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 無残な形で屹立する「防災対策庁舎」(南三陸町2010年7月)

 世田谷区職員が7月3日から20人チームで支援にあたる宮城県南三陸町と、多くのボランティア組織を束ねて実績をあげている石巻市を7月18~19日の日程で訪ねた。区職員は意気軒昂で、一軒一軒を地図で訪ねて巻尺で寸法と形状を記録していく。南三陸町で長い年月をかけて図面化が完成したものの電子データに入力する直前に津波にやられてしまったという行政情報の人海戦術による復元に協力しているというわけだ。

 東北新幹線くりこま高原駅からレンタカーを借りて南三陸町に向かう。南三陸町に近づくにつれて地震の被害にあった建物が多い山間の集落を通った。途中で「大売出し」「値引きします」と派手な看板とのぼりがあったのは葬儀社だった。車で1時間、南三陸町の旧志津川町の中心部に入っていくと荒涼とした光景が広がる。

 当初の気象庁発表の津波規模は6m、しかし実際に到達した津波はその3倍になった。町をなぎ倒し、風景を一変させてしまった。

志津川病院には3月11日の被災 当初に伝えられた被災状況が残されていた。

片づけに使われている重機。町全体が壊滅した南三陸町の瓦礫の撤去もまだまだ多くの量が残されている。

集合住宅の上の車。津波の高さを物語る。

防災対策庁舎の前に献花台があった。合掌。その後、町役場を訪ねて、佐藤仁町長を訪ねた。佐藤町長は、3月11日の震災当日は議会での挨拶の最中だった。「揺れの大きさから必ず津波が来ることは予期していました。気象庁からの発表が『6m』だったので、それなら幾度となく避難訓練をしてきた『想定内』の数字だから大丈夫と思った」

 津波の様子を見るたとに登った防災対策庁舎の屋上には約30人がいた。津波は高さ11m、鉄骨3階建の庁舎を飲み込み、20人が流されてしまう。町長は総務部長と一緒に、外付けの階段のところにしがみついて津波を耐えた。3分ほどすると、残ったのは鉄製の外階段につかまっていた7人と、屋上のアンテナによじ登った3人だけになっていた。

(右側横に鉄製の外付け階段が見える。ここで佐藤町長らは一命をとりとめた)

「アンテナに登ったひとりがタバコを吸うのでライターを持っていた。これで、屋上に流れてきた家屋のハリに火をつけて暖を取った。雪の中、あの火がなければずぶ濡れになった私たちの生命はなかったと思う」

 世田谷区職員の派遣も含めて、現在も100人を超える全国の自治体職員が頑張っている。私を仮庁舎の町長室に案内してくれたのは、鳥羽市役所の腕章をつけた職員だった。自治体が、日常のつきあいや制度の枠を超えて力を合わせることで、「ほとんど全てを津波に流された町役場を再建することが出来た」と佐藤町長は語った。仮設住宅が出来上がり、これから本格的な復興計画の準備に入っていく。

次に私は、石巻市に向かった。 石巻には、ボランティア団体や民間団体を束ねて、自治体と役割分担をしながら大きな役割を果たしてきた石巻復興支援協議会のある石巻専修大学をめざした。(下に続く)

 



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