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橋本龍太郎元総理大臣が亡くなった。私が初当選した96年10月の総選挙後に、社民党は大臣を出さない「閣外協力」の与党として、第2次橋本内閣を支えることになる。初めて招集された特別国会の「首班指名」で、「橋本龍太郎」と書くべしという指示に逆らって「土井たか子」と書いたのが国会議員として最初の選択だった。その後、98年7月の参議院選挙の敗北を受けて橋本総理が退陣するが、その直前まで与党としての1年半を過ごした。直接にお話をしたことはないが、病状は深刻だと聞いていた。それにしても、68歳という年齢で逝去されたことに慎んで哀悼の意を示したい。

その後に総理に就任したのは、故小渕恵三氏だった。2000年4月に脳梗塞で倒れ、5月に急逝している。小渕元総理に教育問題の自著(『学校を救え』ジャパンタイムス社)を送ったら、議員会館に「ブッチホン」を頂いたのにはびっくりした。小渕内閣では、自民・自由・公明連立政権の進めた盗聴法(通信傍受法)や住民基本台帳法などに激しく反発し批判する立場ではあったが、昨日まで議論していた方が倒れて亡くなったことには強くショックを受けた。

橋本元総理に、政権を禅譲した村山富市元総理によれば、「総理の重責」というのは体験した者でなければ分からないものだという。在任中に亡くなった故大平正芳総理や故小渕総理に続いて、60代で亡くなった橋本元総理は、総理退任後も橋本派・平成研の会長であり、「日歯連一億円問題」が事件化するまで派閥の領袖だった。小泉総理の「自民党をぶっ壊す」は、とどのつまりは「橋本派・平成研」の権益解体へと作用した。橋本元総理の病状が深刻だという話は、数週間前から永田町に流れていて、報道各社とも準備をしていたようだ。奇しくも3日前の6月28日に、東京地検は「1億円のヤミ献金不記載」問題を不起訴処分としている。この事件の重圧、そして昨年の総選挙に立候補することも出来なかった政治的苦境に陥るなど晩年はつらい日々が続いていたのではないか。

2001年支持率最低の森総理が退陣し、自民党総裁選挙が行われた時に、永田町内外はそろって「橋本総理再登板」を予測していた。総裁選の始まる前に「変人・小泉総理」の登場を予想した人は皆無に等しかったのではないか。「自民党の常識」からすれば、いろいろ問題はあるにしても「橋本復活」しかないと思われた。しかし、史上最低の支持率を記録した森内閣に対して、都議会議員選挙・参議院選挙を控えた自民党の本能的危機感が、小泉候補の地滑り的圧勝をもたらした。そして、「改革の詐術」で5年もの長期政権を維持したのである。

社民党前衆議院議員の中川智子さんが国会内を奔走してつくったのが超党派の議員連盟「身体 障害者補助犬を推進する議員の会」(会長・橋本龍太郎元首相)の会合で橋本氏の話を聞いたことがある。政治家だった父が足が悪くていつも犬がそばにいたという経験から、もっとしっかり後押ししていかなければならないという話をされた橋本元総理の話に「情」を感じた。

小泉改革とは「郵政民営化」に「情」をもって反対する政治家を「抵抗勢力」としてラベリングし、一刀両断に切り捨てるというすさまじい政治だった。「情」にはうとく、小泉総理がオペラや歌舞伎を見に行ったという話はあっても、障害を持つ人々や、社会的弱者のために一肌脱いだという話はおよそ聞かない。

田中角栄氏に源を発する巨大派閥だった旧橋本派には、利権を独占し泥にまみれた「旧悪」が確かに宿っていた。しかし、橋本氏が入院する前の3月に訪中したように、中国との外交関係の破綻状態に心を痛め、社会的弱者に政治が力を尽くさんとする「情」があった。その「情」を失った政治ほど怖いものはない。

橋本氏はスタイリストで、キザ、人間味に欠けるといった評価があるが、人間にとって大切な「情」のある政治家だった。


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