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 3月15日、東京都議会で開かれた緊急集会で発言する筆者

 時代というものがある。私が政治や社会、また文化の変容に敏感になったのは中学生の頃だった。13歳~14歳という少年期に自己形成し、「政治」をテーマとした学校内新聞を創刊したことを、高校進学時の内申書に書かれたことを、16年間裁判で争った当事者だった私は、政治の場に実際に身を移してからも「表現の自由」「内心の自由」に対して動物的な勘が反応し、議論の最前線に押し出されている。1999年は「盗聴法(通信傍受法)」だったし、2005年は「共謀罪」だった。そして、昨年から今年にかけて「児童買春・児童ポルノ禁止法」「東京都青少年条例」の議論の渦中にいる。

 政治が悪くなるとしたら、痛い思いをしたことのないボンボン、特別扱いされてチヤホヤされることに慣れているオヤジたちが(一部は女性もいるが)、「道徳」「秩序」「安定」をかざして人の心に土足で入り込む欲望を肥大化させる行為に、ブレーキがきかなくなることである。彼らが語る「自由」は、特権を奪われない「自由」であり、「批判」を受けない自由である。そして、自己の狭量な体験を絶対化して、「若者はなっていない」と嘆いてみせる。「青少年健全育成」などと声高に叫ぶ一方で、「表現」「文化」「若者」の世界に足を踏み入れていくことのデリカシーがない。

 民主主義や自由に例外はない。これが、世界標準の思想だ。「子どもの権利条約」は、子どもであることで社会から排除されたり、一方的な措置を受ける客体ではなくて、年齢・発達に応じて意見を表明し、社会システムに参加することの出来る「意見表明権」を銘記している。「青少年」であることで、非行防止と保護の対象であり、自分では決められないので国家(行政)が生き方を決めてやる。「善悪の判断」が出来ないので、かわりに法律(条例)で決めてやるという「おせっかいファシズム」は、黙っていると無限に支配欲のままに膨張する。

 世の中は、清流ばかりではない。インターネットの有害情報の規制は必要だとは言っても、網をはればすぐに網をくぐり抜けてくる「雑多な情報」があるのが現実である。青少年に必要なのは、「ネット上の情報」と向き合う距離感や選別、誤って入口をくぐってしまった時の「脱出方法」、掲示版で起きたトラブルへの対処の考え方など「リテラシー」の力ではないか。

 フィルタリングも携帯電話では幼稚なアクセス規制をしている。「どこどこ日記」は「政治」というジャンルであることからアクセス出来ず、また「ブログ」であるからつなげないということをやっていて、18歳選挙権など本当に検討出来るだろうか。実は、規制派の人たちは、細かいことは知らない。「青少年から有害情報を遮断しました」と思い込んでいる。

「十把一絡げ」が彼らの発想の特徴である。多数のいい作品の中に「悪い作品」が混じっていたら、その書棚ごと焼き払えという考え方である。たしかに「悪い作品」も燃えるが、その他の多数の作品も消失してしまう。その副作用に対しては鈍感だ。「非実在青少年」などという素晴らしいネーミングは、よほどに冷徹な感性がなければつくりえない。「実際にはいない青少年のマンガ・アニメ」というところにまで規制範囲を広げるための造語だったと思うが、「いいか、悪いかはお上が決めるものだ」という江戸時代のお代官様的発想が匂う。


 私は、民主主義の仲間を探している。「表現規制」を取り上げてからは、ブログアクセスの世代の6割が10代・20代になった。26日の集会には、生まれて初めて政治家の集会に来ましたと語る10代、20代の若い世代の顔があった。いったいこの時代に何が起きているのか、じっくり若い世代と一緒に考えてみたいと思う。そのために、藤本由香里さんとの連絡をとり、議論が出来る場を準備しているので、まもなく公表する予定だ。



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