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憲法改正・教育基本法改正の論拠に決まってあげられる論拠がある。家庭の崩壊や幼児への虐待、親への暴行・殺害事件などは、「個人の尊厳と両性の本質的平等」のみを強調している憲法に起因する。また戦後教育の荒廃も極まり、学級崩壊が相次ぎ、道徳・規範意識・情操は乱れている。憲法や教育基本法の見直しが必要だ。歴史観も、自虐史観中心の授業によって、世界に誇るべき文化や伝統があることを欠落させている。国際社会の中で毅然とした態度を取れないのは、平和主義憲法という呪縛にいつまでもとらわれているからだ……。

本当にそうだろうか。1999年、児童虐待防止法を作ろうとした時に、最初に立ちはだかったのは自民党内の伝統を重んじる保守派だった。こんな法律を作ったら、親が子にピシャリとやることも出来なくなる。しいては「家庭が崩壊する」。だから、児童虐待防止法の中に「体罰容認」の担保を置いてほしいという意見が出て、仰天したものだ。たとえば「保護者は、児童虐待にいたらない懲戒権の行使はこれをさまだげないものとする」などの条文案だった。結果として制定時には「児童の権利」という言葉を入れない代わりに、この条文も相殺することにしたが、児童虐待防止法が出来てみると、通報数は飛躍的に多くなり社会の関心は高まった。

改憲派は「男女の平等」が嫌いらしい。教育基本法から「男女共学条項」を削除するというアナクロニズムも驚きだが、「個人の尊厳」「男女の平等」が徹底していないから、家庭内虐待・殺人事件などが相次いでいると私は考えている。たとえ、改憲派の言う通りに憲法・教育基本法を変えても、事件は増え続けることだろう。「エリート主義教育と進路競争」「格差社会と失業と貧困」など社会的要因も背景にあり、世を騒がす事件の多くが「円満でよく挨拶もするしっかりした子」が豹変するケースが多いことをどう考えているのか。

「自虐史観」がそんなに浸透しているのなら、小泉総理の靖国参拝に若者がこぞって反対するはずだろう。歴史を教えず、また語らない「脱歴史教育」そのものが、「皇国史観も良かったんじゃないの?」という若者たちを生まれやすくしている。憲法や教育基本法で「誇り」とか「伝統」とか「心」などを強調するのは、国家権力が行政組織を通して、人間の内面に限りなく浸透してはならないという制約を取り払うものである。

ひとつひとつの改憲論をていねいに考えてみると、次々と疑問がわいてくる。

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