TOP PAGE BLOG ENGLISH CONTACT




脱原発は単なる「ワンイシュー」ではない

  • 文 保坂展人
  • 2014年1月21日

写真:脱原発を訴えるプラカードを掲げてデモ行進する人たち=2013年10月13日、東京都港区

脱原発を訴えるプラカードを掲げてデモ行進する人たち=2013年10月13日、東京都港区

  

 1月19日、「基地問題」と「脱原発」を争点にした、ふたつの首長選挙の結果が出ました。沖縄県名護市で「米軍基地移設」反対を掲げた稲嶺進さんと、福島県南相馬市で「脱原発」を訴えた桜井勝延さん。いずれも現職の市長が再選され、民意は、国の目指す方向とは異なる判断を下しました。

 そして、まもなく東京都知事選挙が始まろうとしています。

 細川護熙元首相が小泉純一郎元首相と共に立候補を表明してから、都知事選挙のテーマに「脱原発」がおどりでました。メディアの反応は二分され、「都知事選挙で脱原発を争点にするな」という主張も聞かれます。

 私は、「脱原発」が議論の俎上(そじょう)に乗るのは遅すぎるぐらいだと感じています。その理由について、前回のコラムで次のように書きました。

<原発の重大事故時の影響を考えた時、東京もまた被害を回避することは困難です。県境はおろか、場合によっては国境さえ越えてしまうのです。なにより、東京は日本で最大の電力消費地でもあるのです。原発問題に無関係であるはずがありません>(「東京から『原発ゼロ』を進める必然性」

 3年前の3月11日に起きた東日本大震災と福島第1原発事故は、私自身の生命感、人生観を変えるのに十分な経験でした。 同時に、それはあるべき「国のかたち」についての問いも投げかけたはずです。

 大震災とその後に東北地方沿岸部を襲った大津波は天災ですが、原発事故は言うまでもなく人災です。日本の原発が地震に対して脆弱(ぜいじゃく)であることは、国会や言論の場で繰り返し指摘されてきました。

 今から振り返ると、2007年7月の中越沖地震に襲われた柏崎刈羽原発の危機的事態は、福島第1原発事故を未然に防ぐ最後の機会だったかもしれません。当時、国会議員だった私は事故直後に、原子力保安院や東京電力に調査を申し入れ、地震直後の原子炉建屋の中に専門家とともに入りました。原子炉のフタを開閉する大型クレーンはへし折れ、使用済み燃料のプールからは汚染水があふれていました。

 東京に帰ってきて、メディアに写真を提供し、詳細な記者会見を開きましたが、ニュースではいっこうに取り上げられませんでした。あろうことか、この事故はその後、電力業界の宣伝に使われ、「原発は地震に強いことが証明された」というキャンペーンが繰り返されたのです。

 当時、私は国会の文部科学委員会に所属していたので、柏崎刈羽原発事故について集中審議すべきだと主張しました。ところが、自民党と民主党の議員は顔を見合わせて、「また原発の危険性ですか。ご意見として承りました」と冷笑し、一切の議論を拒絶したことをよく覚えています。

 福島第1原発事故を招いた責任は、一義的には電力会社と監督官庁の経済産業省が負うべきものでしょう。ただ、事故後に丁寧で謙虚な検証作業が行われなかった点は、メディアと政治にも責任があります。

 「脱原発」が争点になろうとするなか、「都知事選挙は、原発問題を議論する場ではありません」という声が一部からあがっているのは、原発事故直後と瓜二つのように見えます。またも、本質的な議論をせずに、時とともになんとなくやりすごそう、というのでしょうか。

 原発問題をめぐる構図からは、東京と地方の関係が浮き彫りになってきます。事故のリスクを抱える原発は、人口の集中する都市部を離れた地方に建設され、東京には長い送電網を通じて供給されてきました。「消費の拡大」「経済の活性化」のために、東京はあたりまえのように電気を求めてきました。

 消費者が支払う電力料金の中から「巨額の寄付」を、電力会社を通じて原発立地自治体に払い続けてきたのは周知の事実です。東京はリスクを取らずに、恩恵だけ享受して、そのすべてを金銭で解決してきたのです。

いま、都市部と原発立地県やその周辺地域から同時に、「大規模集中電源と過度の大量消費」を前提とした「国のかたち」や「暮らしのあり方」を転換しよう、という声があがってきています。朝日新聞の調べでは、全国の455議会が「脱原発」を求める意見書を可決しているといいます(朝日新聞1月19日付朝刊)。

 脱原発とは、3・11をへた日本が、その首都である東京が向き合うべき課題であり、時代を貫く大きなテーマだと思います。それこそが、私たちの目指す「国のかたち」や「暮らしのあり方」を決めるからです。

 その意味で、郵政民営化と同様の「ワンシュー選挙は都知事選にはなじまない」とする批判は的外れな面があるのではないでしょうか。大きな方向性が示されて初めて、東京が抱える「子育て支援」「高齢者福祉」「住宅問題」「雇用と格差」といった問題に対する政策も決められていくのではないかと思います。

 日本で本格的な人口減少が始まったのは2009年からです。昨年までの5年間で、合わせて86万人。ちょうど、東京都の中で最大規模の人口を抱える世田谷区の市民が丸ごと消えた計算になります。国立社会保障・人口問題研究所の推計では東京オリンピックが予定されている2020年までに、人口減少にはさらに拍車がかかり、これからの6年間で285万人が減るだろうと予想されています。

 そのなかで、東京だけが人口が微増するようです。東京への一極集中がこれ以上進み、若者たちや子育て世代が地方を離れてしまうと、これまでのような地域社会を形成することは難しくなります。製造業の撤退が続き、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)で農業の基盤が存亡の機器に陥るとなれば、この変化は加速するおそれがあります。

 地方が衰退するなかで、東京が「ひとり勝ち」するシナリオはありえないと思います。いままさに、「国のかたち」が問われているのです。

「脱原発はたんなるワンイシューではない」(「太陽のまちから」2013年1月21日)

 

 

 



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 東京から「原... 2014年1月9日... »