いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ムガール残影を探して

2007年10月16日 20時29分25秒 | インド・2・4・5回目

結果的にイスラムの年に数(一?)度のお祭りに大当たりのこの日のデリー探索目的は、オールドデリーにムガール帝国の残影を探し、画像を取得しようというもの。

オールドデリーはムガール帝国時代、城壁に囲まれた地域であって、東端にお城のラールキラー、中心にイスラムモスク、ジャマーーマスジッドがある。

当時、ムガール帝国"支配層"の言語はウルドゥー語(宮廷語はペルシア語)。現在この「帝国ウルドゥー語」を継承するインド人はデリーにはほとんどいない。理由は、1947年のインド・パキスタン分離の際、イスラム色の強い旧ムガール帝国支配層・旧貴族はパキスタンへ行ったからである。いいかえれば、現在この「帝国ウルドゥー語」を継承するインド人はカラチにいるそうだ。ちなみに現在この旧ムガール貴族居住地域に住んでいるのは、1947年のインド・パキスタン分離の際に逆にパキスタン領になったパンジャブ地方からデリーに追われたヒンドウー教徒「難民」。つまりは、貴族居住地域から「難民キャンプ」となったのがオールドデリー。

これは、現在北京に清朝の文明の継承者が集団で存続していないことに匹敵するのかもしれない。もちろん、現在東京でちょんまげした徳川家臣が集団で存続しているわけでもないが。ただし、現在の日本人が江戸時代の旗本と口語は全く通じると思われる。江戸時代のさむらいの口語がいかに今と変わらないかは、諭吉の後述筆記本『福翁自伝』を見よ。そして、文語の『学問のすすめ』と対比して、驚け。これは、現代のデリーっ子が旧帝国時代の貴族と全く口語交流(oral communication)できないにちがいない事態とはとても違うだろう。 ただし、北京っ子は、マンダリンで清朝宮廷官僚と話ができるのか。

この日、まずはトルクマン門にオートリキシャで乗りつけ、地図なしで、つまりはあっても無意味なので、オールドデリー深部へずしずし探索。


たぶんウルドゥー語の看板を発見。


細工文様壁の家屋発見。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。