「改革」の影を直視して 平成と政治(2019年1月5日中日新聞)

2019-01-05 09:45:58 | 桜ヶ丘9条の会
「改革」の影を直視して 平成と政治  

2019/1/5 中日新聞
 政治改革の時代でもあった平成。たどり着いたのは「安倍一強」でした。改革の針路は正しかったのか。誤りがあれば、正すのが次の時代の課題です。

 昨年十二月二十六日、安倍晋三首相は二〇一二年の第二次安倍内閣発足から六年を迎えました。

 第一次内閣(〇六~〇七年)と通算した安倍首相の在任期間は、今年八月には戦後一位で安倍氏の大叔父である佐藤栄作氏を、十一月には戦前も含めた歴代一位で、安倍氏と同じ長州(山口県)出身の桂太郎氏(在任期間二千八百八十六日)をも抜きます。憲政史上例のない長期政権です。

派閥政治で汚職が頻発

 振り返れば平成の三十年間は、日本の政治にとって「政治改革」の時代でした。それを迫ったのは昭和から平成にかけて相次いだ政治家が関与する大型汚職事件でした。ロッキード、リクルート、東京佐川急便事件などです。

 その構造的要因と指摘されたのが、一九五五年の結党以来、政権を長年担っていた自民党の派閥政治です。自民党政治の制度疲労と言ってもいいでしょう。

 当時、衆院は中選挙区制の時代でした。一つの選挙区から複数の議員が当選するこの制度で、同じ自民党の候補が、党内派閥の支援を受けて激しく争っていました。

 各派閥は政治力を増そうと、力の源泉となる所属議員を増やしたり、政治工作をするために多額の資金を必要としていました。それが汚職事件につながったのです。

 汚職事件が起こるたびに、政治に対する国民の信頼は失われ、派閥政治への批判が高まりました。

 一九九三(平成五)年の衆院選で、自民党が結党以来初めて野党に転落したのは当然の帰結でしょう。代わりに権力の座に就いたのが、日本新党代表の細川護熙首相率いる非自民連立政権でした。

小選挙区制と政党助成

 細川政権は政治改革を最優先の課題に位置付けて取り組みます。その結果、実現したのが衆院への小選挙区導入を軸とする現行の選挙制度でした。目指したのは政党中心・政策本位の政治、政権交代可能な二大政党制の実現でした。

 一選挙区で一人しか当選しない小選挙区制の下では派閥同士の争いがなくなり、政党が競い合う政策を、有権者が選択する選挙になる。政権交代の可能性が常にあることで政治に緊張感が生まれる、という理屈です。

 同時に導入されたのが年三百億円以上を得票や議席数に応じて各党に配分する政党助成金です。公費を投じることで政治家が資金集めに奔走することなく、汚職などの腐敗はなくなるとされました。

 こうした政治改革の結果、〇九年には自民党から民主党への政権交代が実現し、政権運営に失敗した民主党は自民党に再び政権を譲り渡しました。

 一連の改革で首相を頂点とする首相官邸に権限が集まり、政策決定に大きな裁量権を持っていた官僚に代わり、政治家主導が定着します。悪名高い派閥政治と呼ばれることもなくなりました。

 平成の政治改革が、一定の成果を上げたことは否定しません。

 しかし、その弊害が近年ひどくなっているのも事実です。「安倍一強」の政治状況も、平成の政治改革と無縁ではありません。

 一連の改革で、政策の決定権に加え、選挙での公認や政治資金の配分という政治家の政治生命を左右する権限が、首相を頂点とする政権中枢に過度に集まりました。

 その結果、首相らにはおとなしく従った方が得策との風潮が政権与党、特に自民党議員に広がっているように見えます。

 政権転落の危機感や政権復帰への焦りから、対立する勢力を敵とみなし、過剰に攻撃する風潮も生まれました。国会では、野党が政権攻撃に力を注ぎ、与党は採決強行を繰り返しています。

 熟議を重ね、よりよい結論を導き出すよりは、選挙をにらんで相手を徹底的に打ちのめす。敵か味方かに二分する分断社会が、日本の政界にも押し寄せています。政策本位とはとてもいえません。

 首相自らが対立をあおる言動を繰り返すありさまです。多様な民意を切り捨てることで成り立つ小選挙区制の弊害そのものです。

想定超える人材の劣化

 若手議員を中心に、不倫や金銭トラブルを巡る問題も相次ぎました。指導の一端を担っていた派閥の機能低下も一因ですが、想定を超える人材の劣化です。

 平成の政治改革が始まって二十年以上がたちます。とても政治の進化とはいえない改革の弊害があるのなら、目をそらさず、改善策を考えなければなりません。

 首相は自民党総裁としてその議論の先頭に立つべきです。自身が目指す憲法九条改正より、よほど重要なことではないでしょうか。