いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

高坂正堯が見なかったもの、あるいは、南シナ海、再び、世界史の海へ

2016年09月08日 18時36分59秒 | 日本事情

高坂氏は嘗て私に「私は中國は嫌いだ、甘栗も食べない」と言つたことがある。
福田恒存、『問い質しき事ども』

それまで、日本の周囲では、南シナ海は世界史の海ではあったが、しかし、太平洋はいまだに海であって海ではなかったのだ。だから、日本の開国が、太平洋を越えてやってきたペリーによって強いられたことは実に象徴的な意味を持っているように思われる。
『海洋国家日本の構想』、高坂 正堯、1965年

 
1853年 米国東インド艦隊、マシュー・ペリー来航
(この絵は日本人により描かれたとある)

1853年にペリーが来たとき、交渉はいかなる言語で誰がどのように行ったのかというのは素朴な疑問ではある。

普通の一般人向け歴史の本には、幕府の主席通詞堀達之介、第二通詞立石得十郎などの名前が見える。おそらくこういう人が通訳したのだろう。それでも、疑問は残る。アメリカ側も交渉の言語の準備のために無準備で来たとは考えられない。可能性として、日本人の英語が通じないかもしれない。果たして、上の絵ではペリーは清人を通訳として随行してきたとわかる。上の絵の左端の人物の背中に流れる辮髪が物語っている。

おそらく日本へ北上する前にシンガポール、あるいはチャイナ大陸の香港・マカオ・上海で採用したのだろう。いずれにせよ、ペリーが南シナ海を北上してきた結果を象徴的に示す証左に違いない。

なぜ高坂正堯がペリーが太平洋を越えて来たと誤認識したか?の原因の推定に、「太平洋戦争」世界観による認識"障害"を挙げた。
(愚記事;あるいは、奴らはどっちから来た !?  ) これは1965年に高坂正堯が出版した『海洋国家日本の構想』にある誤認識である。

戦後、日本人は「大東亜戦争」という言葉を禁じられ、巷から消え、新世代は「大東亜戦争」を覚えず、使わなかった。替わりの言葉が「太平洋戦争」である。人間の認識・世界像というのは自分が持っている言葉により立ち現われるのである。

戦後日本の対米従属イデオローグである高坂正堯らしい誤認識で、うれしくなって、ブログ記事にした。

さて、今日、別途、思いついた。高坂は「それまで、日本の周囲では、南シナ海は世界史の海ではあったが、しかし、太平洋はいまだに海であって海ではなかったのだ。」と言っている。ペリーが日本に来たとき、南シナ海周辺関連国であるベトナム、フィリピン、インドネシア、そしてチャイナの一部港(上海、香港、マカオ)はヨーロッパ列強の植民地だった。これを、「南シナ海は世界史の海ではあった」と高坂は云っているのだ。一方、アメリカは、未だ、南シナ海周辺に植民地を持てないでいた。こういう事情=アメリカが南シナ海周辺に植民地を持っていなかったから、太平洋を新開地として米国が覇権を広げようとしたと誤解したのだろう。

史実は、アメリカは、すっかりヨーロッパに支配されている「世界史の海」を「航行の自由」で享受し、港を利用し、まだ利用されていない日本を目指して、チャイナ経由で、北上したのだ。

高坂正堯の誤認識の興味深い点は、アメリカとチャイナの関係を考慮していないことである。論述はいつも日本対アメリカ、日本対チャイナである。要は自己中心的視点なのである。


と、線上まで書いて、最近知った。高坂正堯は1960-1962年に米国、ハーヴァード大学に在外研究員として滞在した時、あのチャイナハンズ [wiki](1) として有名で中国研究の大家ジョン・キング・フェアバンク [wiki] に「指導」を受けていたとのこと。

『海洋国家日本の構想』の出版(1965年)より以前のことだ。

つまりは、有名中国研究者の元で研究していたのだ。具体的には、「 ハーヴァード滞在中の高坂はフェアバンクの指導を受けつつ、二十年代(1920年代)後半の中国をめぐる日米関係を外交史として研究していたと見て間違いないであろう。」 (待鳥聡史、社会科学者としての高坂正堯、『高坂正堯と戦後日本』)

さらに詳しくは;

高坂は京都大学法学部を卒業し、助手論文を終えると、一九五九年の九月に助教授に就任した。その後、一九六〇年九月から約二年間、アメリカ・ハーバード大学で客員研究員として在外研究を行う。受け入れの教授とは別に、中国史の大家J・K フェアバンクにも世話になっている。高坂は特に、アメリカの対中政策について一次史料を読み進めた。当時のアメリカでは、社会科学的色彩の強い研究が注目されていたが、高坂は慣れ親しんだ外交史研究の手法を続けたのである。実際、この前後に高坂が発表した「アメリカの対中政策」や「中国国民党革命とアメリカの政策」といった論文は、対象とする時期や焦点の当て方こそ異なるが、いずれもアメリカの対中政策を分析する歴史研究である。
(森田吉彦、高坂正堯の中国論、『高坂正堯と戦後日本』)

ということで、上記のおいらが書いた「高坂正堯の誤認識の興味深い点は、アメリカとチャイナの関係を考慮していないことである」はとんだ間違いであり、高坂正堯さまへの中傷であった。

それにしても、高坂正堯さまは、米中関係も研究していたなら、なぜ、ペリー艦隊が香港、マカオ、上海、琉球を経て日本に来たことを知らなかったのだろう?

■ 話はとんで1970年代初頭の米中接近(ニクソンショック) 

 「高坂正堯の誤認識の興味深い点は、アメリカとチャイナの関係を考慮していないことである」という点で、1972年のこと。

高坂正堯さんも、他の皆と同じく、ニクソン・ショックに驚愕したらしい。つまり、米中接近を予想できなかったのだ。別に高坂正堯さんは未来予想屋さんではないだろう、というつっこみもあるかもしれない。でも、高坂正堯さんの人生でおそらく一番輝いていたのは佐藤内閣で首相に尊敬・重宝された学者であったこと。そして、活動は政府への提言ばかりでなく、世論の形成。つまりはオピニオン・リーダーとして一般人向けに高坂正堯さんは活躍していたとのこと。その絶頂は沖縄"返還"(あるいは琉球再併合)だったそうだ。その沖縄返還の成功に浮かれていたら(?)、米中接近のニクソン・ショック。

ここでも、高坂正堯さんはチャイナとアメリカが組んで、日本に対峙してくるイメージを描けなかったのだ。

 だから高坂先生は七〇年代は政治が復権しなければいけないと『政治思考の復権』(七二年)という論文集を出される。ところがたとえば七一年にはキッシン ジャーが北京に飛び周恩来と会談し、七二年二月にニクソンが訪中し米中共同声明を出す。高坂先生は、外交面で、ご自分が米中和解を予測できる立場にいたの に予測できなかった、ニクソン政権が和解に向けて動いているというヒントをもらっていながら自分はちゃんと理解していなかった、と反省されます。
高坂先生の思い出と『一億の日本人』の討議での中西寛の発言、『高坂正堯と戦後日本』

 しかも、そこには戦後日本外交を規定する特異な戦略状況もあった。一九七〇年代初頭の米中接近という現実が、そのことを浮き彫りにする。それを受けた高坂は、米中接近の一つの目標は日本を軍事的に無力にし続けることにあるという見方に同意せざるをえなかった。「アジアにおける安全保障体制は、日本が軍事的に無力であるという事実の上に作られているのであり、その逆ではない」。アメリカも中国も、経済的に発展した日本が、その力を軍事力に向け、国際政治に向けることを望まないだろう。
(森田吉彦、高坂正堯の中国論、『高坂正堯と戦後日本』)

■ まとめ

そもそも高坂正堯には、デビュー間もない頃、『海洋国家日本の構想』(1965年)にも掲載されている論文『中国問題とは何か』がある。この論文も、他の高坂正堯の論文同様、お上品である。今でいうわれらがネトウヨのごとき排外的言辞は微塵もない。つまりは、高坂氏は嘗て私に「私は中國は嫌いだ、甘栗も食べない」と言つたことがある。なんて本当か?と思うほどである。

そして、『高坂正堯と戦後日本』において五百旗頭真さん(その名目通りの愚記事)が回顧することには、1980年代末、日本の次期支援戦闘機・FSXの自主開発を米国がつぶした"事件"があった。この時、高坂正堯は「もう一度アメリカと戦争せにゃいかん」と激昂した、とのこと。

高坂正堯: 言ってることと書いてることにギャップがあるらしい。

▼ あるいは、南シナ海、再び、世界史の海へ

忘れてました。「南シナ海、再び、世界史の海へ」は、もちろん、お支那さまの海洋進出です。



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