17歳で高校を中退し、もっぱら読書と思索で「自らの言葉」を構築しようともがいていた頃に、魯迅の雑感文に出会った。それは、ぎくりとするくらいに短く、また斬新な言葉だった。「沈黙するとき私は充実を感じる。発言すると同時に空虚を感じてしまう」というもので、当時の私の心境にぴったりだった。魯迅の雑感文には、孤独が宿っていた。しかし、世情を憂いながら発する言葉のひとつひとつに「暗闇を知る光」「絶望の果てにかいま見る希望」をこめていた。私は、ひとりでいることが寂しくなくなり、むしろひとりでいる時間をこよなく楽しんだ。喫茶店の苦いコーヒー一杯で大学ノートに「言葉」を綴っていた。
世界は君を抱きしめてはくれない、と昨日書いた。しかし、つけ加えておかなければならない。君は世界を抱きしめることが出来る、と。絶望と孤独は、この世に生を受けた人間なら誰もが宿している影だ。にぎやかな日々、活発で多忙な仕事も、生涯続くわけではない。いつか誰もが困難に直面し、孤独をかみしめるひとときを持つ。雑踏から離れ、楽しい会話も遮断し、「世界」から半歩脱出してこそ、「世界を抱きしめる」ことが可能となる。
今日は、何かやたら詩的に酔っているわけではない。私の19歳、20歳は魯迅を読みながら、そんなことばかり何時間と考え、ノートに書き続けてきた。その時に形成された思考は、30年の時間が流れても昨日のことのようによみがえる。人と同じように歩まず、たったひとりで明日からのことを考え、実行しなければならない時期を長く続けたので、習慣的に考え込み文字に書き起こしていた。多くの人が過ごしたであろう仲間同士と過ごす楽しい時間と引きかえに。

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