いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

KUMONの広告

2007年05月29日 20時14分54秒 | インド・3回目・シンガポール

KUMONの広告;シンガポールのホテルの電話帳でみつけたもの。

■人の志も頼むべからず。必ず変ず。■
『徒然草』第二百十一段

よろづの事は頼むべからず。
愚かなる人は、深く者を頼む故に、
恨み怒ることあり。

勢いありとて頼むべからず。
こはきもの先ず滅ぶ。

財多しとて頼むべからず。
時のまに失いやすし。

才ありとて頼むべからず。
孔子も時にあはず。

徳ありとて頼むべかrず。
顔回も不幸なりき。

(以下、略)

すごいぞ! 兼好!

で、なぜ突然、徒然草かというと、

この段を、NHKのラジオは、高校講座・国語でやっていたのだ。

この世に至っても、あるいは、こんな世のだからか?、

現世のぬっぽんずん高校生諸君は、

よろづの事は頼むべからず。

とか オベンキョウ なさる。

すごいぞ! ぬっぽん、高校生。

よろづの事は頼むべからず。

これって、旧教育基本法の理念、つまりは、啓蒙された主体的な近代人の理念ではないだろう。

もちろん、啓蒙された主体的な近代人の理念から、徒然草を批判するという教材にもなりうるのだが、ラジオ講座では、そういう雰囲気でもなかった。

すごいぞ! ぬっぽんずん!

よろずの事は頼むべからず!

そうなのさ。ぬほんこくセーフや社会保険庁をすんずた、おまいが、ばかなのさ!

よろずの事は頼むべからず!

▼英語教育拡大反対の理由のひとつに、まずは日本語! 日本語をまずはしっかりやるべしという意見がある。

ある意味まちがい。 なぜなら、ぬんげんの言語行動、つまりは思考そのものは、その媒体、つまりは日本語か英語かで、異なる。端的に言って、ある一人の人が、日本語と英語では語る内容が異なるというのは、おいらはすばすば見ることである。

■別の視点から。 たとえば、選挙なんかで何も変わらないんだよ!という命題はなんら新規性のないもので、『徒然草』のn番煎じに過ぎない!

外山センセなぞ、兼好のエピゴーネンの、お祭りに過ぎない!

日本古来の美意識に沿って、ネタを振ったって、受けるにきまってるじゃないか!

■「まずは日本語! 日本語をまずはしっかりやるべしという意見」のひとは、英語・日本語を越えた「客観的世界」があって、それを表現するのは英語でも日本語でも互換可能的にできると思っているのではないか? まちがい。

日本語人には、日本語的世界が立ち現れるのであり、

英語人には、英語的世界が立ち現れるのである。

本質/言語は、現象する!

たとえば、上記、『徒然草』第二百十一段なぞ、英語になるとは、おいらは、すんずられない。実は、『徒然草』の英語訳はあるのだが、それは『徒然草』ではないのだよ。同様に、日本語に訳された「英語」ならざる「英語」もゴマンとある。

それにしても、『徒然草』第二百十一段を読んで、その腑に落ちること限りなすのおいら。 でも、現世高校生が、、『徒然草』第二百十一段を「理解・納得」してもらっては、これまた、こまるのである。 なぜなら世界は君たちのものだ、それは僕たちのものでもあるが、結局は君たちのものだ。 からである。

おそるべし、日本語教育!

こういう日本語教育が、例えば、次のようなぼやきを産む;

最近よく耳にするのは、われわれ日本人の発言が論理性に乏しいとか、あいまい、不明瞭で、共感を呼ぶには程遠いなどの批判です。この原因は、日本人が論理的思考法を学んでいないからなのです。とくに教育の現場での訓練のなさがその原因の一つに挙げられましょう。 (『新しい英文作成法』 天満美智子)

つまりは、天満美智子センセは、日本のガッコの『徒然草』教育をぼやいているのである。

その言やよし。 さりとて、もしそうであるなら、日本人が論理的思考法を学ぶための「日本語教材」をなんとする? 誰のどの日本語文章を教材にする?





















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