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昨日の続きを書いてみることにする。「ゆとり」教育が否定され、受験に有利な科目を中心に子どもを偏差値競争に駆り立てるような「学校化社会」は、規制緩和されるどころかより牢固なものとなりつつある。言い替えれば「学校歴社会」は、過去からの人材評価尺度であったとともに、これから100年も不動の価値軸であり続けるかのような存在感を持っている。ひとりひとりの人間を、そんなに細かく見ていくことが出来ないから、古いけれど安心できる「看板」(=学校歴)で採用した方が楽だという企業側の感覚もあるだろう。私も現在の偏差値競争を生み出してきた「学校歴社会」を全否定する立場ではない。

 しかし、これだけでいいのかという強い疑問を持っている。点数競争の覇者は少数であり、中位や下位に位置する多くの若者たちがいる。その若者たち自身が、たとえ「学校歴競争」の頂点に登りつめなくても、スポーツ・芸術・技能・趣味・家業など「偏差値」とは別の価値観で正当な自己評価をなして、仕事についていくことの出来る社会であればいい。ところが、「非正規」の派遣・パート・バイトなど低賃金の短期間の不安定雇用で働く人たちが増大してきて、偏差値競争の「勝ち組」「負け組」が二極化していく傾向がこの10年格段と強まった。

 それが、生まれた子どもの家庭環境(収入状況)によって、「教育格差」の轍の中にはまり、塾や家庭教師などの教育投資が可能な家庭の子は「偏差値競争」へ駆り立てられ、その余裕のない家庭の子は「偏差値競争」が行なわれる競技場の中にすら入れない。経済格差は、親から子に絶対条件として継承され、身分格差となる懸念すらある。こうして、人材の流動性がなく、自分の努力でどうすることもできない壁に阻まれている社会は、不健康で危険な社会となる。

 私は、高等教育(高校・大学・職業学校)の無償化を行なって、どのような家庭環境にあっても、努力次第で自らの望む進路を選択できる社会に変えないと、日本社会の活力は戻ってこないと考えている。

 国会で児童虐待防止法を作ったが、社会の手によって親の暴力から切り離されて保護された子たちの相当数が、児童施設で高校3年生の卒業時を迎えることになる。翌日から施設を出て自立しなければならないという条件の中で、大学や専門学校に進学する子はほとんどいない。意欲がないのではなく、社会的支援体制がないために、自ら望んで「進学」するのは至難の技なのだ。不平等の限りだし、「この状態で仕方がない」という人はひとりもいない。

 だが、文部科学省は放置している。なぜなら、親を事故や病気で失った子、経済的に困窮している子に同様の措置を取らなければならず、その気がまるでないからだ。





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