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 寒暖の差が激しい日々が続いている。昨日汗ばんだと思ったら今日はコートの襟を立てる。それでも、ふと目をやった白梅がふくらんでいる。今朝は、東京町田市の子育て中の母親グループに招かれて『子どもをとりまく環境について』というテーマで話をした。このところ地方行脚を含めて講演の機会が多いが、「八ッ場ダム」「労働者派遣法」「沖縄・普天間問題」「連立政権の課題と政局」などさまざまだが、「子ども」をテーマに話をするのは久しぶりだった。

 かつては、教育ジャーナリストというジャンルの仕事を、十代の読む芸能誌(『明星』『セブンティーン』)に学校ルポを書きながら、本を次々とまとめていた時期があった。(1983年~1995年)私の書いた文章は子どもたちの間で多く読まれ、私の造語である「元気印」は流行語にすらなった。奥行きが深く複雑なことを平易な言葉でいかに伝えられるかが、トレーニングを積んできたことは、政治の場に身を移してからも、役に立ったと思う。

 こうして、わずかな時間をさいてブログを書き続けているのも、ジャーナリスト時代の習性が手伝ってのことだろう。「学校」「教育」「子育て」をめぐる状況は、あいかわらず厳しい。学校の教師に対しては、「子どもに興味がない」「子どもの顔を見ない」という不満が向けられる。しかし、学校管理が幾重にも複雑化した学校現場では、教師に与えられる仕事に「事務処理」「書類作成」のウエイトが強まった。こうして、子どもと遊んだり、話したりする時間がなくて、パソコンの画面に向かっている時間が多いという実態が、どの学校にもある。

なぜ、学校のテストで一番いい点は100点なのか……ということを考えてみよう。「空気はなぜあるのか」を考えるぐらい自明の前提として常識化している概念を疑おうと私は、講演のたびに呼びかけている。「100点」は「間違えなかった」という結果である。ひとつかふたつでも間違えると、持ち点がマイナスとなり80点、70点、50点と下がっていく。間違えていなければ、とりあえず100点だ。日本のテストの点数で100点が満点なのは、「減点法」で評価しているからだ。昔、学校で「テストの答案用紙」を先生から渡された時に、まずどこを見たのか? 思い出してみよう。まず、点数を見たのではないか。

 多くの人が言う。「点数を見た後は、間違えているところを見た」と。「ああ、ここも間違えた」「ここがダメだった」と悔いて、自己評価を落とす。さらには、先生から、家で待ち構えている親から答案用紙を奪われて、子どもたちは「また、こんなところを間違えて。ダメじゃないか」と叱られるのだ。テストは何度も繰り返される。その度に、「自己評価」を落とし、自信をなくしていく子どもたちからは「反省」「自信喪失」「低い自己評価」という人格が形成される。
「どうせ私はたいしたことのない人間です」という腰の低い姿勢は、高度経済成長期の製造業のラインを支えた労働者を量産するシステムとしての学校のひとつの隠された「機能」だった。

 しかし、過剰な「自己卑下」と「低い自己評価」は日本社会の活力を奪い、「摩擦をさけ、周辺の意見や空気に自分を合わせる」過剰同調型人間をつくりだした。「KY」とは、そうした社会特有の嫌菜言葉である。私は「KT」でありたい。「気をつくる」という発信源でありたいと願ってきた。というような話に「学校」「子ども」論は発展していく。なかなか奥が深いのだ。


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