hokutoのきまぐれ散歩

ブログも11年目、遂に3900日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

稲付城址を歩く

2023-10-24 05:00:00 | 城と城址
『関東城址めぐり』その10。今回は稲付城址を歩く。JR赤羽駅東口からイトーヨーカドーの方に歩き、5分ほどのところを右に曲がると稲付城址にもう到着する。



この城は太田道灌が築城したもので石段の下には『都旧跡 稲付城跡』とある。ここから50段ほどの石段を登ると静勝寺の山門の前に出る。



このお寺は太田氏の菩提寺である。ただ、道灌が築城したかは確たる証拠はない。ただ、太田道灌の子息である太田資康・資高父子が在城していたことは『小田原編年録』に載っている。



その後、太田資高は江戸城主になるが、上杉氏から北条氏に寝返り、北条氏を江戸城に招き入れた。

石段を登り、山門をくぐった右側に大きな石が5つ置かれているが、これは1987年に大規模な発掘調査をした際に出てきた遺構の一部が残されている。



また、境内に入ったすぐ左側の植え込みとの間には段差がある。これは土塁の跡のようだが、残念ながら中には入れない。



突き当たりにあるのが、道灌堂。この中には太田道灌の木像が置かれている。毎月26日には公開されるようである。

静勝寺の縁起は雲綱和尚(道灌の師)が稲付城の一部に1504年道灌を弔うために道灌寺を作ったと言われていてその後自得山静勝寺と改めた。



道灌堂のお隣には弁天堂、さらに本堂がある。境内には大きなイチョウや松などがあり、駅至近にもかかわらず、静けさに包まれたお寺にはぜひ足を運んで頂きたい。ただ、城探索としては空堀など遺構もあまり見つからず、単なる小高い丘ということしかわからなかった。



道灌堂の横にもう一つの出口があり、これを左に曲がると『稲付城跡の坂』となる。S字にくねくねと曲がった坂で降りると石段の下に出る。



坂の下から眺めてもやはり城址の跡はよくわからなかった。





外堀沿いに歩く③〜市谷見附と四谷見附

2023-05-27 05:00:00 | 城と城址
外堀通り散歩③、市ヶ谷橋を登って行くと市ヶ谷駅がある。江戸城の市ヶ谷見附の枡形門はこの交差点辺りにあったらしい。


ただ、今はその跡形もなく、傍に市ヶ谷門跡の説明板が置かれているのみである。

それによると市ヶ谷門は1636年に現在の岡山県にあった美作津山藩主森長継によって建築されたものである。

また、この石垣の一部は先ほど通ってきた市ヶ谷フィッシングセンター駐車場横に残されている。(写真右手の石垣)



再び坂を降りて外堀通りを行くがここから先は市ヶ谷濠、地図で見るとよく分かるがこの先は細くなっていて、三角定規の先端のようになっている。



市ヶ谷濠の先端部を写メで撮ろうととしたが、濠の周りの木は葉が繁り、うまく撮ることが出来なかった。



市ヶ谷濠の先は真田濠があったのだが、埋立られ、公園が整備されていて野球場やテニスコート、児童公園などになってしまっている。公園の向こうには線路があり、時折、中央線のオレンジの電車が通るのが見える。



最後は坂道になって登って行くと、広い通りに出て左折。少し登ると右側に四ツ谷駅。その向かい側に小高く積み上げられた石垣がある。説明板はないが、間違いなく四谷見附の門の遺構である。
(最初の写メ)



四ツ谷駅構内に入ると『四谷門と玉川上水』の説明板がある。



江戸時代に敷設された玉川上水は四谷大木戸まで水を運び、ここで地下に埋設された木樋や石樋を通り、江戸城に給水したのである。今でこそ上水道は当たり前にあるが、江戸時代からここまで整っていたとは、さすがに江戸が世界一の大都市であったことがよくわかる。






外堀沿いに歩く②〜市ヶ谷と釣り堀

2023-05-04 05:00:00 | 城と城址
外堀通り散歩②、外堀通りを市ヶ谷方向に歩く。左側には中央線や総武線の電車が行き来するのがよく見える。



すると新見附という信号が出てきて左に坂を登ると橋が見える。



『見附』は江戸城の見張り場を言うが、ここには外堀を渡る土橋(新見附橋)は江戸時代にはなかった。この橋ができたのは明治中期、旧麹町区と旧牛込区の往来の利便性を考えて埋立られたものである。このため、新見附橋のすぐ横には堰が設けられているのがわかる。
また、歩道沿いにはツツジがさきみだれていて、法面は綺麗に草が刈られていて美しい。



新見附橋の先の濠が新見附濠となる。また、新見附橋の横には左書きの『東京市 外濠公園』の文字、公園は土手沿いに続いている。



私は坂を降り、再び外堀通りを歩く。土手のソメイヨシノにはまだ少し花が残っていて可愛らしい。


市ヶ谷駅手前には有名な市ヶ谷フィッシングセンター、市ヶ谷駅ホームからよく見える釣り堀である。天気も良いから釣り客も多いが、少し見ていると意外によく釣れる。



その横にある赤い橋は市ヶ谷水管橋、1929年に作られた水道管専用の橋で人は通れない。

人が通れる方が市ヶ谷橋、坂の上には市ヶ谷駅がある。市ヶ谷橋から振り返ると飯田橋まで見通すことができる。飯田橋〜市ヶ谷間は1.5km、あまり知られていないが、この間をJR総武線はもちろん、東京メトロ有楽町線、同 南北線と3線とも違う線路を走る路線がある。(以下、次回)





志村城址と周辺の坂道を歩く

2022-09-17 05:00:00 | 城と城址
『関東城址巡り』その9。志村城址を歩く。志村周辺の坂巡りで馬の鞍の坂を登り、左に曲がる。目の前に志村小学校・志村熊野神社への道標が現れる。

これに従い、坂を上り、左に行くと志村熊野神社の前に出る。さらに先に行くと志村小学校の正門前を通り、下り坂が現れるがこれが『城山の坂』である。



再び坂道を上り、熊野神社の中に入る。鳥居をくぐると左側に『志村城跡』の石碑がある。



説明板には『志村城は志村氏により築城されたと言われる中世の城館である。1456年に千葉自胤が赤塚城に入城した際に一族の千葉信胤が入城して拠点となった』とある。



その後は1524年北条氏綱に攻められ落城、その後は後北条氏が支配。その後の経緯は分からないが小田原城攻め後には廃城となったのであろう。



熊野神社は二の丸跡に建立されたものである。参道の奥には立派な本殿があり、横には絵馬堂がある。説明板によると中には伊勢大々神楽奉奏の様子を描いた1795年の大絵馬(110.5cm×121cm)など絵馬82枚が今も奉納されている。境内は広く、幼稚園も併設されている。



本殿の奥は自然林として残されている。木の間を縫って奥に進んだが、木には大量のセミが競い合うように鳴いている。私が足を踏み込んだ瞬間驚いて蝉が10匹以上が飛び立ち、中には私にぶつかるもの、私の服に留まるものもいてこちらの方も驚かされた。



駐車場から周り、境内を出ると志村城址公園の前に出る。淵を回るように坂道があるが、これが『志村城址の坂』である。下には遊具が置いてあるが、かなりの標高差がある。



坂を降りた後に城址を見上げたが、自然をうまく利用した城がここにあったことを実感することができた。(写メでは木が茂りすぎて山の形が分かりにくい)



都営住宅の脇を抜けるとすぐに都営地下鉄志村三丁目駅、ここから先、高島平方面は地上駅である。




深大寺城址を歩く

2021-10-06 05:00:00 | 城と城址
『関東城址めぐり』その8。今回は深大寺城址をめぐる。坂めぐりで深大寺にやって来たが、ここにも城址がある。不動の滝の向かいあたりにある水生植物園にまず入る。



深大寺城は15世紀には『ふるき城』が築かれていたという記録もあり、北条氏が相模国に進出した際に扇谷上杉氏が防衛ラインとして活用していたようで1530年には上杉朝興が北条氏康と戦った小沢原の合戦となった。北条氏を多摩川で食い止め、江戸城奪還を図るため、息子の上杉朝定は難波田弾正広宗に命じて深大寺城の増築を行った。しかし、1537年7月北条氏郷は深大寺城を迂回して河越城を攻めたため、上杉朝定は松山城に敗走、深大寺城の軍事的意義は無くなり、廃城になったと思われている。



水生植物園は無料で入ることができるエリアで南北300m、東西60mあり、元は休耕田であった。小川や池もあり、トンボもたくさん飛んでいた。湿地ではガマの穂を久しぶりに見かけた。その先の橋を渡ると目の前が小高い丘のようになっていてこれを登る。



すると雑木林の中が開けており、広場を回るように歩くことができる。3つの城郭があるが、そのうちの一つであり、地図には第一郭となっていた。



その先には虎口、さらに空堀が南北に伸びいるのがはっきりとわかる。そして第二郭へと続く。



ただ、ここから上ははっきりとした道がない。そのまま行くと地元の小学生が管理する蕎麦畑に出る。



今年の1回目の刈り取りは終わり、2回目(11月)に向けた蕎麦が20cmほどに伸びていた。

芙蓉の花が咲き3時を過ぎてもまだツクツクボウシが鳴いていたが、次第にひぐらしの声に変わった。




小田城址を訪ねて

2021-07-14 05:00:00 | 城と城址
『関東の城址巡り』その7。土浦まちかど蔵を自転車でスタートして1時間20分、ようやく小田城址に到着する。




小田城は鎌倉時代末期に八田知家によって築かれたが、その後、小田姓を名乗り、小田城は小田家の居城になった。南朝で主導的な立場に就く北畠親房は佐竹氏に攻められ、小田城にいた事もある。しかし、小田氏は佐竹、後北条などの戦国大名との戦いが続き、15代氏治の際に手這坂の戦いに敗れ、佐竹氏の配下となった。さらに1602年に佐竹氏が秋田へ国替えになると、小田城も廃城となった。


復元した小田城の本丸跡は28m以上の堀に囲まれた南北145m、東西130mの長方形の形をしている。





初めに自転車を止めたあたりが馬出口、階段を登ったあたりが出入口(虎口)である。他に出入り口は2ヶ所、東曲輪と橋で繋がっているのは東虎口である。



本丸跡は真ん中にあり、城主の館などが集中していたと思われる。しかし、残されたものは石垣と堀くらいでドローンなどを使い、高い空から全体を見てみることができると良いと思ったる



暑く、強い日差しの中で用意した飲み物が底をつき、足も痛くなる。しかし、四阿の中は風も爽やかな風がとおり、ホッと一休み。他に誰も来ない中、戦国時代の小田城を彷彿することができた。

小田城址歴史ひろば
つくば市小田2377
0298674070

土浦城(亀城)を散策する②

2021-06-29 05:00:00 | 城と城址
『関東の城址巡り』その6。引き続き土浦城を巡ってみる。再び太鼓櫓から一の丸に入り、奥をみると木がこんもりとしているが、これが土屋神社。さらに東櫓の反対側にあるのが『西櫓』である。

(西櫓)

西櫓は明治以降もそのままの姿を残していたが、1949年のキティ台風で大きな被害を受けた。やむなく、将来の立て直しを前提に一度取り壊されたが、市民からの資金供与もあり、1992年に保管されていた部材を使い、再興されている。

西櫓から外に出ると立派な土浦市立博物館がある。中に入ると一階には刀剣や具足、兜などが並んでいる。



その中に五代将軍綱吉から拝領した自筆の馬の絵が飾ってあり、興味深かった。以前に同じく綱吉の書いた兎の絵を見たことがあったが、こちらの方が上手い気もする。



2階には土浦周辺の勢力分布や宗教などについて書かれたコーナーなど興味深いが、土浦城の再現模型もある。これを見ると確かに周りに堀が回らされ、その中に3つの櫓を備えた平城だが、それ以外は屋敷が立ち並んでいた模様がよくわかる。



さらに二の丸が広々としていて城の規模は今に比べかなり大きかったようである。今までに随分多くの城と博物館を巡ってきたが、近年丁寧に見て歩くとその面白さがよりわかるような気がする。



再び東櫓に戻り、中に入る。新しく復元されたとは思えない緻密さで建築されている。2階に登り外を見ると土浦を一望できる。天守のない城のため、ここからの眺望が1番いい。






土浦城(亀城)跡を散策①

2021-06-23 05:00:00 | 城と城址
『関東の城址巡り』その5。今回は土浦城を巡ってみたい。茨城県南部に位置する土浦は城下町であり、駅から2キロほどのところに亀城公園という城址公園がある。



公園にも付いているとおり、通称『亀城』の名前で親しまれているが、堀の中に浮かぶ姿が亀のように見えることからついた名前である。

普通に城というと堀と石垣に囲まれ、門の中に天守を持つイメージを考えてしまうが、土浦城は天守が元々ない。

土浦城の歴史は平安時代に平将門が砦を作ったのが最初とも言われてはいるが、確かな証拠はない。文献が残されているのは1430年頃に地元豪族小田家の若泉三郎が築いたとされ、これを1516年小田家の武将・菅谷勝貞が滅ぼし、その後は3代に渡り、菅谷氏が統治した。

その後、佐竹氏の勢力拡大により小田城を追われた小田守治が城主となったが、土浦が結城秀康(徳川家康の次男)の領地となると小田氏は家臣となり、秀康が越前に転じると多賀谷氏、さらに松平信吉、その後西尾氏などたびたび城主は変わったが、江戸時代に入り、長く土屋氏が治めた。

亀城公園を入ると小さな太鼓橋があり、すぐに霞門がある。小さな門ではあるが、この門と太鼓櫓門は江戸時代よりそのままの形で残されている。

(東櫓)

入るとすぐ左側にあるのが『東櫓』、立派な櫓ではあるが、実は1884年に一旦撤去されたが、その後1998年に復元したものである。

(太鼓櫓)

東櫓の前は大きな広場のようになっていて左側に『太鼓櫓』、前方に『西櫓』が残されているが、『本丸御殿』は1884年に焼失している。

太鼓櫓から外に出ると二の丸となっている。ただ、ここにあった建物も既に失われていて顕彰碑などがあるばかり。小さな動物園には猿が飼育され、その前には小さな池があり、地元の人から大切に守られている。


ただ、かつてのことを知っているのは片隅に植えられている樹齢500年を超えるシイだけである。(以下、次回)

鉢形城址を巡る②

2021-04-19 05:00:00 | 城と城址
『関東の城址めぐり』その4。鉢形城の続き。鉢形城歴史館に戻り、館内を巡る。鉢形城は日本百名城の一つ、元々築城したのは関東管領山内上杉氏家臣である長尾景春と言われ、これを文明8年に後北条氏北条氏直の四男である北条氏邦である。後北条氏にとっては上野国支配や信濃・甲斐などからの侵攻を抑える役目を果たした。

歴史館の一階にはそうした歴史上の出来事と鉢形城の位置、周りにあった他の城の話などをパネルにして展示してある。

また、鉢形城のジオラマもあり、スクリーンでは鉢形城の歴史、バーチャルで作った鉢形城の中を探検できるビデオも備えられている。先程歩いた場所の位置付けなどがよくわかる。戦国時代のしかも平城のため、実感するのが難しいが荒川側の崖を上手く使い、大手門側には幾重もの畝や土塁を作って城を守っていた状態が理解できた。

さらに別館にはこの地区の埋蔵物を展示するコーナーもあり、呼んだタクシーが来るまで丁寧に見て回った。




鉢形城址を巡る①

2021-04-17 05:00:00 | 城と城址



『関東の城址めぐり』その3。今回は鉢形城址に行くことにした。秩父鉄道寄居駅で下車、南口に降りてはじめは歩いて城址を目指そうとした。しかし、これがかなりの距離と見て引き返し、駅前からタクシー乗車。

鉢形城歴史館と告げるとすぐ車は発車、荒川を越えて上り坂を軽快に走る。運転手さんに聞くととても歩いては行けそうもない。



歴史館の駐車場にはソメイヨシノがたくさん植えられていて満開。しかし、歴史館の開館にはまだ時間があるため、建物の裏にある城址から見て回る。歴史館には地図があるが、かなり分かりにくい。小さな川を越えようと階段を歩き始めるとここがカタクリの群生地。



もう少し時期が遅いかと思ったが、一輪だけ綺麗に紫の花を咲かせていた。鉢植えは見たことがあるが、自生しているのは初めて、美しさにしばし時間を忘れる。



川を越えて広場に出ると氏邦桜と命名された町指定の天然記念物であるエドヒガンザクラの大木の前に出る。盛りは過ぎているが、立派な枝ぶりである。



左右に土塁が築かれていてスミレが群生しており、紫に染まっていて、また、土塁や畝が作られ、道が狭くなっていて平城の址とよくわかる。



まず、左に向かうと城山稲荷神社の鳥居、これを潜ると小さな祠があるが、この辺りが二の曲輪になる。もう少し先に行くと馬出(うまだし)や復元された、四脚門などがあるが、戻る時間も考え、本曲輪に向かう。



今度は少し戻り、シルバー人材センターの前を左に向かうと伝御殿曲輪、さらに階段を上がると本曲輪となる。

かなり高くなっていて先を見ると眼下に荒川の流れを見ることができる。多分、荒川の流れとその崖を使い、城を守ろうとしたことが良くわかる。



戦国時代にこれほどの規模の城や堀、畝、土塁などを築いた先人の力に驚く。そして再び歴史館に戻った。(以下、次回)