いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ジャック臼井、ひまわり畑に死す

2008年07月20日 11時15分12秒 | 筑波山麓



邪鬼ウスイ(ジャック臼井、1767年?-1804年10月)は、親譲りの天の邪鬼、子供の頃からひねくれてばかりいた。

「女化(おなばけ)騒動=牛久助郷一揆(⇒どんなものか?)」において統治側の譜代・外様の「国」際旅団に志願入隊して、戦死した仙台伊達家の現地採用の足軽。蝦夷箱館出身。このブログに登場するくらいなので、生まれた家の業は、当然、いか釣りとなる。

先祖は元禄期に多量に出現した浪人で、1669年のシャクシャインの乱に乗じ一旗揚げようと蝦夷に渡った根っからの反動家一族。邪鬼(ジャック)も幼い頃、いか釣り漁師の祖父と父から、「内地に還り、お武家さまに返り咲け」と言い聞かされる。ついでに、「嫁は藤崎のデパガにしろ!」とも言い聞かされる。

彼は15歳の時に箱館を飛び出し、年齢を偽って箱館-石巻航路の仙台藩御用達回船業者藤崎屋の船に雇って貰い船員となったが、1800年に石巻-潮来航路に従事した後、潮来で陸に上がり、いかの塩辛職人や料理人として働いた。

その際、仙台の船乗りに伝えられていた伊達家スペイン伝来秘技のひとつ、いか墨パエリアの作り方を学ぶ。

そして、潮来にあった仙台伊達家の米蔵を警護する足軽のまわりをうろちょろして、お武家さま復帰への足がかりをつかむ。当時、仙台伊達家は龍ヶ崎に領地1万石と陣屋を持ち、代官と足軽が勤務していた。その足軽の任務が現地(現在の龍ヶ崎、つくば、阿見)の管理と江戸藩邸での勤務と米蔵のある潮来での勤務。

ジャック臼井は船乗りから仙台足軽へ転身した。潮来勤務の後、龍ヶ崎陣屋へ。そこで起きたのが1804年の女化騒動(牛久助郷一揆)。

現在のJR常磐線牛久駅と荒川沖駅(先日外務省の役人の息子が無差別大量殺傷をした駅)を中心に55ヶ村、6000人の農民が蜂起した。蜂起した村々は、現在の牛久市、龍ヶ崎市、つくば市、阿見町、稲敷市にまたがる広範囲に分布。蜂起の理由は、街道の牛久宿と荒川沖宿に人足、馬の充足のため周辺の村に夫役(助郷)が課せられたことへの不満。

この55ヶ村は、普段旗本だの外様大名だのにばらばらに領有されている。したがって、お互い横のつながりがないはず。しかし、一方、幕府が国家装置維持のため街道を機能させなければならない。街道という全国区的な視点から、街道維持の要請が現地の村々になされる。この幕府の国家的要請により、お互い普段は関係ない55ヶ村が容赦なく「連帯」させられる。

百姓どもの inter-sectionalism !  「村」際百姓団の蜂起!

そんな百姓どもの「村」際蜂起団に対し、お武家さま・統治者側も「藩」際旅団で対抗。譜代の土浦・土屋家、外様の谷田部・細川家、龍ヶ崎・伊達家が牛久宿に出兵。さらには、幕府は佐倉・堀田に出兵を命じている。

ジャック臼井は、そんな「藩」際旅団にもぐりこんだのであった。しかし、ジャック臼井はこれまでの職業経験、つまりは船乗り時代のいかのさばきと炊事、を買われ炊事兵として過ごした。「本人はそれが不満で、いつも前線に出たいと不平を漏らしていた。その後希望が容れられ、普段は炊事兵として、戦闘時は樫棒を取って前線に出「戦う炊事野郎」と呼ばれて活躍するようになった。」

そのジャック臼井にも最期の時がきた。反乱民に囲まれた。多勢に無勢だ。そもそもジャックは、足軽なので刀なぞ持っておらず、樫棒が唯一の武器であった。若い時使い込んでいた いか を捌く出刃は、潮来で足軽になったとき、この樫棒と羽織まがいのハッピからなる足軽キットと交換してしまっていた。

さようなら、ジャック臼井。この顔、顔、顔のひまわり群こそ、彼が最期に見た暴民たちであった。



■ 蛇足

本歌; ジャック白井



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