いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

八代公認問題

2005年09月06日 20時49分15秒 | その他
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◆八代将軍吉宗が公認された最大の貢献者は天英院とされています。天英院は六代将軍家宣の正妻で近衛家の出です。天英院は同時に七代将軍家継の嫡母でもありました。七代将軍家継の生母は月光院です。当然七代将軍家継の父は六代将軍家宣です。

◆吉宗の「吉」の字は五代将軍綱吉からもらったものです。将軍綱吉と吉宗の名前の共通点は名前に家康とか家光とか「家」の字がつかないことです。これは彼らが成人名をもらうとき将軍になるべき人物と想定されていなかったことを示します。事実二人とも後継将軍が絶えたときに老中や大奥に「発掘」されて将軍になったのです。ちなみに徳川将軍で家の字がつかない将軍は他に、秀忠:これは秀吉のイミナをもらった、慶喜:これまた将軍になるとは想定されていなかった御仁。以上の4名さまでございます。

◆特に七代将軍家継の死は、徳川将軍家に重大な意味を持ちました。すなわち3代から7代の将軍はもちろん徳川将軍である上に、3代家光の母が織田信長の妹・お市の娘であるお江であるから、織田の血統でもあるのです。つまり織田系徳川将軍と言える。七代将軍時代新井白石の『藩翰譜』では現在ある武家の多くがとにかくは織田の家臣からはじまるのだと書いていたように織田ブランドはすごかった。その織田系徳川将軍が断絶しました。

◆その七代将軍家継はがきんちょだったので宮廷官僚の間部詮房と新井白石が政治を牛耳っていました。それに生母の月光院が噛んで大奥と宮廷で鉄環をつくっていました。老中を蔑ろである。これに対抗して老中は、同じく大奥で月光院と対抗関係にあった天英院と組んで尾州あるいは紀州から「殿様」を呼んで宗家の将軍としようとしました。ところが尾張の殿様はばたばた死んで、これまた上がばたばた死んで紀州の殿様吉宗に将軍の座が回ってきたのですた。

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