草莽美猫:草深い辺境の地にあって、けなげにもそのかわいさを、この愚劣なクニに添える猫のこと。
■学習院出仕は草莽微賎の夢:
しかも、文久三年(1863)二月二十日には、「草莽微賎(そうもうびせん)の者」「土民」が学習院に意見書、建白書を提出することが、正式に認められ、かつ学習院出仕(しゅっし)という形の登用すらおこなわれた。 (尊攘派に乗っ取られた朝廷、藤田覚、『幕末の天皇』Amazon 幕末の天皇 (講談社選書メチエ))
それまでは、京都御所の公家たちは身分が違う人たちとは公式には面会できなかった。したがって、"普通の人"の意見を聞くことができない。この"普通の人"の意見を朝廷が受けとるチャネルとして御学問所・学習院が使われたという次第。
この制度で、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らが学習院出仕となった。もちろん、全然、"普通の人"じゃないんですけど。京都御所、学習院跡
この文久3年の尊攘派の学習院出仕のかいあって、この年の賀茂社と石清水八幡宮への行幸が実現したと思われる。つまり何百年ぶりかの天皇の外出。
▼"学習院"出仕は草莽微賎の夢 1945
僕も戦争に負けて皆が天皇制に批判的なことばかり言うものだから、腹が立ってね。(略)『週刊朝日』に「天皇制を護持せよ」という一文を書いたんです。敗戦直後の昭和二十年十月のことだった。(略)
これを読んだ菊池さん(静岡県知事)は「田中さん、書いたなあ。これはええなあ」と言ってくれました。その菊池さんがたまたま禁衛府(皇宮警察の前身)長官になられて、この一文を陛下にお目にかけたんです。菊池さんが「田中さん、あなたは陛下を尊敬している。陛下にお会いになりたいと思うか」と言ってこられた。二十年の十二月初めです。びっくりしましたよ。
「不可能ではないですか。考えもしなかった」「いや、できるんだ。どうだ」「よろこんでお会いします」。それから四、五日して、菊池さんに呼ばれ「陛下にお会いできることになったから、平服できてくれ。くれぐれもタキシードなんかではなく。生物御研究所を拝観しているときに、陛下がたまたまお越しになられてお目にかかったということにするから」ということになった。 『田中清玄自伝』(文庫本化してます;Amazon 田中清玄自伝 (ちくま文庫))
この自伝によれば、田中清玄は3つの提言をしたそうだ。ひとつは退位はしてはいけない、二つ目は皇室財産の拠出、そして、
「いま国民は復興に立ち上がっておりますが、陛下を存じ上げません。その姿を御覧になって、励ましてやってください」というものだった。
------それに対する昭和天皇のお答は。
「うーん、あっ、そうか。分かった」と。そりゃあ、もう、びっくりしたような顔をされて、こっちがびっくりするぐらい大きくうなずかれたなあ。その後、これを陛下はすべて御嘉納になられて、おやりになった。
そして、こりゃどうじゃ 世はさかさまになりにけり、巷へ出仕
(関連拙記事:♪~コイン・ロッカーに~♪~軍服~隠して~♪~ )
▼両陛下が高エネ研ご視察 現在リンク切れ
やっぱ、東京から一番近い勅許植民都市のせいか、毎年、来るだよ。 一度も来ない街のひと、ごめんね。
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