hokutoのきまぐれ散歩

ブログも11年目、遂に3900日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

更科でカレーせいろを頂く

2021-01-31 05:00:00 | グルメ
『日本そばにこだわる』その11。そばには冷たいそばと温かいそばがあるが、温かいそばはかけそば、天ぷらそば、きつねそばとどの蕎麦屋に行っても間違えることはない。しかし、冷たいそばの場合は『もりそば』と『ざるそば』があってややこしい。

歴史を紐解くとそば屋の元祖とされる『けんどんそば』があらわれたのが寛政というから17世紀後半であり、最初の頃はつゆにつけて食べる『蕎麦切り』しかなかった。その後、ぶっかけ(汁をそばにかける)が現れたのだが、ここから『かけそば』の名前ができたらしい。
その後、かけそばに対して従来の汁につけて食べるそばを『もりそば』といいはじめたのだが、深川洲崎の伊勢屋が竹の笊に蕎麦を盛り、『ざるそば』と名乗ったのが最初と言われている。

やや、前置きは長くなった。ところで私の記憶では昔のそば屋のメニューでは冷たい蕎麦は『かけそば』と『もりそば』しかなかったように覚えている。あっても天ざるがせいぜいだった。しかし、最近は汁に色々な種を入れたり、味付けを変えたり、汁を熱くしたり、辛くし評判を取っているものが増えてきた。カレーせいろ、肉せいろ、かしわせいろ、鴨せいろ、おろしそば、山かけそば、胡麻そば、さらに冷たいのは『冷やし〇〇』が沢山ある。

その中で人形町では評判の『カレーせいろ』で有名な『更科』に入店した。11時40分に店に入るが、狭い店内は8割の入り。コロナ禍で人が少ない中、一見して多い。入口近くの席に座るが、出入りが多くて寒くて堪らない。もちろんカレーせいろ(850円、税込)を頼むが、店の人から『天かすをつけますか?』と聞かれ、『お願いします』と答える。

7、8分待ってカレーせいろが到着。漬け汁が大きめの器に入り、たっぷりのネギと豚肉が入っていて、上から見てもわかる。蕎麦も笊の上に結構な量が乗る。これだけあれば私が大盛を食べるのは無理であろう。

まずは漬け汁から頂く。それほど辛味はないが、香りたつ美味いカレー味は食欲がわく。蕎麦を汁に浸し、服などに飛ばないように注意しながら頂く。

麺が冷たいため、汁に入れても温かくなる程度。しかし、汁はとろみも付いていて油断すると一緒に口に入るネギも肉も火傷するくらい熱い。ただ、そのため食べやすいのである。途中で天かすを足すが、これも食感が変わる所もいい。

汁はたっぷりあるので麺が少しくらい増えても大丈夫だが、私にはこれで十分。カレーそばと大枠では味は変わらないが、何となくこちらの方が量が多くとも食べられそうである。

周りの人たちの注文を聞いているとやはりカレーそばまたはカレーせいろが一番人気、次が肉せいろ、かしわせいろの順番だったと思う。店の女性もテキパキと動き、アクリル板など感染対策もしっかり、大変好感が持てる店である。ご馳走さまでした。

更科
中央区日本橋本町3ー7ー9

時刻表机上旅行⑤〜パーラーカー礼賛

2021-01-30 05:00:00 | 鉄道
『鉄道シリーズ』その296。1964年9月以前、つまりまだ東海道新幹線の開業前は在来線特急こだま、つばめ、はとなどいわゆるビジネス特急と夜行列車が東京〜大阪の旅客運送の大半を担っていたことはよくしられている。しかし、新幹線開業以前もこれらのビジネス特急(151系)では驚くべきサービスを行なっていたことは今は知る人も少ない。もちろん最上級の車両に限ってであるが。

これらの特急(こだま、富士、つばめ、はと、おおとり、うずしお)は同じ編成であり、先頭車両には展望車を備えていた。”パーラーカー”と呼んでいたのだが、1車両の定員は18名、これが2つに区分されていて運転席後ろの区分席は4人用の個室、その後ろにある開放室は14席あり、席配置は2列に並んでいた。

開放室の席は1人用の回転リクライニング席でフルフラットとまではいかないが足を伸ばして座ることができた。シートもココア色の濃淡格子縞のモケットと他の車両と全く違うものを使っていたのである。




サービスも専用の給仕がいて紅茶やコーヒーを無料で提供された。さらに各席に電話用のジャックがあり、給仕に固定電話を持ってこさせて自席に座りながら電話をすることもできた。60年以上前の携帯電話など全くない時代にこのようなサービスがあったこと自体ビックリ。他にもラジオを聴くことができるサービスもあったのである。

もちろんこのような座席の値段は一般に比べて高い。1964年9月現在でこだまの2等車は運賃1180円+特急券800円=1980円だが、通常の1等車は運賃2170円+特急券1760円=3930円、さらに展望車は特別座席料金が1650円かかるので片道5580円になる。当時は1等と2等では運賃も違っていた。因みに1964年10月に開業した新幹線ひかり号で1等車に乗る場合は運賃2170円+超特急1等料金2860円=5030円だからいかにこのパーラーカーが高かったかわかるであろう。

新幹線開業以前など想像も付かないが、こんな車両があれば一度是非乗ってみたいものである。(私は京都〜東京間を昭和37年に特急つばめには乗ったことがあるらしいなだが、あまり記憶はない。)なお、座席は今も鉄道博物館に残されている。

玉子とじそばで暖まる。

2021-01-29 05:00:00 | グルメ
『日本そばにこだわる』その10。今回は玉子とじそばを頂く。江戸時代の玉子とじそばは高価なものであった。なにしろ、かけそばが16文に対し、32文と天ぷらそばと同じ値段(江戸後期、嘉永年間)であったのだから。
最初に伺ったのは事務所そばの『高松』、かけそば600円に対して玉子とじそばは750円とたぬき、きつねと同じ。今は庶民派である。


到着した玉子とじそばは表面を黄色い卵が覆っていて、その上にちぎった海苔、小松菜、蒲鉾が一切れ載せてある。まずは汁を一口、卵のおかげか味の濃さが消えて、まったりとした味となっている。

蕎麦は二八蕎麦で喉越しがよく、さらに卵でとじてあるのでより食がすすむ。蒲鉾や小松菜などの他の具材が面白みをもたらしている。さらに徐々に海苔が汁に溶けて旨味を出す。こういう寒い日には堪らないと思いつつ、完食した。

次に伺ったのは『藪伊豆総本店』、実は先日見た吉田戦車の漫画にこの店の卵とじそばの盛り付け方が面白いと書かれていたからである。



藪伊豆総本店の歴史は古く、天保年間(1830〜1843)の初めに京橋で既に繁盛していたという記録がある老舗である。ただ、コロナ禍にあってお昼もあまり混雑はしていない。

2階に行くよう促され、席につく。コロナ対策は万全で4人席の真ん中にはアクリル製の屏風状の仕切りがされている。メニューを見た上で『玉子とじそば』(950円、税込)をお願いする。

出されたお茶が温かいそば茶でホッと落ち着く。出された玉子とじそばを見ると、戦車氏が言うとおり、三角に切った海苔の上に蒲鉾が怒った目のように切られ、思わず笑いそうになる。

まずは汁を一口、カツオと昆布の出汁がよく香って美味い。蕎麦は石臼で引いて手こねした丁寧な仕事が分かる。蒲鉾から頂くが、これも流石に高いものを使っている。高松との価格差も納得がいく。ただ、この盛り付けがなぜ怒った顔なのかはついに聞かずしまい。

途中からおろし生姜を加えると味も変わり、身体が芯から暖かくなる。海老天の入った蕎麦もいいが、まったりと玉子とじ蕎麦を啜るのも一興である。ご馳走さまでした。

高松
中央区日本橋堀留町1ー4ー16
0336611484

藪伊豆総本店
中央区日本橋3ー15ー7
0332421240

久我山散歩②

2021-01-28 05:00:00 | 日記
『久我山散歩』その2。久我山墓地から“うえみち”まで出てまっすぐ高井戸方向に歩く。美味しいパンで有名なLapinの向かいあたりに馬頭観音の石碑を見つける。

観音様が彫り込まれたものではなく、三角の石に『馬頭観音』という文字が刻まれていて裏に回ると『小作伊乃松、明治36年9月』とある。小作(こさく)家は秦家、大熊家と並んで久我山の地主の家系である。


当時は馬が大切な交通手段でその安全を祈念して作られたものだろうか。

まっすぐ行くと右手に細い坂、『かさもり坂』と標識がある。この坂はうえみちと馬車道を繋ぐ古い道であり、『笠森稲荷の前の坂』と書かれているが、肝心の笠森稲荷がない。



しばらく探し回ると坂の上、右側の大きな家(小作家)の庭に稲荷神社に特有の朱の鳥居が微かに見える。屋敷の中の稲荷のようである。

もう少し歩くと鋭角に人見街道と交差するが、ここに庚申塔がある。人見街道と“うえみち”が分岐するY字路に塔は作られていて、かなり見にくいが向かって左の側面には『これよりひだりふちう三ち』(これより左は府中道)、右の側面には『これよりみぎ、いのかしら三ち』(これより右は井の頭道)と彫られている。



建立も1722年と杉並区内では最も古い道標付庚申塔で区有形文化財に登録されている。



人見街道を反対側に渡ると奇妙な形で置かれた観音様、その前に幾つか石仏があるが、よく分からない。『本廟本願寺久我山教会』とあるだけだが、詳細は分からなかった。



いつも何気なく歩く久我山も丁寧に見て歩くと仏様や庚申塔など興味を覚えるものも発見できた。これが散歩の妙味である。

さよなら『らーめん さくらい』

2021-01-27 05:00:00 | グルメ
吉祥寺サンロードのファミリープラザという古ぼけたビルには地下食堂街があるが、その中でも最古参の『らーめん さくらい』が50年の幕を1月末で下ろす。1970年創業のこの店は私の相方が高校生の頃からあったらしく、私もかれこれ20年近く通っている。うちの相方はいつ行っても『たんめんね!』とおじさんに言われて嫌がっていたが。以前に伺った際にアド街の撮影をやっていたことも懐かしい思い出。



とにかく全てが昔風、名物は餃子、タンメン、チャーハン、味噌ラーメンとたくさんあるが、私の一押しはパラパラではないチャーハンである。もうあの味が楽しめなくなるかと思い、行ってしまった。

タイミングが悪く、18時半閉店の時短営業のため、急いで行くが、閉店を知った近所の住人が大挙して押しかけている。着いた時には待つために置かれた椅子が全て埋まっていた。

予め注文を取りに来るが、チャーハンも餃子も食べたい。しかし、ラーメンも捨てがたいと考えてメンズセット(醤油ラーメン、餃子3個、小チャーハン、税込1200円)をお願いした。
待つこと15分、1人なのでカウンターは如何と聞かれて座る。1つとばしなので間隔も開いている。中では顔見知りのおじさん2人が必死に注文をこなしている。

1分でチャーハンと餃子は到着。まずは餃子から行くが少し時間が経過していて熱々ではないが、ニンニクの効いた懐かしい味はやはりいい。



チャーハンは焼き豚、ナルト、ネギ、玉子の入ったオーソドクスなもの。しかし、しっとり系で胡椒を振って頂く。これだ、これ、という味に感激。

ラーメンも次いで到着。スープから頂くが普通の醤油ラーメン、特徴はうずら卵が1つ入っているくらい。しかし、ワカメもメンマもたっぷり、それに細めの縮れ麺が食べやすい長さであるところもいい。

この3つ、特に凄いものではないが、食べてほっとする味わいである。帰るお客さんが次々と中のおじさんたちに挨拶するが、またねではなく、お元気でねというところが寂しい。いつものように美味いチャーハンを頂き、長年にわたりご馳走さまでした。

31日までの営業だが、ちゃんと50円の割引券も頂きました。お店の皆様お元気で。
(もちろん以前に貰った分も使いました)

らーめん さくらい
武蔵野市吉祥寺本町1ー9ー10 B1
0422228696

都会の小さな町めぐり〜新宿区編⑥

2021-01-26 05:00:00 | 日記
『都会の小さな町めぐり』新宿区編⑥。新小川町から大久保通りを後楽園駅方面に歩くと緩い坂。

しばらく行くと6叉路となるが、これが筑土八幡町交差点である。交差点の手前の民家には『筑土八幡町』一番地の表示板。

筑土八幡町はその名前の通り、筑土八幡が町の中央にあり、この部分は高台となっていて関東管領・上杉時氏が筑土城を形作っていたと言われる。現在566世帯、906人の人が居住している。

大久保通りの反対側は『津久戸町』となり、読み方は同じだが表記の仕方が違う。これはかつて筑土八幡が平河町にあり、周辺を津久戸村と称していた。その後、この地に神社は移転し、筑土と表記を変えたが、津久戸村(町)は従来の表記を踏襲したものという。



2番地には熊谷組本社があるほか、東京新宿メディカルセンター、津久戸小学校があるものの、住民は僅か69世帯98人のみである。



大久保通りに戻り、左に曲がる。かなり古くからあると思われる材木商や今はバー椿々というバーになっている古民家など味わいがある建物も残っている。



次の信号あたりからが『白銀町』となる。白銀町とは美しい名前であるが、慶長年間に江戸城改修のため、田安付近の貧民を幕府が移転させ、開創したが、その際に芝白金に居住していた白金長者(柳下氏)に肖りたいとして付けた名前と言われる。



この町も小さいが、マンションが多く建設されている。瓢箪坂という真ん中が窪んだ坂の上には白銀公園というこの周辺では珍しく施設が整った大きな公園で都会のオアシスとなっている。






しぶそばでコロッケそばを頂く

2021-01-25 05:00:00 | グルメ
『日本そばにこだわる』8杯目の続き。銀座のよし田で元祖コロッケそばを頂き、さらにどんどんでコロッケうどんも食したが、やはりちゃんとコロッケそばを食べなければと街中の蕎麦屋を探す。しかし、意外にないのである。

それなら立食いそばをと、二子玉川駅構内のしぶそばにお邪魔した。以前私鉄の駅そばの比較をした際にここと京急の蕎麦屋は味もサービスも良かったので安心して入店。




この店は券売機はなく、入口でオーダーして奥の窓口でそばを受け取る仕組み。当然、コロッケそば(420円)を注文、すると店員さんから『コロッケは入れていいですか?別盛りにしますか?』と聞かれる。面倒だから入れてくれるようにお願いする。

席に座って七味を振り頂くが、ワカメもたっぷり乗せてくれたのが嬉しい。ワカメそばで味わい、コロッケに向かうと少しふやけて撮りにくいのである。下手な箸を駆使して端から割りながら頂くが、ちゃんと肉も入っていて甘いながら旨味もある。やはり普通のポテトコロッケも蕎麦にはよく合う。

蕎麦はいわゆる茹で麺だが、喉越しがいい。また、お汁はあまり辛くなく、好みである。かき揚げの方が油が染み出してよりボリュームがあるが、コロッケはさっぱりしていてこちらも捨てがたい。ただ、あまりふやかし過ぎると食べにくいが。ご馳走さまでした。

しぶそば二子玉川店
東急田園都市線二子玉川駅構内1階
0364310562

久我山散歩①

2021-01-24 05:00:00 | 日記
『久我山散歩』その1。非常事態宣言が再び発出され、『hokutoの気まぐれ散歩』もいよいよピンチ。散歩と言っても遠くに行く訳にいかず、久我山あたりをウロウロすることくらいしか浮かばない。

取り敢えず我が家から久我山駅に向かう途中を左に曲がった所に『久我山墓地』があったことを思い出し、向かってみる。するとあるお宅の前を通った際に上から見下ろされている気配がして、右上を見ると給湯器の上に白黒の猫がちんまりと座っている。

この猫比較的大きいのだが、ちょうど給湯器のサイズにぴったり、しかも私が写メを向けても動かない。

その突き当たりに『久我山墓地』はある。立て札によるとこの隣地に明治初期までは光明寺という寺があったが、廃仏毀釈で廃寺となり、墓地だけが取り残されたらしい。

墓地の入り口に地蔵堂があり、奥には4基の石仏が並んでいる。杉並区の登録文化財となっており、左側から舟形の地蔵菩薩立像、1665年11月に造営されていて庚申塔でもある。

お隣の地蔵菩薩立像は1719年11月造立、願主は久我山村の大熊喜右衛門である。その隣も地蔵菩薩立像で1708年11月造立、施主は蔵本左兵衛。右端は聖観音のもので1670年造立、いずれも江戸時代のものだが、これらは久我山のあちこちから移されたものといわれている。さらに小さめの六地蔵がならんでいるが、これが通りの名前になっている。

久我山は昔、『久ヶ山』ともいい、『くが』は空閑地・空き地を表していて江戸時代から1889年までは久我山村は存在した。この村の各地にあった石仏をここに集めたものなのだろう。(その後、1889年の町村制で東多摩郡高井戸村に併合、大字久我山となったが、1932年に東京市に編入され、杉並区ができると久我山1〜3丁目(旧)となったのである。)(以下、次回)

たぬきとむじな

2021-01-23 05:00:00 | グルメ
『日本そばにこだわる』9杯目。今回は『たぬきとむじな』という題で考える。関東でたぬきそばというとかけそばに揚げ玉(天かす)を乗せたもので蕎麦屋では一般的にかけそば・もりそばに次いで安いメニューである。

揚げ玉も天ぷらを揚げた際の副産物を入れている店が多いが、中にはたぬきそばのためにわざわざ揚げ玉を作っている店もある。人形町の老舗の蕎麦屋である東嶋屋もそんな店の一軒。

たぬきそばを注文するとかけそばの上に小松菜、ピンクの麩、蒲鉾が乗って来て、山盛りの『揚げ玉』。

よく見ると中に桜海老の姿が確認できる。この揚げ玉がサクサクで海老の香りが素晴らしい。これで650円は大変有り難い。

翌日には同じ東嶋屋に行き、今度はむじなそばを頂く。むじなそばとはと思って注文するとかけそばの上にほうれん草、ピンクの麩、蒲鉾に加えて細かく刻んだ油揚げと例の揚げ玉が乗っているではないか。

『きつね』と『たぬき』が同居すると『むじな』になるらしい。ムジナという動物の正体はアナグマやハクビシンを指すらしく、さらにタヌキと同じ巣穴を使うこともあるため、『同じ穴のムジナ』と言われるようになったとか。

そばの方はきつねそばもたぬきそばも楽しめ、ツユにもその味が溶け出して中々美味いものとなっていた。因みにたぬきそばが650円、きつねそばは700円、むじなそばは750円である。ご馳走さまでした。

東嶋屋
中央区日本語人形町2ー4ー9
0336666964

都会の小さな町巡り〜新宿区編⑤

2021-01-22 05:00:00 | 日記
『都会の小さな町めぐり』新宿区編⑤。この企画も昨年3月以来だから本当に久しぶり。今日は飯田橋駅から外堀通り、新目白通り、大久保通りと歩きながら小さな町を巡る。


神楽坂のいちばん底にあたる場所からスタート。大きな餃子で有名な神楽坂飯店の前を通過、軽子坂を境に住所は『神楽坂1丁目』から『揚場町』となる。



『軽子』とは縄で編んだもっこを使い荷揚げする人のこと。飯田濠には船着場があり、船荷を荷揚げする軽子がこの辺りに多く住んでいたため付けられたものである。また、揚場町とは同じく荷揚げをする場所だったことに由来する。

現在では54世帯105人と小さな町で、町の名前が残っているのは『揚場ビル』という名前くらいしか見当たらない。揚場町1番地はSMBCのビルあたりだろう。

そのまま大久保通りを渡ったあたりが『下宮比町』、下宮比町があれば上宮比町が気になってしまうのだが、1951年の町名改訂の際に上宮比町は神楽坂4丁目と変わったのである。



また、この町の名前を見たことがある方もいると思うが、飯田橋駅の六差路の歩道橋に付いているからである。みずほ銀行飯田橋支店をはじめとしたオフィスビルが殆どだが一本奥に入ると雰囲気のある居酒屋(三州屋)も現在である。

すぐに新目白通り、左に歩くと大久保通りがさらに左に分かれていくが、手前が『新小川町』1番地、大久保通りを挟んで2番地となっている。



町の由来は1658年に白鳥池を埋め立て、神田小川町の住人を集団移住させたことによる。

大久保通りを渡り左に歩いて行くとすぐ右手に小さな公園、新小川公園がある。また、住居表示していないにも関わらず、区作成の町名表示板がある。(以下、次回)