コザ騒動」が伝える精神 週のはじめに考える (2020年12月20日 中日新聞)

2020-12-20 11:22:36 | 桜ヶ丘9条の会

コザ騒動」が伝える精神 週のはじめに考える

2020年12月20日 中日新聞
 コンビニや眼鏡店に交じってシャッターを下ろした空き店舗も。どこにでもある地方の街の風景。ただ、間を貫く片側二車線の広い道路がこの街の成り立ちを物語っています。米軍統治下に開設された旧・軍道24号。五十年前の一九七〇年十二月二十日未明、沖縄県コザ市(現・沖縄市)のこの道路で「コザ騒動」が起きました。
 「革命が起きた、と思って家を飛び出した」。近所に住んでいて騒ぎを目撃したという沖縄市観光物産振興協会の認定ガイド、古堅宗光(ふるげんそうこう)さん(73)は、騒然としたその夜を振り返ります。

沖縄は激動のさなかに

 「アメリカーや、沖縄人を虫けらみたいに扱いやがって、思い知れ!」。騒動は、酔っぱらい運転の米兵の車が横断中の住民男性をはねて負傷させたのが発端。付近の繁華街から集まった民衆が事故処理に当たった米軍憲兵隊に怒声を浴びせ、その車両や通りかかった米国人車両への放火、投石に発展しました。民衆の一部は約五百メートル西の米軍嘉手納基地に突入し、建物に火を放ちました。
 六時間余りの後、騒ぎは米軍鎮圧部隊と人々との衝突寸前に収束に向かいます。参集した民衆は約四千人、八十八人が負傷し米軍発表で八十二台の車が焼けました。
 「歩道の敷石が簡単に剥がせたからそれを投げたり、バーの軒下にあるビール瓶と給油所から手に入れた油で火炎瓶を作ったり。たまたま“凶器”が近くにあって騒ぎが大きくなった」
 こう説明する古堅さんが、続けて誇らしげに強調するのは「組織的でなかった、死人がなかった、略奪がなかった」こと。
 地元では事件を「コザ暴動」と呼ぶものの、琉球新報など県紙の報道は「コザ騒動」。沖縄の識者は「コザ反米軍市民蜂起」と定義すべきだと主張しています。
 太平洋戦争末期の沖縄占領と同時に始まった米軍統治はその時、既に二十五年に及んでいました。ベトナム戦争が泥沼化していたころでもあり、出征、帰還兵は歓楽街に繰り出して大金を使いながら酒や薬におぼれ、犯罪、事故を繰り返す。ただ、当時の琉球警察にはまるで権限がなく、憲兵も捜査に不熱心だったため検挙率は半分以下。暴動の直前には、現在の糸満市で主婦が轢殺(れきさつ)された交通事故の加害兵を米軍法会議が無罪とし、県民の憤りが沸騰しました。
 また前年には、日米政府間で基地を残したままの七二年沖縄返還が決まり、米軍は雇用住民を大量解雇。ストやデモが繰り返されていました。コザ近くで兵器用毒ガスが漏れる事故もありました。

ことさら問題視はせず

 米国憲法も日本国憲法も適用されない沖縄の人たちが、甚だしい人権侵害に遭っていたのは事実です。コザで起きたのは鬱積(うっせき)した不満の爆発に違いありません。
 が、民衆は無意識のうちに「秩序」や「理性」を保っていた。怒りは黄ナンバーの米国車両に向かい、米国人には向かわなかった。放火する車は延焼を避けるため、道路の中央に運ばれました。
 返還前の政治配慮か、米側にも事件を過大視する姿勢はなく、軍政府は琉球警察に逮捕者への厳罰を求めなかったともいわれます。
 燃やされた車に冗談めかして「FOR SALE(売り物)」の張り紙をした米国人も。基地では翌日から、雇用住民が普通に米兵と一緒に仕事をしました。
 社会学者の石原昌家・沖縄国際大名誉教授(79)は、事件を「沖縄人が人間としての誇りを取り戻した日」と総括します。耐え難い屈辱への反発を支配者に一瞬、形にしてみせた。無論、暴動や騒動ではなく「政治的メッセージ」だったと。
 沖縄での米軍関連犯罪は、県の調べで今も年に数十件起きています。軍用機事故も多発。しかし、暴動と呼ばれるような抗議はコザでの一度だけ。代わりに、県民は選挙や県民投票の民主的行動で辺野古新基地をはじめとする基地の縮小や、米軍の特権を認める日米地位協定の改定を求めています。

固定観念を排する精神

 古堅さんは、沖縄市を訪れる修学旅行生に「コザ精神」を説いています。その心は「人をイコールで見ない」。米国人だから、日本人だから、肩書が立派だからこういう人…と、固定観念でとらえず共存を図ることなのだそうです。
 嘉手納基地に続く通称・ゲート通り。往時のにぎわいはないながら、今でも夜にはバーの英字看板の下、大柄な米兵が日本人女性らを交えて酒を楽しんでいます。健全な社交風景は市民も尊重し、観光資源化の動きすらあります。
 米軍専用施設の七割が集中する沖縄の、基地の「門前町」が身に付けた生き方です。しかし、それは基地を無条件で受け入れることを意味しません。日米同盟を支持する大多数の国民は、そのことに早く気付くべきでしょう。