goo blog サービス終了のお知らせ 
TOP PAGE BLOG ENGLISH CONTACT




昨夜は「田英夫さんを偲ぶ会」が憲政記念館で開かれた。横路孝弘衆議院議長、江田五月参議院議長、菅直人副総理兼財務大臣と、かつて田さんと政治行動をともにしたお歴々が政治の中枢に位置する時代となった。社民党からは土井たか子元衆議院議長がメッセージを届け、福島みずほ党首が挨拶をした。

私は、2001年夏の参議院選挙で田さんが比例代表選挙に最後に立候補した時の選挙対策本部の責任者だった。十分な働きが出来ずに、田さんは次点に終わってしまったが、この時に当選した評論家の田嶋陽子さんが辞職したために、2年後に繰り上げ当選した。田さんの信念は「反戦平和」であり、「戦争の語り部」として私たち戦争を知らない世代に多くのことを伝えてくれた。

1996年夏のこと、キャビタル東急の星ケ丘という中華料理店で田さんのお招きを受けたことがあった。昨日、出席していた辻元清美さんも一緒だった。料理を食べながら「ぜひ、あなたたちふたりには政治の場に出てきてほしい」と促したのが田さんだった。その数カ月後に、田さんの要請通りにふたりは社民党から立候補することになる。田さんは当時は無所属で、社民党が民主党の分裂して、どったんばったんの大騒ぎの渦中で私たちが立候補を決める現場にいたわけではないが、ジャーナリストとしての直感が働いたことだろう。

 田さんは特攻隊員だった。飛行機ではなく、ベニヤ板で作った小さな船に爆弾を搭載して横になって操縦するという特攻船に乗る予定だった。食事をすると、その当時のことを何度も話してくれた。戦後、若くして共同通信の社会部長となり、そして、TBSのニュース番組のキャスターとなった。ベトナム戦争の実態を体当たりで取材した『ハノイの微笑み』が当時の自民党政府の逆鱗にふれ、番組を外されてしまう。その2年後に、当時の社会党から参議院全国区に立候補し、190万票を得てトップ当選する。時代の最先頭をキリキリせずに、ダンディに、しかし妥協せず歩んできたのが田英夫さんだった。

 こういう先輩が鬼籍に入っていく報せが続いて、やるせないが田さんが最後の選挙を戦った9年後に、同じ全国比例区で挑むことになるというのも、田さんという大きな存在から、バトンを引き継いで走るとの心意気でいきたい。

さて、今日は午後7時から四ツ谷の主婦会館プラザエフで夏の参議院選挙の公認候補となったことを報告し、大きな戦いのスタートを切る大事な日だ。ところが、昨日急に『朝まで生テレビ』に出演をしてほしいとテレビ局から電話があった。元旦に続いて、今年は二度目だが、受けることにした。「普天間問題」「中国」がテーマとなる。深夜だが、チェックしてみてほしい。

 これまで、テレビで発言する時には下調べの時間を取るようにしてきたが、今回は急だったのであまりとれないのが残念だが、普天間問題も大詰めを迎えている今だからこそ、言えることを主張したい。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 温かい配慮で... 昨夜,熱気と... »