TOP PAGE BLOG ENGLISH CONTACT




小泉内閣の5年5カ月で、この国は変調子になった。「変人」に慣れすぎたのか、顎が外れるほどに「改革」を呼号し、「民間に出来るものは民間に」と言い続けてきた規制緩和と市場原理主義への傾斜は、「司法」や「報道」の場も遠慮なく巻き込んだ。今日発売の『週刊現代』にジャーナリストの魚住昭さんが「裁判員制度タウンミーティングは、最高裁と新聞メディアと電通の『やらせ』だ」という記事を緊急寄稿している。また、朝日新聞が「広告と一体、成功させなければ--新聞社『動員』官庁発注、増す重み」と題して、メディア欄で記事を書いている。両方の記事を併せ読むと、今回明るみに出た問題は「3000円」「5000円」という謝礼問題は表層で、いかに深刻な事態を招来させているかが見て取れる。

本ブログの読者なら、産経新聞社をはじめとして、千葉日報、岩手日報、河北新報、西日本新聞などの地方新聞が開催したイベントで「バイト・サクラ」動員が行われていたことはご承知の通りである。しかも、費用は新聞社側の持ち出しだったというのだから、誰が何のためにこのような無理をしなければならなかったのか分からない。しかし国の機関からの「広告出稿」という事業として読み解けば、なるほどそうだったのかとうなずき、その後で背筋が寒くなる。

「いずれのイベントも大手広告代理店の電通がまとめ役になって99年に設立された全国地方新聞社連合会が共催や後援に加わっていた。連合会や電通が各官庁から事業を受託し、地方紙はイベント運営や記事での紹介をする一方、官庁から関連の広告を出してもらう仕組みだ……連合会は『地方紙がそれぞれ営業しても全国紙に太刀打ちできない』として、主に広告受注のための枠組みとして設立された。事務局長や主任研究員などを務めるのは電通新聞局の幹部だ」(朝日新聞2月10日朝刊)

この連合会を設立してから各省庁のイベントを一括して46社が受注できるようになり、05年には70件、30億円を上回る規模となったという。ところで、最初に「バイト・サクラ」が発覚した裁判員制度全国フォーラムは、平成17年度から全国50カ所で開催されている。最高裁・各地方新聞社の共催事業だが、前出の魚住さんが明らかにしているところによれば、「パブ記事」の掲載が条件となっていたという。

新聞記事の中にはシンポジウムなどの内容を掲載しながら、「全面広告」「広告のページ」「広告特集」などと、小さな文字ではあるが記事が「広告」であることを明示してある記事と、こうした断り書きがなくて、「特集」などと一般記事と区別のつかない形態で掲載されているものがある。この「広告」と銘打つことなく、記事の体裁で掲載されている広告のことを「パブ記事」と呼ぶと魚住氏は解説する。そして、記事掲載にあたってスポンサーである政府(国の機関)から条件が付けられたという。

「(地方紙)編集幹部の証言によると、政府が世論形成したい場合に行うシンポでは省庁側から、①シンポの模様を伝える特集には『全面広告』のノンブル(断り)は入れない ②紙面に『広告局制作』といった表現も認めないという条件が付けられた。政府広報とわかると広告効果が格段に減る。世論形成のためにはパブ記事でなければならぬというわけだ。それでも、当初は地方紙側から『せめて[広告局制作]の表示を出したら」という意見も出たが、押し切られ、パブ記事が横行するようになったという」(『週刊現代』07年2月24日号魚住氏記事)

最高裁の「裁判員制度全国フォーラム」も、このパブ記事が大きな決め手となって発注された。総額13億円を上回る巨額の広告費が投じられて、今日も明日も現在進行形でイベントが進んでいる。明日の地方紙には、どんな「事後記事」が掲載されるのだろうか。また、しばらく経った後のパブ記事は、これまで同様のものなのか。今、日本のジャーナリズムにとって、地方紙の存在はかけがえのない宝だと思っている。広告構造が変化して新聞広告の出稿量が減り、新聞広告をダンピングなしで定額で支払ってくれる「官のキャンペーン」は有り難いということもよくわかる。

しかし、国民投票法案=改憲作業法が仮に成立したら、内閣府や国会予算で「考えよう憲法・全国シンポジウム」「生き生きトーク・憲法を語ろう」などの企画が全国の地方新聞との共催事業の形で、巨費を投じて続々と開催されるおそれがある。総額10億円で3年間で30億円を投下し続けると、年間150カ所(各都道府県平均3回程度)の開催が可能となり、そのたびに「事後記事」や「特集」という名のバブ記事が掲載され続ける。3年も続いたら、地方紙の憲法をめぐる論調は変わらないのか。「憲法は変えるのが当然、問題はどう変えるかだ」と全国紙の多数が傾斜している方向に地方紙もぐいぐい引っ張られる。悲しいが、広告の力によってだ。
これは、少々悲観的な「妄想」に過ぎないかもしれない。望むらくは、私の懸念を笑い飛ばして、「大丈夫、新聞はそんなにヤワではありませんよ」と誰かに説明してもらい、「そうか、考えすぎだったな」と胸をなで下ろしたいというのが本音だ。この問題は引き続き、考えていくこととする。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 公共事業チェ... 「官から民へ... »