チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

物は置き場所、人には居場所(その9)  

2016-10-14 14:45:50 | 哲学

 物は置き場所、人には居場所(その9)   日常をデザインする哲学庵  庵主 五十嵐玲二

 8. ぼくらの村にアンズが実った (旱魃と植物園)

 「ぼくらの村にアンズが実った」 〔中国(西北部)山西省大同市(黄土高原)・植林プロジェクトの十年〕 (NGO「緑の地球ネットワーク」事務局長高見邦夫著 2003年5月発行)

 本書を「人は居場所」の「現世での桃源郷の建設」の第2弾として、紹介いたします。人の居場所の最大の居場所は、農業的生産手段としての居場所です。

 アンズの苗を植えて、アンズの花が咲き、アンズが実って、村が豊かになって、村でのそれぞれの居場所を確保されて、生活が充実すれば、ベストですが、現実はそれほど甘いものではありませんでした。


 『 自然災害は恐ろしいのですが、もっと恐ろしいのは自然災害が連続することです。この地方の農民は、いい年にめぐりあい、収穫が多くても、食べつくすことはしません。

 凶作に備えて、食料の貯蔵を怠らないのです。ですから、ひどい自然災害になっても、一年だけなら持ちこたえることができます。でも二年三年とつづくと、事態は深刻になります。

 私は九二年からここを訪れるようになりましたが、おおざっぱな印象では、奇数の年はかならず旱魃で、偶数の年にはいい年もあるといったところ。

 九七年はひどい旱魃で、九九年は建国いらい最悪の旱魃でした。九八年も雨が降らず、そのうえイナゴの被害を受けました。自然災害が三年つづいたわけです。

 農家を回って残っている食料を見せてもらいました。ジャガイモは麻袋の底にわずかに残っているだけ。多少でも収穫できたのはトウモロコシです。

 旱魃につよいわけではありません。いちばん水条件のいいところに植えるからです。でも、穂軸の長さが小さいうえに、粒が欠けているものが多い。 』


 『 日本には「あとは野となれ山となれ」ということばがあります。手入れをしないと田畑は草に埋もれて野になり、やがて樹木が茂って山になります。

 ところが、私たちの協力地、黄土高原の大部分では、ほっておいても野にも山にもなりません。草もまばらな荒地のままです。最大の原因は、日本では雨が多く、年間1500ミリ以上の降水量があることです。

 それに対して黄土高原では、400ミリ以下なことです。温度の問題もあります。大同では最低気温がマイナス30度近くになり、最高気温は38度にもなります。(雪がないので、冬の寒さは防ぎようがありません)

 土壌も問題です。粒子が小さいうえに有機質の含有量がすくなく、団粒構造になりにくくて作物や植物が育ちにくい。水に恵まれた低いところではアルカリがきつく、塩害になりやすい。

 たくさんのプロジェクトにとりくんできて、その中で成功したものと失敗したものとがあります。それらを比較検討してみると、成功するためには三つの条件が必要です。

 第一は自然の条件です。水、温度、土壌、そういう自然条件を無視したプロジェクトは成功しません。黄土高原をひとくくりにみるのではなく、その場所、その場所を細かくみて、どこになにを、どのように植えるか、科学的な検討が必要です。

 第二は社会的な関係です。中国は政府の存在が大きいので、プロジェクトに関係する県や郷の政府の支持をえられるかどうか、といったことが大事です。関係者の九人が賛成しても、大声で反対する一人がいれば、いろいろな問題がおきます。

 第三は人的な要素です。プロジェクトを建設する村にしっかりしたリーダーが存在するかどうか、その人が村をまとめることができるかといったことが重要です。 』


 『 立花さんの最初のひとことは厳しいものでした。「NGOとかいっても、知識も経験もないから、バカなことばっかりやっている。大量の水を必要とするポプラを乾燥地に植えるなんてことをやってないでしょうな?」

 「先生を訪ねてきたのはバカなことを避けるためです」といって私は率直に実情を話しました。そのあとにつづいた立花さんの言葉が、耳の奥にずっと残っています。

 「工業化以前の世界では植物園が最初の研究機関だった。そして植民地主義の時代、たとえばイギリスはインドのあちこちに植物園を建設した。

 インド中の有用植物をそこに集め、いろいろ研究して栽培方法を確立し、それを植民地経営の基礎にした。しかし、そのときといまとでは時代がちがう。

 いまは地球環境が問題になるときだ。黄土高原のような砂漠化地域に植物園を建設し、可能性のある植物を集めて、試験栽培と馴化をすすめ、有望なものを広めていくといったことが必要なのではないか。

 そこまで本気でやる気があるなら、自分も参加しよう。」

 立花さんが参加したことで、この協力活動に発展の方向づけをしてくれたことです。戦略といってもいい。彼の構想のすべてをすぐさま大同で実現することはできません。

 でも、目標ができたことの意味は大きなものです。私も受け身の状態を脱することができましたし、力をどこに集中すべきか、しだいにわかるようになりました。 

 

 『 1994年春から担当することになったのが、大同市青年連合会の副主席、祁󠄀学峰(きがくほう)でした。都会育ちで農村のことを知らない彼といっしょに農村をまわり、農家に泊まりました。 

 郷の北部の黄土丘陵に環境が厳しく貧乏な村があると小耳にはさんだんです。降水量が極端に少なく、乾ききっているということです。その村をぜひみたいと、私は考えました。  

 ところが地元の幹部は、そんな村を外国人にみせたくなかった。祁󠄀学峰は、幹部を説得して、夕方になって同意を得ました。村の農家はあばら家ばかりです。エサの不足する冬を乗り切ったところで、羊がやせこけているのが毛のうえからでもわかります。  

 一軒の農家をのぞくと、老夫婦と孫が夕食をはじめたところでした。若夫婦は出稼ぎにでていて、村にはいません。オンドルにじかにおいた洗面器の底にアワのカユがちょっとあり、あとはトウガラシ味噌のピンだけ。  

 その様子を私がカメラとビデオで撮影しようとすると、地元の幹部が祁󠄀学峰に詰め寄りました。「こんな貧乏な村に外国人をつれてきて、写真まで撮らせていいのか」というわけです。  

 祁󠄀学峰は間髪をいれずに、「問題が起きたら自分が責任をとる」と応じました。そのとき訪れた村が、広霊県平城郷苑西庄村で、その後、井戸を掘ることになった村です。 

 そのときの思い出を祁󠄀学峰に話すと、彼は「あのころの自分はなにも知らなあったから怖いと思わなかった」と言ってました。 』  

 

 『 ちょうどこのころ、大同では祁󠄀学峰がこの協力活動を担当するようになり、緑色地球網絡大同事務所を立上げて、その所長に就任しました。そのころには大同の各県には十いくつものプロジェクトが成立していました。  

 彼の提案は「各県のプロジェクトがバラバラに存在していては管理ができない。全体を統括し牽引する存在が絶対に必要だ」というものでした。  

 立花さんの戦略は植物園でしたが、すぐに可能だとは彼も考えていませんでした。その前段階として「苗畑も必要だし、実験園や研修施設もほしい。要するにパイロットファームのようなものを準備したらいい」というのです。  

 中国と日本の両方からでてきた提案は、一つのこととして実現できます。祁󠄀学峰からの提案を、立花さんのプランにもとづいて一まわり大きく投げ返しました。 

 そのようにして生まれたのが大同市南郊区の環境林センターです。小さなスタートでしたが、その後、急速に発展しました。  

 植物園計画にとって、もっとも条件があうのは大同市最南部の霊丘県でした。ここに植物園を建設することを決め、地元の技術者たちに周辺の植生調査を頼んだら、なんと、かなりの規模の自然林がみつかったのです。  

 それによって、緑化にたいする私たちのイメージはそれ以前とはすっかり変わってしまいました。そういう発展を引き出したのは、立花さんの植物園にかける執念というしかありません。 』  

 

 『 私たちの協力拠点、環境林センターの技術者たちが「日本のサクラがほしい」といいだしたのは、九六年秋のことです。秋田や北海道の会員に頼んで、チシマザクラやオオヤマザクラの種子を集めてもらいました。  

 その種子を九七年夏、立花さんが自分で配合した土に蒔いておいたのです。翌年の春、その桜がびっしりと生えそろっていました。一本ずつに分け、小さなポリポットに植え替えることにしました。  

 地上部が10センチほど、根の長さもそれくらいでした。センターの技術者たちは、根が良く伸びていることに驚いたようです。私は別のことにびっくりしました。  

 根が土のなかの木炭くずや軽石をつかんで、放そうとしないのです。技術者全員を集めて私は「ほら、みてみろ、根は酸素が好きだから、こうやって木炭や軽石にからんでいくのだ」といいました。  

 立花さんは九七年の夏、もう一つの実験をしこみました。渾源県の照壁(しょうへき)でアンズの苗木を植えたときのことです。そばに石炭の燃やしたカスが捨ててあるのをみつけて、スコップ一杯ずつ、植え穴の一角に加えるようにしたのです。 

 そして絶対に踏まないように求めました。全体の半分はそのようにし、半分は現地のやり方で植えました。翌春、同じ場所にいったとき、バスが停まるなり、私は駆け出しました。  

 これほどの結果がでるとは予想もしていませんでした。石炭の燃えカスを加えたほうは活着率が九十パーセントを越えています。もう一方は六十パーセントくらいしか着かず、生育にも大きな差があります。 

 そのことの意味をわかってもらうために、同行していた技術者を呼び集め、それぞれのグループから一本ずつを掘りあげて根の状態を比較しました。 

 石炭カスを加えた方は太い根が石炭カスまでまっすぐ伸びており、そうでないものにくらべ全体に根の発育もいいのがわかります。  

 同行していた武春珍はその様子をみるなり興奮して、「ひじょうにはっきりしている。話は何度もきいてきたけど、今日はその意味がわかりました。これからは全部のプロジェクトでこのような植え方を採用します」といいだしました。  

 ずいぶんと苦労しましたが、事態は前にむかってすすみだしたのです。 』 


 ぼくらの村にはアンズが実るのは、まだまだ先の話ですが、次回の「菌根菌と樹種多様性」に続きます。 (第9回) 


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