Amazon; 中谷巌 『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』
二重の観点から なんだかなー と言わざるを得ない。
第一が1970年代中盤から近代科学批判、ひいては近代経済学、もっといえば新古典派経済学批判があったにもかかわらず、それらの批判に目もくれず、市場至上主義的行為に耽り、あまつさえ政府中枢にあって市場至上主義的社会建設に淫したこと。
例えば、微例ではあるが、中谷が米国で新古典派経済学を習得して来て、日本の大学で教え始めたという1974年にはすでに、西部邁が「正統派経済学の限界」(1974年)、「虚構としての「経済人」(1973年)」として雑誌論文に書き、1975年には『ソシオエコノミックス』として単行本化されている。この『ソシオエコノミックス』には、中谷の『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』における資本主義批判でダシにされているポランニーの『大転換』の書評とポランニーの見るべきところと「限界/問題点」が書いてある。(このポランニーの「限界/問題点」こそ中谷の『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』には書いてないことである。つまり中谷は情動的に達成したい目標ができた刹那その達成への手段を吟味・批判することなく使うのである。)
さらに、中谷は最近米国に行き中産階級の没落に気づいたようなことを書いているが、1995年に『現代アメリカの自画像 行きづまる中産階級社会』として米国事情は日本に紹介されている。上記本は1990年前後に出版された米国人のアメリカ没落についての書籍のまとめである。中産階級の没落はなにもグローバル資本のせいでもなく、中産階級をも含むアメリカ人がリベラルを嫌悪した結果、中産階級への給付が減り生じたものらしい。
ただし、新自由主義の結果、つまり、レーガノミクスの結果、米国中産階級が没落したと言ってもよいかもしれない。そうであるならば、中谷が小渕内閣(1998-1999)の政府の策に参画した時点では、上記本やそもそも米国での報告で公知であった。新自由主義が中産階級を没落させるという結果が出ていたにもかかわらず、小渕内閣で新自由主義政策を提言していたのだ。
つまりは、当時、中谷って何にも勉強せなんで、ハーバードで習ったことだけを展開していたんだ。別に新古典派の信条を変えなかったことが悪いわけでも、批難したいわけでもない。ただ、なぜ今急に気づいたがごとき態度をとるのかということである。なぜ中谷が「自己の狭隘なイデオロギーや日常的意識を不断に反省する努力(西部邁)」をせずにこれまできたのか説明がないのに、懺悔だとか書くおかしさがこの本の欺瞞性の象徴である。
第二に、その市場至上主義的社会建設に破綻の兆候が見えると、突然近代社会批判に目覚め、非近代社会、つまり時間的には過去の歴史的日本、地理的にはブータンだのキューバだのに感銘を受け絶賛する。これら「経験的」近代嫌悪に加え、近代文明批判の思想であるポランニーを無批判に援用し、市場至上主義的社会の悲惨を嘆き、市場至上主義的社会の特徴である土地・労働の商品化を呪う。この次へ向けての前向きな姿勢こそ今の中谷の溌剌の源泉である。そして、それがとてつもない愚かなことと言わざるを得ない。そして、それは30年前に予言されていたバカ者に他ならない。
◆30年前に予言されていたバカ者
おいらがぐちぐち言っても説得力がないので、約30年前の1981年に今の中谷のような絵に描いたようなおバカについての文章があるので、上記2点についてそれぞれ引用する。全文は後で示す。
第一の点;
現代の経済学の主流をなす新古典派は限界革命の伝統をうけついでいるが、その主な論点は、一定の技術的な仮定をおけば、完全競争のもとで個々人が全く独立に利己的利益を追求することがそのまま社会的なバランスと両立する点が存在し、しかも、その点がパレートの意味で最適であるということを、厳密に証明しうるというものである。この命題やその系(コロラリー)が、自由貿易や独占禁止といった政策に「応用」されもするが、むしろ、コスモス―ノモスという安定的枠組を失った近代社会に対し、知の平面において調和的構図を提示することにより、現実の平面においてそれに対応する調和の幻想を与えるという、宗教的ないしイデオロギー的な機能の方が、はるかに重要だろう。実際、現実の不均衡が覆い隠しようもなくなり、危機を回避するための技術知への要請が緊急性を増してはじめて、新古典派のヴィジョンとは矛盾する点を多々含んだケインズ政策が登場したわけだが、危機が過ぎ去ってしまうと、そのケインズ理論も、とりあえずは「新古典派綜合」というギクシャクした形で調和的ヴィジョンの側に回収され、さらに最近では、「新古典流綜合」さえ批判して純然たる新古典派に回帰しようとする動きも目立っているのだ。イデオロギー的機能の重要性のひとつの証左であろう。
第二の点;
ここで、しかし、超越的な基準に立って「近代批判」を試みても仕方がない。そもそも、喪われた至福との距離によって現在を断罪し、始源の透明の回復を希求することは、定義により「反動的」である。「冷たい社会」を理想化しその再現を願うことなど論外として、より一般的なのは、「自然状態」を絶対化し、そこからの堕落を告発しつつ、高次元でのそこへの回帰をめざすという戦略、ルソーを始めとする疎外論的思考によって語られてきた戦略である。現実に対してユートピアを突きつけることによる批判力は認めよう。けれども、始源にあったのはカオスだということ、より正確に言うと、始源を求めて遡ったとき見出されたのは始源からのズレにほかならなかったということを知った以上、もはや、喪われた至福の世界、あるべき姿の世界を信ずるわけにはいかない。少なくとも、自然回帰や肉体礼讃がやすやすとファシズムに傾斜していった過去を知る者は、しなやかな心と体を介したコスモロジカルな全体性の回復を説いたり、コンヴィヴィアリティ――大仰な訳語があるようだが、結局、自然や他者と共にいきいきと生きることであろう、しかし、それが不可能だからこそ象徴秩序が要請されたのではなかったか――などという御題目を唱えたり、それほど楽観的ではないにせよ、カオスの象徴秩序への叛乱に賭けたりする前に、「英知においては悲観主義者たれ」というグラムシの言葉を銘記する必要があろう。
一方、近代社会に対し諸々の異なった象徴秩序を並置してみせることですべてを一様に相対化するという戦略も無効である。実際、一定のリジッドな象徴秩序を持たないことを特質とする近代社会は、それ自身、他の諸々の象徴秩序なりパラダイムなりを相対化し、あまつさえそれらをパック化・商品化するだけの怪物的力量を備えているのである。ドクルーズ=ガタリの言うように、古いコードを脱コード化(デコデ)することで成立した近代社会は、他の様々のコードを解読する(デコデ)ことに長けてもいる。異質な体系を突きつけてみても近代社会は微動だにしない、むしろ、近代社会とはレヴィ=ストロースの本を買いパック旅行を買うことで異質な文化との出会いを手軽に体験できるような社会であり、ローカルなパラダイムの相克によって学問の「進歩」を加速してきた社会なのである。
どうです、新古典派経済学を(没批判的に)習得し、経済成長のためのイデオローグとなり、破綻したとたん、ブータンだ!、縄文・弥生だ!、なんだ!、かんだ!って、溌剌としてるけど、バカ丸出しの中谷巌センセそのものじゃあーりませんか!
引用元は、浅田彰の、《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み ――千の否のあと大学の可能性を問う―― 。
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「バカを見るならこれを読め!」
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