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筑紫哲也さんが7日午後、肺ガンのために亡くなったというニュース速報をみた。まだ、73歳。2年前からガンの療養中だったとはいえ、身近で会った人によると、「一緒に議論をしたり、食事をしたりしてきた」と言うので、まさかそんなに早く亡くなるとは思わなかった。1989年から続いたニュース23も、「筑紫哲也の」という冠が外れてすでに数カ月になる。硬派週刊誌『朝日ジャーナル』の編集長時代に、私は『学校解放新聞』というミニコミ(といっても最盛時には5000部)を主催していて、インタビューをしたことがあるし、私がジャーナリストとして文章を書き始めたのも『朝日ジャーナル』だった。政治の世界に入ってからは、土井たか子さんや、辻元清美さんの会でご挨拶を交わすぐらいだったが、もうお会いすることが出来ないのかと思うと残念だ。

筑紫さんの死は、この国の危機的なジャーナリズムの現状の中で、大きな空白をつくってしまった。しかも、新聞記者であり、週刊誌の編集長であり、そして、20年近くTBSニュースの看板番組を背負ったジャーナリストだったのだ。若者の風俗や、音楽にも興味を示していて、金曜日の第2部は深夜までよくつきあったことを覚えている。沖縄にも深いこだわりがあった人だ。筑紫さんの存在がなければ、沖縄戦の記憶や「集団自決」「住民虐殺」などの歴史は、今よりも深く葬られてしまっているに違いない。

こうして追悼記事を書いているうちに、次々と友人から電話がかかってきた。2カ月前に会ったという友人は「信じられない。また今度と別れたばかりだったのに」と言い、沖縄や鹿児島などに転地療養をしていたとのことだ。今夜の『23』は追悼特集になるようだ。この世に残された私たちが、リベラルの旗を高く掲げて、次の世代と結んで歩んでいく以外にはない。

さようなら、筑紫哲也さん。

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