ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

香椎宮と神功皇后伝説 … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(8)

2016年06月18日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 香椎宮に寄る >

 伊都国歴史博物館から志賀島に行く途中、香椎宮 (カシイグウ) に寄った。

   ( 香椎宮鳥居 )

 ここは、仲哀天皇が熊襲征伐のため九州に遠征したとき、仮宮が置かれ、天皇が崩御したため霊廟になった所 …… とされる。

 10世紀には、霊廟が神社となり、仲哀天皇、神功皇后が主祭神として祀られた。

                  

  ( 香椎宮の拝殿 )

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< 卑弥呼を思わせる神功皇后伝説 >

 『古事記』『日本書紀』(併せて記紀)は、8世紀の初めに成立した我が国最初の歴史書であるが、「神代」記はさておき、それ以後の叙述においても、史実というより、「伝説」とした方がよいエピソードが挿入されている。

 「神武東征」やヤマトタケルの話などがその例で、熊野の密林の中を苦難の行軍するイハレビコを先導したのは八咫烏である。また、東国遠征の帰路、疲労困憊してついに倒れたヤマトタケルの魂は、望郷の念抑えがたく、白鳥となって大和の方へ飛んで行った…。

 これらの話が史実と言えないのは言うまでもないが、イハレビコもヤマトタケルも、ハリウッド映画に登場する主人公のようにカッコよく描かれているわけではない。戦いに敗れたり、九死に一生を得たりする叙述の語り口は訥々として、古代人の「人間」としての息吹が感じられる。

 それにひきかえ、世に「神功皇后の新羅征伐」と言われる話は、全く非現実的で、神話的・神がかり的である。

 神功皇后、即ちオキナガタラシヒメについても、歴史上の人ではないだろうと言われる。滋賀県の豪族・息長氏の息女だが、謎多く、よくわからないようだ。

 以下、改めて、…… 『古事記』に描かれた「神功皇后の新羅征伐」とは、こんな話である。

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  ( 仲哀天皇の熊襲征伐のための仮宮跡 )

 仲哀天皇は、筑紫の仮宮・香椎宮で、熊襲との戦いに臨み、神依せ (カミヨセ) をした。神は神功皇后 (オキナガタラシヒメ) に依せて、「西の方に豊かな国がある。そこを服属させて、与えよう」 とお告げを下した。西の方には海があるばかりではないかと、そのお告げを信じなかった仲哀天皇は、神の怒りにふれて息絶える。(ちなみに、この薄幸の天皇は、伝説の皇子ヤマトタケルの子である)。

   皇后は身重であった。お告げは、「その国は、そなたの腹の中の御子が治める国である」 と言う。

 皇后は、お告げを信じ、軍船を整え、お告げを下した三柱の海の神々 (底筒男、中筒男、上筒男) を、軍船の上に祀って出陣する。すると、海の魚という魚が軍船を背負い、追い風も受けて、船は一気に進んで新羅の国に押しあげ、国の半ばにまで達した。驚いた新羅王は恐れ降伏する。

 皇后は帰国し、筑紫で男子 (ホンダワケ=応神天皇) を生んだ。

 このあと、神功皇后は、大臣・建内宿祢とともに、難波から大和へと向かい、ホンダワケの異母兄たちと大王位をめぐって争い、勝利することになる。

 『日本書紀』の記述を踏まえて絵を描けば、神功皇后は誠に勇壮で、男装して鎧を着、弓矢を持って、軍船の甲板の上に立つ。だが、『古事記』の記述だけをすなおに読めば、身重の神功皇后は軍船に乗っていただけで、新羅王を降伏させたのは全て海の神の奇蹟的な業である。ゆえに、その姿は巫女のような装束こそふさわしい。まさに 「卑弥呼」 的な女性である。

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< 伝説の背景にあるもの……海人たちの神々 >

 日本列島がまだクニグニであったころ、朝鮮半島の北部には中国大陸の勢力 ── 前漢や後漢や魏 ── が侵出して、楽浪郡やさらに南に帯方郡をつくった。

 半島南部には、西に馬韓(のち百済国)、東に辰韓(のち新羅国)、南に弁韓があり、日本列島と同じように、それぞれ数十のクニグニによって構成されていた。

 半島の最南端の弁韓の辺りは、駕洛と呼ばれた。朝鮮語ではKalak。日本にくると子音の単独発音ができないから、最後のkが落ち、カラになる。加羅と漢字を当てても、同じ言葉である。伽耶も同じで、l 音は y 音に変わりやすいから、カラがカヤになった。『魏志倭人伝』の筆者は、カヤをクヤと聞いたから、狗邪韓国と記した。日本の古記録ではそこを任那と呼んでいた。

 以上は、司馬遼太郎『韓のくに紀行』によるが、司馬はさらに、 倭という言葉は、もと、半島南部の最南端に棲む人たちと北九州に棲む人たちを指していたのではないか、そういう伝承もあるらしい、という。一衣帯水というが、海を隔てて同類であった、というのである。言葉も、方言程度の違いはあれ、通じ合っていた。

 このようにいうと、センシティブな韓国人は 「日本は、古代も韓国が日本の植民地だったというのか」 と怒るだろうが、植民地という19、20世紀的用語をあえて使うなら、半島最南端の人たちが、稲作の技術を携えて、北九州に植民したのだ。もちろん、北九州からも、新技術を求めて半島南部に出張した。

 朝鮮半島最南端部から、遥か昔の縄文時代の釣り針も発見されている。また、縄文人の埋葬された人骨も発見されている。古代における日本海は、現代よりもずっと狭い。

 前回、「奴国」や「伊都国」の初期の段階の遺跡から、甕棺が多数出土していることを記した。甕棺は、世界でも珍しい埋葬方法で、その分布は揚子江河口部、朝鮮半島南部、そして北九州である。これは、稲作の伝達ルートと同じである。

 さて、半島南端の伽耶地方の人々と、北九州の倭人たちとを結び付けていたのは、海に生きる男たちである。海人 (アマ) と呼ばれた。

 伽耶が周辺のクニグニから攻められて助けを求めてくれば、血気盛んな玄界灘周辺の海人たちは、船団をつくって助けに行ったり、そうは言っても、海に隔てられているのはたいそう不便で、「いっそこっちへ移住してきたらどうだ」 と言ったりした。

 弥生時代も後半になり、鉄の時代になってくると、鉄素材確保のために、伽耶は一層、重要になる。日本海を越えて、北九州に鉄素材を運んできたのも、玄界灘の海人たちであった。

 海の男たちは、自然界の神々に対して、畏敬の念を抱く。日本海を越えようとするときには、船頭 (フナガシラ) 以下、みなで禊をし、神々の加護を祈願して後、出航した。

 記紀において「神功皇后」を導いたとされる底筒男、中筒男、上筒男の神々は、もともと彼ら海人たちの神々であり、航海の守護神であった。

 今、その三柱の神々は、全国の「住吉神社」に祀られている。

 全国2300社もあると言われる住吉神社の総本社は大阪の住吉大社。しかし、博多にある住吉神社こそ、住吉神社の始原だ、と言われる。大阪の住吉大社が摂津国の一宮なら、博多の住吉神社は筑前国の一宮だ。その境内からは、銅矛、銅戈も出土したそうだ。

 海人たちと、彼らが尊崇した住吉の神々を抜きにして、神功皇后の話は成立しなかったということだ。

 少なくとも、この伝説の原型となる話を語り伝えていたのは、海人たちであったに違いない。

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< 神功皇后伝説の舞台となった時代 >

 では、神功皇后伝説が生まれてくるような時代的背景があったのだろうか?? 歴史家は、神功皇后伝説そのものは虚構であるが、生まれてくる背景はあったと言う。

 3世紀後半になると、日本列島は古墳時代に入っていく。さらに、4世紀末から5世紀になると、いわゆる「応神陵」「仁徳陵」に見られるような「超」の付く巨大古墳が造られ、中国の史書に「倭の五王」が登場する時代になる。

 半島においても、北方系の高句麗が、中国大陸の弱体化につけ込み、楽浪郡、帯方郡を滅ぼして、建国を果たした (AD323)。

 小さなクニグニの寄り集まりであった半島南部の馬韓には百済国が (AD346)、辰韓には新羅国が建国する (AD356)。

 その結果、半島南端の伽耶地方のクニグニは絶えず圧迫されるようになる。

 また、馬韓のクニグニの中から出て、百済国を建国した王は、高句麗系(北方系)の人だと言われるが、その民の多くは、伽耶と同じように、倭と同種の人たちだったのかもしれない。歴代の百済王は、高句麗を拒否し、倭と手を結ぶことを選択している。

 話を「神功皇后」伝説に戻せば、…… 例えば、吉村武彦 『ヤマト王権』 (岩波新書) には、このように叙述されている。

 「 (記紀にみる神功皇后の話は)  虚構であるとはいえ、歴史的背景があったことに注意したい。広開土王碑文に、4世紀末、倭国が百済と新羅を 『臣民』とした記述がみられるからである」。

 韓国ドラマ『大王四神記』(ヨンサマ主演) は、広開土王が主人公だった。その大王の事績を記念する、5世紀に建てられた碑が「広開土王碑」である。

 そこには、「倭が新羅を破り、百済と新羅の民を臣民にした(AD391) 。そこで、 われらが英雄・広開土王が百済を征討し、百済は再び高句麗との属民関係に戻った(AD396) 。ところが、 百済は高句麗を裏切り、またもや倭との関係を復活した(AD399) 。しかも、倭は、新羅や旧帯方郡の辺りまで侵攻してきたので、これと戦い、高句麗軍が勝利した (AD404)」 などと書かれている。

 倭と半島との関係を示すもう一つの資料として、『三国史記』の百済本紀もある。

 石上神社に伝わる「七支刀」に刻まれた文字も、この時代の倭と百済の関係を示している。 

 このころの朝鮮半島の状況は、「高句麗の南下と倭の侵出」であり 、この時代、伽耶や百済 (における権益) を守ろうとしたヤマト王権が直面していた強敵は、新羅ではなく、高句麗であった。

 こうした時代があって、海人たちは、自分たちの渡海や戦いの経験を子や孫に語り聞かせ、そうして、世代から世代へと語り伝えられるうちに、話は伝説らしく成長していった、と考えてもまちがいはなかろう。

 そして、8世紀の初め、日夜、歴史編纂事業に励んでいた宮廷の秀才たちは、膨大な取材・収集資料の中から、5世紀の半島への進出をうかがわせる海人たちに伝えられた伝説を拾い上げ、記紀に書き込んだのである。

 その際、もともと海人たちの間に伝わっていた伝説を、どの程度変形・脚色して記紀に記載したのか、或いは、もともと今見るようなものであったのか、それは、今はもう、わからない。

 ただ、先入観なしに記紀に書かれたこの話を読めば、先に書いたように、新羅を降伏させたのは住吉の海の神々であり、船上に陣取っていたのは海人たちと軍勢であって、さすれば、「神功皇后」は、後から付け加えられた装飾ということになる。

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< 海人たちの「伝説」の原型は?? >

 だが、しかし、 …… と思う。自分たちが「絵」の中心では、いささかむさくるしいのではないかと、海の男たち自身が思ったとしても、そう不思議ではない。

 たとえば、…… 彼らは、この玄界灘に、大和の大王に付いて、美しいお妃もやって来ている、ということを噂に聞いていた。

 いよいよ出陣という朝、巫女のような衣裳をまとった清楚で美しい女性が浜にやって来て、彼らが尊崇する海の神々に祈りをささげた。

 海の男たちは、この光景に、ただ感動した。

 そして、彼らが戦いから帰ったとき、その女性は御子を抱いて、彼らを迎えた。

 …… というような出来事があり、それが、海人たちの間に語り継がれて、尾ひれもついて、記紀のような伝説になった …… とも考えられる。美女は、船上にいてくれた方がもっといい、と想像するくらいには、彼らもフェミニストであった。

 玄界灘一帯の津々浦々に、皇后だけでなく、童子ホンダワケ (のちの応神天皇) の伝説も語り継がれていたらしい。

 この童子の伝説をいち早く取り込んだのが宇佐八幡宮である。もともとローカルな宇佐氏の氏神に過ぎなかった神社が、童子ホンダワケを祭神としたことによって、全国区の神社になったのである。

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 秀才というものは、伝説を採集してきて、それをきちんと記録することは得意であるが、自分たちが歴史を「創作」してしまうことには、良心が痛む人たちである。── 上司の指示でもない限り。

 当時、彼らのトップに君臨していたのは、中臣鎌足の跡継ぎの藤原不比等だった。怜悧な能吏で、必要とあればウソもつくが、根は真面目な人である。 

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< 漆黒の軍団 >

 今、NHKの大河ドラマ「真田丸」が面白いが、真田軍の軍装は赤具え。徳川方の将兵たちからも、「敵ながら何とかっこいい!!」と思われていた。

 西川寿勝、田中晋作共著『倭国の軍団 … 巨大古墳時代の軍事と外交 … 』 (NHK大阪文化センター) は、5世紀のヤマト王権時代の軍装について、次のように書いている。

 「日本列島で見られる武装は、黒漆を塗った甲冑で武装することが一般的です。『漆黒の軍団』ということができるかもしれません。つまり、漆黒の軍団のなかに金色の甲冑をまとった有力者がいた、というイメージです」。

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  以前、宮崎観光のツアーに参加したことがある。

 途中、観光バスは、西都原 (サイトバル) 古墳群公園を見学し、県立考古博物館に入館した。

 観光ツアーが、古墳を見学したり、博物館に入館するのは珍しい。

 古墳公園は、広大で、あちこちに緑で覆われた円い墳墓のふくらみがあって、美しかった。

 一基の円墳の中を見学したが、公園には大きな前方後円墳も2基ある。そのうちの「女狭穂塚」は長さは180mで、大阪藤井寺市にある仲津山古墳の5分の3の相似形。どちらも宮内庁の管轄になっていて、立ち入り禁止である。

 考古博物館は、各府県にある同種の博物館のイメージを一新し、幻想的な演出が素晴らしく、これなら観光バスが立ち寄っても、十分にこたえられると思った。

 

                  (西都原古墳群)

 その博物館に、古墳時代の馬上の武人のイメージ像があった。

 もし本物なら、戦いを挑むことは敬遠したくなるだろう。迫力があった。

 大王に従って、日本各地や、もしかしたら半島にまで遠征した、漆黒の馬上の兵士像である。

 

 倭人は、半島での戦いから、騎馬を学び、鉄片を綴った鎧を身に付けるようになっていた。  

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<記紀の時代の神功皇后伝説> 

 記紀が編纂されたのは8世紀の初め (712年、720年) である。

 記紀の編集者たちは、膨大な歴史書編纂資料の中から、なぜ、「神功皇后の新羅征伐」という神がかり的な話を選択して、挿入したのだろうか??

 それは、英雄的な大王であったホンダワケ・応神天皇が、まだ母の胎内にいたとき、半島に遠征して、新羅を降伏させた、ということを記紀に記録したかったのである。

 663年、白村江で敗れた日本は、近代的な国家づくりを急いでいた。記紀の編集はその最終章の一つであるが、当時の日本にとって、伽耶も百済も高句麗もすでに滅んでなく、仮想敵は新羅とそのうしろにいる唐であった。

 この時代の国際情勢は、高句麗ではなく、何よりも「新羅征伐」の話を必要としていたのである。

 

 


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