなんらかの証拠が発見できるはずだし、現生人類が有利だったことを確かめることができるはずだ。

 それができないならば、では他にどんな因子が作用して、数十万年の生存してきたネアンデルタール人を絶滅させたのか?

 これら2種のヒト族の間に競争関係があったとすれば、ともに生存していた期間が2万5千年もあったことは、とくに現代の侵入生物学者が研究してきた事象と比較すれば異常に長く思える。

 古生物学的視点からすれば、現生人類がどのくらい急速にユーラシア全域に分散したか、侵入した個体群と在来個体群の規模によっては、この仮説的な両種の共存期間はもっと短時間だった可能性もでてくる。 』


 『 ヨーロッパにおける現生人類の最も古い年代測定値は、およそ4万4千年前となる。この現生人類が出現した事象とネアンデルタール人の最終的な絶滅との間に関係があるとすれば、現生人類の個体群が地理的に分散し、人口が増大する時間を計算に入れなければならない。

 現生人類がこれほど古い年代にユーラシア中に分散していたとは考えにくい。最後のネアンデルタール人が4万年~4万2千年前であることが信頼できるなら、現生人類とネアンデルタール人が共存した期間はかって1万年とされたものが、数千年あるいはそれ以下まで縮むことになる。

 40の重要な遺跡からサンプルを採取する大がかりな再年代測定プロジェクトがオックスフォード大学研究所のハイアムとその同僚らによって実施され、ムスティエ文化の終わり、つまりネアンデルタール人が絶滅した時期の信頼できる編年が確定された。

 その結果はネアンデルタール人の絶滅の謎を解くうえで重要なものだった。きわめて明解かつ圧倒的な正確さで、ハイアムらはヨーロッパ中のムスティエ文化が95パーセント以上の確率で較正年代で4万1030年前~3万9260年前の間に終焉したことを示した。

 さまざまなネアンデルタール人の個体群を絶滅させた唯一の事象や出来事というものはないとされているにもかかわらず、彼らはきわめて短時間のうちに消滅していたのである。

 加えて、もし絶滅が単一の事象に対する反応だとするならば、ムスティエ文化はユーラシア全体で同時に消滅することが予想されるが、実際には同時に消滅したわけではなかった。

 ムスティエ文化の消滅に関するデータと、現生人類がヨーロッパに到着した最も古い年代を比較してみると、このふたつのヒト族の生存が重なる期間は、2600年~5400年ということになる。

 現生人類がヨーロッパに拡散し、アジアに広がっていくのにかかる時間を考慮すれば、ネアンデルタール人の絶滅は現生人類が各地域に到達してからきわめて早い時期に生じていることになり、現生人類の到着がネアンデルタール人の絶滅の重要な要因となっていた可能性を強く示唆している。

 また、現生人類が有能な侵入生物であることは明らかなので、次に侵入生物学に視点を移し、そのアプローチによってこの絶滅について何が解き明かされるのかを見ていこう。 』


 『 さて、ネアンデルタール人が絶滅した一方で現生人類が生存できた原因を知るには、もうひとつの重要な因子にも注目する必要がある。長期にわたる地球規模の気象変動だ。気象変動も種の生死を分ける大きな影響を及ぼしたはずだ。

 初期の現生人類がアフリカから世界へと未曾有の大規模な侵入を始めたのは13万年前頃だ。それ以前の初期現生人類はアフリカでしか発見されていない。

 一方現生人類の近縁種であるネアンデルタール人はそのころレヴァント(地中海東岸)として知られる中東地域を含むユーラシアに生息し、アフリカには存在しなかった。

 13万年前頃から、レヴァントの遺跡は現生人類とネアンデルタール人が交互に占有していた形跡が見られ、その時期がおおよそ気候変動の時期と重なる。

 長期的な気候変動の追跡には多くの代理指標が使われる。古代の花粉サンプルからは、とくに繫茂していた植物やほとんど生息していなかった植物がわかる。

 洞窟に形成される石筍や鍾乳石などの二次的な鉱物堆積層からは、それが形成される間にどれくらい降雨があったかがわかる。

 古代の海底堆積物には有孔虫という海洋微生物が保存されていて、その石灰質の殻部分に取り込まれている酸素同位体の比率は当時の海水温の違いによって異なる。

 さらにハツカネズミやクマネズミ、トガリネズミ、リスなどの微小哺乳類は限られた温度範囲でしか生息できないため、その個体数や割合が気象変動の目安になる。

 こうしたさまざまな分野の情報を総合することで、過去の雨量や気温、さらに長期的な気候の安定性といった研究の土台が得られる。

 古人類学者と古生物学者は「海洋酸素同位体ステージ」(MIS: Marine Isotope Stages)を気候の指標として利用する。

 酸素同位体ステージ(OIS: Oxygen Isotope Stages)と呼ばれることもあり、有孔虫などに保存されている酸素18と酸素16というふたつの同位体の含有比率から、古代の気温が推定できる。

 寒冷期には質量の小さい酸素16を含む水分子(H₂O)は気化しやすくなり、そのぶん海水と海洋性有孔虫に含まれる酸素18の濃度は高くなる。

 気化した酸素16の含む水分子は寒冷期に雪や氷となって陸地に固定され、極地の氷床は増大し海面は下降する。

 MISに振られた数字が偶数のステージは酸素18の比率が大きい期間で、寒冷な氷河期に対応し、奇数ステージは酸素18の比率が小さく、温暖な間氷河期だったことを意味する。

 MIS1は現在の気候ステージで1万1千年前から続いている温暖な期間。MIS2は2万4千年から1万1千年まえにあたる。「最終氷河期の最寒冷期」(LGM: Last Glacial Maximum)と呼ばれる期間で、史上最後の大氷河期だ。

 6万年前から2万4千年前まで続いたMIS3は、現生人類がユーラシアに入った時期だ。

 ユーラシアは長い間ネアンデルタール人の生息地であり、サーベルタイガーやマンモス、ケブカサイ、ホラアナライオンなどの多くの哺乳類とともにネアンデルタール人は数十万年のあいだ繫栄していた。

 このMIS3のステージを知ることが、ネアンデルタール人の絶滅を理解するうえで必須となる。気候がきわめて不安定な期間で目まぐるしく変化し、数百年のうちに温暖期から短期的な寒冷期へ、そしてまた温暖期に戻るといったことが生じていた。 』


 『 MIS3のステージ内におけるこうした突然の変動を「ハインリッヒ・イヴェント」(HE: Heinrich Event)と呼んでいる。最も厳しい寒冷期はHE4でおよそ3万9千3百年前のことだ。

 MIS3ステージのなかで約3万9千3百年前、ナポリ近郊で大規模な火山が噴火し、中央、東ヨーロッパの大半がカンパニアン・イグニングブライト(CI)と呼ばれる特有の火山灰で覆われた。

 巨大な火山灰の雲が広大な地域を覆い、肉眼では見えないが地球化学的に検出できる微細な細粒火山灰が堆積した。この火山灰の雲が生態系と気温に大きな影響を与えてことは間違いない。

 ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ研究所のジョン・ロウのチームはこの噴火で噴出した火山灰を編年の鍵層として利用し、ネアンデルタール人の絶滅が4万年より前なのか後なのか、現生人類が現れたのはこの巨大噴火の前なのか後なのかを推定した。

 ロウのチームは「CIの噴火は過去の〔20万年で〕地中海域最大なもので……250~300立方キロの火山灰を放出して中央および東ヨーロッパの広大な地域を覆い、膨大な量の灰と揮発性物質(亜硫酸系のガスを含む)が大気中に放出されたことで「火山の冬」が生じていた可能性が高い」と説明している。

 CIの火山灰は広く拡散してだけでなく、地球化学的に独特のものだった。この噴火が環境に与えた影響でネアンデルタール人はヨーロッパから消滅し、現生人類の侵入に好都合となったか、あるいは環境ストレスによりネアンデルタール人と現生人類の交代劇が加速されたのではないか、と推測する研究者もいる。

 しかし、CI火山灰の堆積した地域を北アフリカからヨーロッパの広大な地域、さらにロシアまで注意深く特定した結果、そうではないことがわかった。

 イタリアの6つの地点と北アフリカ、バルカン半島、ロシアの5地点で、現生人類の遺跡がこのCI火山層に下になっている。つまり現生人類のヨーロッパ到着の方がCIより古かったということだ。

 またギリシャとモンテネグロの2地点と北アフリカの1地点では、ネアンデルタール人の遺跡も火山灰層の下にあった。ロウらは次のように結論づけている。

 「われわれの調査結果が示唆しているのは、この〔ネアンデルタール人の〕絶滅はCI噴火のずっと以前に起きていた可能性が高いということである……〔現生人類〕もまた、CI噴火以前にヨーロッパの大部分に拡散していたようだ。したがってネアンデルタール人と〔現生人類〕個体群の交流は〔4万年前(BP)〕までにあったはずだ」

 CI噴火後、現生人類は生存していたがネアンデルタール人は生存していない。オックスフォードでの年代測定プロジェクトでも、多くの遺跡から採取し年代が同定された標本からこの結論が裏付けられている。

 しかし巨大火山噴火は、ネアンデルタール人絶滅の直接的原因にはなり得ない。なぜならこの噴火は1日あるいは2日程度のタイムスケールで起きた出来事だが、ネアンデルタール人の絶滅は数百年から長くて数千年かかっているからだ。

 またCI火山灰の分布地図から、現生人類は当時すでにユーラシアにいたことが裏付けられ、これほどの大災害も乗り越えられる能力を持っていたことがわかる。 』


 これ以降、第5章仮説を検証する、第6章食物をめぐる競争、第7章「侵入」とはなにか、第8章消滅、第9章捕食者、第10章競争、第11章マンモスの骨は語る、第12章イヌを相棒にする、第13章なぜイヌなのか?、第14章オオカミはいつオオカミでなくなったか?、第15章なぜ生き残り、なぜ絶滅したか と続きます。 (第132回)

 

 


ブックハンターの目次Ⅱ

2017-04-07 10:35:32 | 独学

 132. ブックハンターの目次  (2017年4月 五十嵐玲二)

 目次がないと自分でも、どこになにがあるかが、解らなくなります、目次があると何かと便利ではないかと考えました。自分でも自分の興味がどこにあるのか、その時々で移ろいます。

 自分はこれからどのようなテーマを追い求めるべきか、それによってどのような成果が期待できるのだろうか。新しい自分の世界が開ける可能性はどこにあるのだろうか。理想の本の要件とはどんなものなのか。

 私がおもしろいと感じたものに、読者の方々に読んでいただける、勇気と新たな風を感じます。このブログによって一番の収穫は、ほんのわずかですが、自分が成長できた気がすることです。


  (114)  ブックハンター (目次 平成28年8月)

  (115)  パラレルキャリア 〔新しい働き方を考えるヒント100〕  (ナカムラクニオ著 平成28年6月)

  (116)  英語のうまくなる人、ならない人  (田村明子著 平成20年10月)

  (117)  英語で味わう名言集Ⅱ  (ロジャー・パルバース著 平成23年3月)

  (118)  六十歳から家を建てる  (天野彰著 平成19年9月)

  (119)  ヨシダソース創業者ビジネス7つの法則   (吉田潤喜著 平成23年11月)

  (120)  チャンスと選択肢と投資について   (五十嵐玲二談 平成28年12月)

  (121)  投資バカの思考法   (藤野英人著 平成27年9月)

  (122)  HAIKU  Vol.2  Spring (俳句 第2巻)   (R.H.Blyth著 平成2年1月)


  (123  坂の上の坂    (藤原和博著 平成23年11月)

  (124)  アルファ碁VS李世乭   (ホン・ミンピョ/キム・ジノ著 平成28年7月

  (125)  米原万理の「愛の法則」  (米原万理著 平成20年8月)

  (126)  鉄客商売    (唐池恒二著 平成28年6月)

  (127)  ゼロ(0)ベース思考   (スティーヴン・レィット&スティーヴン・ダブナー著 平成27年2月)

  (128)  トランプを聴きながら   (塩野七生著 文芸春秋平成29年3月号)

  (129)  美しい人をつくる「所作」の基本   (枡野俊明著 平成24年6月)

  (130)  C・Wニコルの生きる力   (C・W ニコル著 平成23年12月)

  (131)  世界を相手に商売を   (ビィ・フォアード 山川博功  朝日新聞GLOBE平成29年4月2日)


  私の本棚Ⅱ

 ◎  物は置き場所、人には居場所(1~15) (平成28年9月)

 


ブックハンター「世界を相手に商売を」

2017-04-03 10:07:55 | 独学

 131. 世界を相手に商売を  (ビィ・フォアード 山川博功  朝日新聞GLOBE2017年4月2日記事)

 今回紹介しますのは、副題を「中古車輸出で新興国へ、ネットと輸送網で次を見据える」で、Breakthrough(突破する力185)の欄にあったものです。

 私が紹介しますのは、現代のビジネスモデルとして、いくつかの注目すべき点があると思ったからです。

 その一つは、日本には、古いけどまだ働ける自動車の大きな供給力があり、アフリカの内陸部には、中古自動車でも欲しいという人が多くおり、そこに大きな需給ギャップが存在していた。

 その二つは、インターネット(特にスマホ)によって、日本国内に存在する中古車と、アフリカ内陸部のユーザーを直接結びつけたことです。

 その三には、日本にある中古車をアフリカ内陸部のユーザーに確実に、輸送する輸送網を創り上げたことです。そして自分の車が、日本のどこの港を出港し、商船三井の船に乗って、アフリカのどこの港に着いて、いつユーザーのもとに着くかをスマホで、見れるようにしたことです。

 これを実現するには、言語の問題、各国の貿易上の手続きの問題、多国籍の人々の雇用の問題、……が発生しますが、これも商売の醍醐味なのかもしれません。では私といっしょに読んでいきましょう。


 『 調布駅前のビル最上階にあるビィ・フォアードのオフィスには、耳慣れない言葉が飛び交う。スワヒリ語、チェワ語、ベンガル語……。アフリカをはじめ世界各地から電話で問い合わせがきて、社員が対応しているのだ。

 社員の2割にあたる約40人は外国人。操る言語は30に達する。世界126ヵ国・地域に日本の中古車を売っている。年間十数万台を輸出し、その大半は途上国向けだ。

 特にアフリカ諸国に強く、輸出全体の6割をしめる。フロアには、山川博功(ひろのり)(46)の社長室はない。全員の席が見渡せる場所に机と椅子があるが、その席にいる時間も少なく、ミーティング室とを行ったり来たりする。

 「社長室なんかで仕事ができるほうが不思議。みんなが見えていないと、アイデアが生れてこないじゃないですか」

 2004年の会社設立前から山川を知る東京商工リサーチの世古文哉(49)は、「設立当初は苦労していたが、日本車の質の高さと、厳しい車検制度でよい状態の車が多いことに着目し、今までになかったビジネスモデルを作りあげた」と評価する。

 これまで輸出される中古車は、いったんドバイなどに輸送して外国の業者に売り、そこからアフリカに運ばれていた。しかし、山川は、ネット販売で日本の中古車を世界中の顧客に安く、直接届ける仕組みを作りあげた。

 車を買いたい人は、同社のサイトで欲しい車を選ぶ。日本から各地の港に輸送された後は、提携する現地の業者が車を運ぶ。海外向けの中古車販売サイトは他にもあるが、港から先の陸送網まで整備し、顧客に届けるサービスを徹底させたところは他にない。 』


 『 学生時代から、「世界を相手に商売したい」と思っていた。しかし、希望していた商社には採用されず。車好きだったこともあり東京日産自動車販売へ。

 営業の成績は新人賞を取るほどだったが、学生時代から続けていた自動車レースの参加費用がかさみ、借金が800万円に。「返済が追いつかない」と思い、3年で会社を後にした。

 その後、運送業や宝石販売などを転々とした揚げ句、たどり着いたのが中古車ビジネスだった。中古車売買のカーワイズで働き始めた山川は、新車販売で培った営業力で一気に成績を伸ばす。

 1年後には借金を完済し、その半年後の1999年には「ワイズ山川」として独立した。ところが、02年から中古車の買い取りだけでなく輸出も始めたところ、困難に直面した。

 車を現地に送っても仲介者にだまされたり支払いがなされないなど、トラブル続きだった。出た損失はミヤンマーで2500万円、ニュージーランドで2億5000万円にのぼった。

 カーワイズの創業者で現在はグループ会社会長の山本泰詩(58)は、山川を見込んで独立資金も出資していたが、見かねて「もう輸出はやめた方がいいんじゃないか?」と声をかけた。

 だが、山川は「もう1年やらせてください」と粘った。「次に同じことをやらなきゃいい。失敗したんだから、改めればうまくいくだろって」

 危機を救ったのが、アフリカとの出会いと、インターネットだった。当時、日本からアフリカに向けた中古車輸出は主にパキスタン人が担っていた。

 パキスタン人脈を活用したビジネスのノウハウは知られておらず、日本人の間では「マフィアが絡んでいるんだろう」「車の骨組みに麻薬をしこんで密輸しているんだ」などとうわさされていた。

 山川は、親しくなったパキスタン出身者から、その市場が実はもうかることを聞きつけていたが、アフリカは「何が何だか想像がつかない世界」で、ちゅうちょしていた。

 06年、日本にあった国外向け中古販売のサイトに加盟し、車を載せ始めた。当初はスポーツカーを中心に扱っていたが、付き合いで引き取った、解体に回すような古い車を試しに乗せたところ、耳慣れない国から注文が入るようになった。

 ジンバブエ、ウガンダ……。どこだそれ? 1万円以下で仕入れた車が送料込みで17万~18万円で売れた。日本の中古車は走行距離が少なく、途上国ではまだまだ現役なのだ。

 スクラップが宝の山になる。学生時代に思い描いた「世界に向けた商売ができる」と身震いがした。代金支払いへの不安などから、中古車売買の業界ではアフリカを軽視する風潮もあったが、山川は社員に「電話にはすべて出ろ、メールはすぐに返信しろ」と徹底させた。

 信頼を勝ち得ると、評判が口コミやSNSで広がった。08年のリーマン・ショックは、日本の中古車市場にも及び、売買が冷え込んだ。だが山川は、アフリカには金融危機の影響が少ないことを見抜き、底値まで落ち込んだ中古車を、銀行から借り入れをして買いあさった。

 全国のオークション会場を回って一週間に一度しか家に帰らず、妻の百合子(44)にとがめられたこともあった。だが、「事業を自分でやってる以上は、普通のサラリーマンみたいに家に帰れない」と飛び回り続けた。

 08年に1314台だった輸出台数は、10年には10倍に伸び、危機をチャンスに変えた。東日本大震災のときも、競合するパキスタン人たちが国外に避難している間に、仕入れに全力を挙げた。

 新興のビィ・フォアードにとっては、仕入れた車を輸送する船の確保も課題だった。商船三井の山縣富士夫(55)は09年、知人を通じて山川から「九州から車を積めずに困っている」と相談を受け、福岡県の苅田港に200台納めるように打診した。

 約束した台数や車種を守らない中古車の荷主がいるなか、山川は納期までにきっちぃり納めてきた。「第一印象は怖い方かと思いましたが、前向きで勉強熱心。アフリカにも良く行き、現地の状況をよく知っていた」と山縣。今では商船三井は毎月1500台、ビィ・フォアードの車をアフリカに運ぶ。  』 


 『 山川に商売の厳しさを最初に教えたのは母慶子(68)だった。福岡県内で美容室を開き、今も働き続けている。週一日の休日にも講習にいき腕を磨く母の姿に、「働くとは、お金をもらってお客さんに納得してもらうとはどういうことかを学んだ」と山川。

 慶子も「あの子は他人にも自分にも厳しい。私に似ているかもしれない」と言う。山川はよく、「具体的にやったみることだよ」と口にする。妻百合子が好きな詩人、相田みつをの言葉にちなんだその言葉通り、社員のアイデアもよければ即座に採用し、任せる。

 モンゴル出身のポロルジャブ・ガルエルデネ(32)は入社してすぐに、モンゴル市場の開拓を提案。4年で0台から月間800台を輸出するまでに飛躍させた。事業の進め方や新しいサービスについて「社長に提案して断られたことはない」という。

 「世界中に「仕掛け」をちりばめている」と山川。アフリカ東部の未承認国家ソマリランドの現地紙に広告を出したこともある。

 いま仕掛けているのは、各国に広げた自動車の陸送網の活用だ。「目指すのは「新興国のAmazon」」と将来像を語る。車の部品や重機などから始め、さらに様々な商品を、日本から世界に送ろうともくろんでいる。 』


 この記事の中に直接記述されてませんが、中古車がアフリカの奥地で活躍しなければ、この会社は成り立ちません。この山川社長の中古車を見抜く、並々ならぬ経験と眼力によって、中古車が第二の人生をアフリカの大地で働いているからだと想像されます。 (第130回)