本日午後2時、北沢タウンホールの12階で記者会見をしました。記者・支持者・区民70人の前で「世田谷区長選挙立候補要請を受けて1週間かかり決断しました」と抱負を語りました。会見は1時間に及び、記者や参加者から活発な質問が出ました。
昨年秋から何度か世田谷区長選挙に立つように求められてきました。当初、衆議院議員3期11年の場で培った経験を国政の場に戻ることで生かしたいという理由で、区長候補と目されるのは光栄としながらも固辞してきました。
3月11日午後、激しい揺れが東京を襲いました。大地震による大津波が言語を絶する被害を生みました。私は、東北・宮城県の生まれです。地震の晩、帰宅困難者となって都心の出版社にいた私は、「福島原発の異変」のニュースに背筋が凍りました。
それ以来、地震と原発事故の緊張と恐怖が東京を包みました。停電が始まり、交通機関が乱れ、すべてが停滞する中で、この災難に立ち向かっていたのは被災地の自治体であり、また被災を免れた自治体でした。
私は、地震の直後から田中良杉並区長と意見交換をして、杉並区が原発事故の後で「避難地域」と「屋内退避」地域とされた福島県南相馬市に緊急援助物資を送り、また「陸の孤島化」を危惧する桜井勝延南相馬市長の訴えを受けてバスを送り避難者を群馬県の宿泊施設に移送するプロジェクトのお手伝いをしました。そして、私自身も南相馬市に出向き、極限状態の中で市民の生命を預かり奮闘する桜井市長とも話してきました。
素早く行動し、迷うことなく人々の生命を守る役割をするのは自治体だという姿をしっかりと瞼に刻みました。3月31日に、「もうぎりぎりだけれど」と世田谷区内の住民グループに出馬要請を受けた時に、たいへんな責任の重圧感とともに、今だからこそ私の力で役割を果たすことが出来るかと自問自答を続けました。
3月11日の地震と原発災害は、私たちの未来に大きな不安と影を落としています。そして、私たち自身の生き方や社会の慣習を大きく変えるように求めていると思います。政治の役割は、暗黒の中に灯を掲げ、困難な壁の向こう側に夢をつくりだすことです。
それが25年間、子どもと教育問題をテーマに地域活動をしてきた世田谷で出来るのであれば、思い切った舵取りをしていきたい。国政が危機の前に停滞し、すぐに回答が生み出せない状況が続いていく中で、「新しい社会のあり方」を世田谷から提示していきたいと思うようになり、要請を受けることにしました。
短い期間ですが、多くの人が身体を動かして、参加し、提案し、意見を述べ、議論しあう活力を作り出していきたいと思います。
これが抱負です。
2011年4月6日 保坂のぶと
これは下原稿だったので、おおむねの内容です。
以下、質疑応答をしました。質問の中で「あくまでも国政をめざすべきではないのか。どうして区長なのか」という問いが何人かからありました。 今後、ブログの中で答えていきたいと思います。