日比谷同友会 こぶし会

日比谷同友会 サークル活動

第365回こぶし会例会報告(平成29年3月27日)

2017年04月07日 | こぶし会のご紹介

話題1. 大いなる幻影・「聖徳太子」   中尾昭二

 「聖徳太子」は「大いなる幻影」である。「聖徳太子」が最も活躍したのは、推古天皇(第33代、在位592~628)の治世であるとされている。日本最古の歴史書である[日本書紀」によると、「元年四月十日に厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とし摂政とした」と記している。そして、この「厩戸皇子」が推古天皇より2代前の用明天皇(31代)の第2子で生まれつき極めて聡明であった例証を幾つか上げたのち、皇居の上殿に住んだので、「上宮厩戸豊聡耳皇子命太子」と呼ばれたことを細字で注記している。                                  以後、推古二十九年二月に厩戸豊聡耳皇子命が斑鳩で薨去するまで、常に「皇太子」として標記されていて、以外にも「聖徳太子」という名称は、表立って記されておらず,専ら「皇太子」であり、或いは「厩戸皇子」である。                                        もし聖徳太子という荘厳な呼び名が、生前あるいは没後にでも、宮廷人の間によく知られていたのなら、はっきりと表記されたであろう。元関西大学教授、故・谷沢永一は、「聖徳などという古今に例のないこの崇敬名称を本伝ともいうべき推古紀に、一体どうして記さなかったのか」と怪しんでいる。                                                    「厩戸皇子」の主業績として、「冠位十二階の制定」や「憲法十七条の制定」が挙げられているが、何れも使われた用語に後世のものが混じっていて、時代に合わない。又「日出ずる処の天子云々」の使書を「随」へ出したのは「聖徳太子」だという俗説は、全く成立しない誤りで、皇国史観の「申し子」であったことが判明している。                                日本書紀の構想には、7世紀末から8世紀にかけて活躍した藤原不比等の影響が色濃く反映されている。推古紀に限ると、当時の実状は「蘇我王朝」だったとする歴史家がいる程「蘇我馬子の全盛時代」だった。蘇我氏の業績を「すり替え」るべく、天皇家の「厩戸皇子」という天才を創出したのは不比等だったであろう。                                     「厩戸皇子」が聖人化されて「聖徳太子」となって行く過程には法隆寺の僧・行信(?~750)が大きく関与している。彼は、初め元興寺で法相宗を学び、後に法隆寺に専住した。律師となった行信は、時の最高権力者である光明皇后の知遇を得て、天平十年に法隆寺の修造を完了した。その間、彼は「聖徳太子の遺品」なるものを大量に探しだして法隆寺に寄進し、「厩戸皇子の聖人化」に大きな功績を遺したのである。恐らく、「聖徳太子」という称号は、この時代に作られたと思われる。しかし現代では、これらの「遺品」はすべて「厩戸皇子の時代」のものではないことが、立証されている。                            以上を総括すると、「聖徳太子」の姿はすっかり霞んでしまう。「聖徳太子」は大いなる幻影である。宗教界には、確かに「聖徳太子信仰」があり、その教団組織も存在する。しかし、人文科学の一分野である「歴史学」は、「信仰の世界」からきっぱり袂別しなければならない。

話題 2.    プーチンの実像(続)ープーチンの驚くべき出世ー    山根信義

 東ドイツ、ドレスデンのKGBの支部に約5年間勤務したプーチンは生まれ故郷のレニングラード(1991年サンクトペテルブルクに改称)に1990年に帰った。ここでプーチンは政治家としての第一歩を踏み出した。                                      サンクトペテルブルクでは、プーチンはサプチャーク市長の片腕としてばりばり働いた。そのサプチャークが1996年の市長選でプーチンの同僚だった第一副市長ウラジミール・ヤコブレフに僅差で敗北した。ヤコブレフはプーチンに市役所に残るように声をかけたが、プーチンは断り、サプチャークと共に市役所を去った。プーチンはサプチャークが破れたら、市役所の全員市役所を去るという決意表明を率先して作成し、自ずから署名していた。「サプチャークと共に仕事をしていた全員が、サプチャークの敗北は自分達の敗北を意味するという、考えを表明する事だった。そしてこれは全員を戦いに参加させるための良いインセンティブになった」。                                                  またプーチンは日本の港湾局の視察を希望した。その時プーチンの質問は、日本の役所の外郭団体がどういう役割を担っているかという質問で、プーチンは事前に十分下調べをした上で、やってきた様子であった。「日本は港湾を民営化しないのか、内々にそういう計画があるのではないか」、「民営化したとして、その場合予想される問題点は何か」、確かに日本内外では、港湾施設は株式会社化されている例が多い。しかし当時、日本の港湾を民営化するという発想は全くなかったので、プーチンの質問に面食らったという。プーチンはこれほどにに事前に下調べをしてきていたのである。                              更にプーチンはFSB(連邦保安局)長官の際にも辣腕を発揮した。職員を6千人から4千人に削減。代わりに給与の遅配をなくした。コンピューター犯罪への対策を担当する部署を新設するなど、機構改革も断行した。大統領のエリツインやその取り巻きが、プーチンへの信頼を確かなものにするきっかけとなった出来事が起きたのも、プーチンがFBS長官の時だった。当時の首相プリマコフの意を受けて大統領府を巻き込む汚職疑惑を追及しようとしていた検事総長スクラトフの追い落としで、プーチンは決定的な役割を果たしたのだ。       1999年3月、大統領エリツインは検事総長スクラトフの解任をロシア上院に求めた。スクラトフは,、政界上層部をターゲットにした汚職捜査に対する政権からの圧力だと主張。上院はスクラトフの主張を支持して、解任を否決した。大統領は追いつめられていた。当時の議会は今と異なり、大統領と対立することがしばしばあった。                       スキャンダルがスクラトフを襲ったのはその直後の事だった。ロシアのテレビ局が、スクラトフに似た男が若い女性2人と全裸でベットにいる様子を隠し撮りしたビデオ映像を放映したのだ。プーチンは「調査の結果、ビデオは本物だった。」と明言した。これらが決定打となって、スクラトフは失脚に追い込まれた。プーチンはこうして、エリツインへの絶対的な忠誠心を示した。汚職追及を主導していた首相のプリマコフも解任され、プーチンがその後任の首相となる。1999年12月31日大ニュースが世界を駆け巡った。                     ソ連を解体に追い込んだ立役者で、1991年からロシアの初代大統領を務めていたボリス・エリツインが辞職を表明したのだ。モスクワ時間の正午、テレビ画面に登場したエリツインは涙ながらに語った。                                               「私は長く思い悩んだ結果、今日大統領を辞任することに決めた。文明的で自発的な政権交代の前例になるように、憲法の規定どうり2000年6月に大統領選が行われるように望んでいた。しかし、私は違う決定をし、任期前に辞任する。ロシアは新しい政治家、知識人、力強く精力的な人々と共に新しい千年紀に入らなければならない。何年も権力の座にいたものは去るべきなのだ。任期は半年残っているが、大統領にふさわしい強い人物が現れたのだから、邪魔をしてはならない。権力の座に居座るのは私のやり方ではない。辞任は健康の理由ではなく、全ての問題に原因がある。私が国民の夢と希望を実現できなかったことを許して欲しい。灰色で停滞した全体主義的な過去から、明快で将来へと飛び立てると信じていた国民に謝りたい。憲法に従い、ロシア大統領をプーチン首相にゆだねる。3か月後には大統領選が行われる。3か月後、国民が賢明な選択をすると私は信じている。」        こうして、8月に首相に就任したばかりのプーチンが大統領代行となった。47歳だった。エリツインは辞職演説でプーチンを「大統領にふさわしい強い人物」と紹介した。3月に行われる繰り上げ大統領選でプーチンに投票するよう、国民に呼びかけた。

 

 

 

 

 

 

 


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第364回こぶし会例会報告(平成29年2月27日)

2017年03月03日 | こぶし会のご紹介

話題1. 冊子「電電公社・NTT民営化直後の海外技術協力活動」への反響  加藤 隆

ICT海外ボランティア会と冊子の編纂                                      当会は2008年に石井孝氏を中心として発足し、NTTOB・現職をはじめNTT以外の方の入会もありました。活動としてJICAによるシニア海外ボランティア(SV)活動への参加を奨め、活躍中SVを支援し、「会報」を発行し、「ホームページ」を立ち上げ、毎日約200名の訪問がありました。わが国ICT産業の国際競争力強化や、海外人材育成にも寄与できるよう他団体と協調し、トンガで防災システム構築のプロジェクトを行いました。(会員150名、支援者350名)。その活動の一環としてNTTコミュニケーションズ及びNTTのご支援を得て標記冊子を編纂しました。第一部ではわが国技術協力の目標、電電の活動方針、および活動実績を概説しました。長期専門家は主にアジア・大洋州・仲南米に延べ640名、青年協力隊員は仲近東・アフリカを中心に490名に及びました。第二部は海外技術協力の具体的活動記録20篇を掲載しました。その中で電電・NTTの本活動のインパクトは「わが国ODA政策に呼応し大きな尽力」「電電・NTT自主プロジェクトの基盤醸成」「海外人材育成とNTTの知名度向上への寄与」「わが国電気通信産業の海外進出に貢献」と要約しました。                              冊子への反響                                                    反響は予想以上に大きく、FACEBOOKでの意見交換を含めて、100名を超える方々からコメントをいただきました。それを要約すると                                  ①このような冊子はいわば歴史に残すことであり、極めて意義深い。素晴らしい国際活動の一端が窺え、大変誇りに思います。第一線で活躍された方々の経験談には迫力がありす。②貴重な記録です。NTTはかってこれほどまでの専門家や協力隊わ送っていたことは驚きです。一大企業文化でした。NTTの海外活動には関心をもって眺めていましたが、この冊子を拝見して知らないことばっかりであったっと思い知らされました。                      ③グローバルビジネスが伸びているこの時期に、その礎となった諸先輩方のご活動を記録として残しておくことは、たいへん重要な意味があり、意義深いものと感じております。改めてその重要性を認識しているところです。                                 ④このような草の根活動がNTTの現在のグローバル化につながったと思います。海外での技術協力活動は、人材の育成、人の交流等から始まり、そこから信頼関係、友好親善が育まれると言われます。貿易立国にとって大切な基盤づくりです。                    NTTグループとして、これまでの海外との技術協力の実績・ノウハウを活かし、JICAの傘下のもと可能な範囲でより積極的な継続・推進の意志(方針)を示して取り組んでいくことは世の中からも理解されるのではと思えます。

話題2. イギリスの歴史―王権と議会ー その2        松本哲男

 今回は、1000年の英国史のうち、イギリスが世界の覇権国であった時代以後、1901年から現代までの117年間についてまとめた。                                 1.第一次世界大戦と戦後処理                                       1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。イギリスは、露仏両国とともにドイツに対し宣戦布告した。これに伴い、イギリスでは「徴兵制」を導入し、総力戦で戦った。1918年11月ドイツ降伏までの4年間の長い戦争であった。イギリス帝国全体で919万人もの兵士が動員された。戦死者は帝国全体で88万人にも及んだ。総力戦はそれまでのイギリスの社会構造を大きく変えた。貴族政治の時代から大衆民主政治の時代へと変わっていた。1920年アイルランド自由国が成立した。自由党が没落し、労働党が勃興した。1931年には「英連邦諸国」が形成され、イギリス、カナダ、オーストラリア等7ヵ国間の対等な地位が承認された。                                                        4.第二次世界大戦、その後の3大改革                                  1939年9月、ドイツのポーランド侵攻に伴い、英仏両国はドイツに宣戦布告した。イギリスでは総力戦体制が整えられた。経済や情報、資源などが国家の統制下に置かれた。1945年5月ドイツ軍が連合国軍に降伏し、第二次世界大戦は終了した。イギリスが戦争で受けた打撃は、ドイツや日本などの敗戦国にも劣らなかった。第二次世界大戦後の3大改革は、アトリー、サッチャー、ブレア政権である。                                 ①アトリー政権(労働党、1945~1951年):戦後直ぐの政権。戦後の復興政策としては基幹産業の「国営化」であった。イングランド銀行、航空、石炭、電信・電話、運輸、電力、ガス、製鉄などが次々と国営化された。また全国民への福祉の供与である。            ②サッチャー政権(保守党、1979~1990年):「英国病」からの蘇生。サッチャー革命は「小さな政府」、自由経済に基づく景気回復と社会福祉国家の見直しであった。基幹産業の「民営化」で、電信・電話、航空、造船、鉄鋼、電力、石油、自動車など国営企業が次々と民営となった。また、社会保障費を大幅に削減し、金融政策にも力を注いだ。            ③ブレア政権(労働党、1994~2005年):新しい労働党として、中産階級を取り込んだ。政策として、地方の分散化(スコットランド、ウェールズに議会設置)、「世襲議員」の改革等を進め、種々の国政改革を行った。                                     ④エリザベス2世:1952年2月、25歳の若さで即位し、現在、在位64年間で、ノルマン王朝以来のイギリス君主として最長である。ダイアナ元妃の事故死への対応等で一時王室の危機があったがその後「開かれた王室」を目指して改善され、現在は国民から愛されている。[王権と議会」は1000年の歴史を経て共存しながら、比較的安定した政治を保っている。                                                        3.英国におけるEU離脱問題                                        2016年6月の国民投票によって、イギリスはEU離脱が決定した。これから生ずる諸問題についてまとめた。

                                 

 

 

 

 

 

 


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第363回例会報告(平成28年12月19日)

2016年12月24日 | こぶし会のご紹介

話題1. 最近のICTの話題      桑原守二

 桑原が最近のICTに関して説明し、続けて参加者で討議を行った。主なものについて以下に紹介する。                                                      (1)サムスン電子が8月19日に発売したギャラクシーノート7が発火事件を起こし、航空機内への持ち込みが禁止されるなど大きな事件になった。リチウム電池は過充電などにより発火しやすく、メーカーは取扱いに苦労する。NTT可搬型電話機も事故を起こした。             (2)AI(人工知能)は今年大きな話題になった。韓国の囲碁のプロに勝ち、人間を追い越したと騒がれた。AI研究では米国が先行しており、最近は中国の躍進が目覚ましい。日本も官民の勢力を結集して遅れをとらないようにするべきだ。                              (3)富士通のパソコン事業が中国レノボの傘下に入るようだ。またネット接続の老舗であるニフティを手放すという。ビッグローブはすでにNECの元から離れた。ビッグローブはKDDIが買収する。ニフティもKDDI 傘下に入ると、KDDIはネット接続の大手になる。               (4)ソフトバンクがサウジアラビアと共同してベンチャーへの投資ファンドを設立する。近隣の産油国にも参加を呼び掛けている。最近アップルも投資を表明した。孫社長はトランプ米次期大統領と会談、500億ドルの投資を約したが、上記ファンドからの投資を予定?           (5)AT&Tによるタイムワーナーの買収は通信と放送の融合を象徴しているが、EC (電子商取引)と実店舗を持つ従来型商売との境界も薄れつつあるようだ。                   (6)IoTも最近のはやり言葉である。電話の次に機械対機械の通信の時代が来るというのは電電公社時代に北原副総裁が提唱したINSの理念であった。IoT時代への対応は内外メーカーにとり最大の課題であるが、通信事業者も指導的立場をとれるよう必死だ。

話題2. トランプ米国次期大統領と国際社会        松本文郎 

 ドナルド・トランプ氏の米国大統領選・当選の報に世界で衝撃が走った。人種差別や女性蔑視の暴言を連発し、極端な保護主義を唱えて共和党主流派から異端視された“泡まつ候補”が、開票日までの予想を覆して当選した。その経過のなか、日本ジャーナリスト会議「広告支部ニュース」に寄稿した小論『米国大統領と予備選挙と日本の行方』、『続 同名』、『女性リーダーの時代へ』、『人類社会のパラダイム』は、「松本文郎プログ」へも転載してきた。   2016年に期せずして生じたBREXIT(英国EU離脱)とトランプ米国次期大統領の出現は、国際社会の混迷と不確かさを痛感させた。BREXITは、アラブ難民大量流入に火をつけた移民・難民問題がきっかけで世界の耳目を集め、米国大統領予備選挙の狂騒的様相は、「自由と民主主義」の旗を掲げて世界をリードしてきた米国社会の驚くべき変貌を見せつけたが、根底に、サッチャー(英)・レーガン(米)が推進した新自由主義経済グローバリズムがもたらした格差社会(富の偏在や貧困層の拡大)の1(超富裕層)対99(貧困層)の現実があり、共に、既成政治や経済政策への不満と怒りの鬱屈から生じた”瓢箪から駒”といえよう。                                                         トランプ氏の品のない罵詈雑言に拍手喝采したのは米国社会の白人下層労働者や低学歴・失業中の若者らで、老社会主義者・サンダースしを支持したのは、”WASP”エリートのクリントン氏や政治・経済社会のエスタブリッシュメントに反感をもつ高学歴・失業中の若者が多かったという。                                               米国のマスコミ(「フォックス」を除く)はトランプ氏に否定的な反応を見せ、「ヒトラーと同じデマゴーク。自画自賛が激しく傲慢。詭弁を弄して民衆支持を集めている」(ニューズウイーク)、「経験もなく、安全保障や世界貿易について学習する興味もない」(ニューヨーク・タイムズ}報道。読売新聞社は社説で、トランプを支持する動きを「反知性主義」とし、「偉大な米国を取り戻す」「中国・日本を打ち負かす」などの発言や単純なスローガンは、危うい大衆扇動そのものだと評し、朝日新聞は、「トランプ氏は、米国と世界を覆う難題への冷静な取り組みではなく、むしろ、米国内外の社会の分断をあおる言動を重ねている」「大衆への訴え方が扇動的で、自由主義の旗手を自負する大国のリーダーに相応しくない」と書いた。        アングロサクソン姉妹の英米両国で軌を一ににして表面化した国民世論の分断と政治の混迷の要因は、極めて根深いところにあるあると言えるのではないか。英米をはじめとする国際社会の行き詰まり状況は、20世紀西洋近代の軌跡の必然的な帰結で、世紀的な「パラダイムシフト」が求められていると思われてならない。”パラダイム”は、「ある時代の人々のものの見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組み」とされ、人類社会の文明・文化の時代区分に見るようにその時代の社会状況・立場(権力者・民衆)の捉え方によって、対立または複数のパラダイムがある。                                     ”戦争の世紀”20世紀前半の”パラダイム”には、帝国主義的富国強兵や強権的国家主義があり、後半の第二次大戦終結後は、戦争の内世界平和実現をめざす国際社会に相次いで生じた、EU形成、ソ連崩壊、東西冷戦終結、世界一強米国、中国台頭、新自由主義グローバリズム等により、”パラダイム”自体がままぐるしく変化してきた。               昨年来日した南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領は、人類社会の格差拡大について、「次々と規制撤廃した新自由主義経済のせいだ。市場経済は富をますます集中させる。格差問題を解決するには政治が介入して公正な社会をめざす。それが政治の役割というものだ。国家は社会の強者から富を受け取り、弱者に再配分をする義務がある。」「怖いのは、グローバル化が進んで、世界に残酷な競争が広がっていることだ。すべてを市場とビジネスが決めて、政治の知恵が及ばない。まるで、頭脳のない怪物のようなものだ。これはまずい。」と講演し、聴講の大学生に感銘をあたえた。                             新自由主義経済グローバリズムで世界に拡大する「格差社会問題」への対処には、マルクスが「資本論」で予見した「資本主義社会の人間疎外」の視点に立つ「国際社会のパラダイムシフト」が必要ではないかと思われるが、居丈高なトランプ次期米国大統領が、ロシアのプーチン、中国の習近平、トルコのエルドアン、フィリッピンのドウテルテ等の統治者とどのように向き合うかで、2017年の安部政権の行方は大きくゆさぶられるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

                                 


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第362回こぶし会例会報告(平成28年11月28日)

2016年12月04日 | 例会報告

話題1. ビックバン・イノベーションについて   (飯田徳雄)

 ビックバン・イノベーションとは、これまで安定して何の問題もなく、運営してきた事業が、ほんの短期間に破壊されてしまうような新しいタイプのイノベーションである。シャープや東芝など日本の家電事業を行っている企業の経営の悪化が話題になって久しいが、そうした企業の事業環境の変化が何故起こり、また、そのような環境のなかで生き延びて行くためには、企業が何を為すべきであるかが重要な課題になってきている。ビックバン・イノベーションっとは何か、グーグルマップについて、1つの事例として述べる。                                 20世紀の大半を通じて自動車の普及拡大があり、その影響で、道路地図の販売が拡大して、道路地図の専門の出版社は好景気に沸いていた。それが、グーグルマップが登場して、スマートホンにも搭載され、また、カーナビにも利用されるようになると、使用勝ってが良い上に、利用料が無料であることから、紙の道路地図の利用は殆どなくなり、販売量は激減し、道路地図の出版社は、大打撃を受けている・                                     交通分野でのビックバン・イノベーションには、ウーバーなる配車サービスがある。新技術を活用した配車サービスで、客はスマートホンを使って近くを流しているタクシーを所望の乗車位置まで呼び寄せて、車の到着を待つサービスである。                             ビックバン・イノベーションの特徴の1つは、開発のアイデアを社内だけでなく外部からアイデアを募集形式で集めることである。応募者は予め登録させておいて、課題を出し、投稿者の中で優れたものを採用し、奨励金を与えるという方法である。これにより、開発コストは自社の研究者より低下する傾向にある。                                          コンピューターが小型化し、機能が向上したことにより、ビックバン・イノベーションが随書で行われることになった。つまり、ビックバン・イノベーションに見舞われない産業は無くなったといえる。例えば、睡眠無呼吸症候群等の睡眠障害の患者は病院に入院する必要があったが、ウエラブル・モニターの登場により、入院の必要がなくなり、病院が閉鎖に追い込まれた例が出ている。                                                 ビックバン・イノベーションによる危機に遭遇した場合の回避に成功した例と失敗した例を示す。                                                         失敗したのは、コダックで、1970年代に世界で初めてデジタルカメラの開発に成功したが、利益率の悪さに本格生産を控えた。そして、本格生産に乗り出した時には、スマートホンがデジタルカメラにとって代わり、コダックはブランド力を発揮できなかった。業績が悪化して2012年の倒産に追い込まれた。                                       回避に成功したのは、富士フィルムである。富士フィルムは長い間、培ってきた専門技術と知識を化粧品や医薬品の分野に転用したのである。例えば、紫外線による写真の退色を防ぐ技術をスキンケアに生かして婦人用の化粧品の製造・販売を始めたのである。また、写真フィルムの製造で培った薄膜形成・加工技術や塗布技術を活用してフラットパネル市場のも進出している。

話題2. イギリスの歴史 ―王権と議会ー その1     (松本哲男)

 イギリスは、中世以来、国王(女王)と議会との話し合いによって、その時々の政治はもとより、経済や宗教に関わる政策もすべて決められてきた。16世紀前半にカトリックと袂を分かちイングランド国教会を形成したのも、「長い18世紀」にフランスとの壮絶な戦いに勝利を収めたのも、21世紀初頭に貴族文化の象徴であった「狐狩り」を動物虐待にあたるとして禁止したのも、「議会」という政治的な装置が機能しなくては実現し得なかったといえよう。そのような慣習や制度はいつ頃から定着したのであろうか。こうした問題を中核に据えて「ノルマン征服(1066年)」から現代に至るまでのおおよそ1000年の政治史をまとめる。今回はノルマン朝(ウイリアム1世)からハノーヴァ―朝(ヴィクトリア女王)までの835年間をまとめた。                                                         10世紀頃イングランドは、ゲルマン系のアングロ・サクソン人の王朝があった。ここにノルマン人が侵攻して征服し、ノルマン朝が誕生した。これがイギリス王朝の始まりである。ノルマン朝は4代・88年(1066~1154年)続き、諸侯との「賢人会議」を活用し、封建社会を築いた。                                                     1154年プランタジネット朝が誕生した。この王朝は8代・245年(1154~1399年)と長く続いた。創始者ヘンリー2世によって飛躍的に領土を拡大した時代。しかし、息子たちの失政によって多くを喪失。フランスとの領土争い(百年戦争)が始まる。1215年にはイギリス国制の基本文書となるマグナ・カルタ(大憲章)が調印された。                    この後は、ランカスター朝3代・63年(1399~1471年)とヨーク朝3代・23年(1471~1485年)の王朝であるが、この間、フランスとの百年戦争と薔薇戦争(王位継承をめぐる両家の戦い)など戦争に明け暮れる時代であった。                            次は、テューダー朝である。この王朝は5代・118年(1485~1603年)続き、混乱期を乗り越え後の繁栄の基礎を築く。ヘンリー8世の時代にはイングランド国教会(1534年)が設立された。                                                     17世紀初にスチュアート朝が始まる。スチュアート朝は7代・118年(1603~1714年)続き、国内で清教徒革命・名誉革命が起こり、一時共和政(1649~1660年)となるが、王政復古が行われる。名誉革命の後、「権利章典」が議会を通過し、国民の権利と自由が保障された。                                                     ハノーヴァ―朝6代・187年(1714~1901年)は「長い18世紀」の時代で、産業革命による発展と、広大な植民地の獲得により、世界帝国へと躍進した。「王が君臨すれども統治せず」と統治体制が形作られて、立憲君主制が確立した。イギリス帝国の最盛期であった。

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

                                                        


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第361回例会報告(平成28年10月31日)

2016年11月03日 | 例会報告

話題 1 我田引水の先祖話      稲村隆弘

   我姓稲村是因為我的祖先 従呉越同舟的越国 教稲作技術来日本的              先祖が呉越同舟から来て、日本に稲作技術を教えたので稲村と言います。というのが、今世紀初頭に中国語講座に通って教えてもらった中国語での自己紹介です。菩提寺にある「稲村越後大人之墓」というのを見て、この越後は新潟県の越後ではなく、越人の末裔という意味だろうと思って、教えてもらった表現です。                                      今回は、これをできるだけ科学的に実証しようと言う試みの一環です。参照した文献は、      1.海部陽介著「日本人はどこから来たのか?」文芸春秋2016.02.10第1刷発行         2.池橋 宏著「稲作渡来民」講談社・選書メチェ2008.06・23第3刷発行                3.佐原 真著「古代を考える 稲・金属・戦争―弥生ー」吉川弘文館2002.01.01発行  です。1.は、5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが、ヒマラヤ南北ルートを通って38,000~30,000年前に日本に、対馬、沖縄、北海道の3ルートから到達したことを、海外移籍調査とDNAの研究によって明らかにしており、2.は大規模水田稲作技術は、世界最古の河姆渡遺跡(BC5000~BC4000)を持つ長江河口付近に発生し、その畑作による穀物栽培に勝る点を活かして、山東半島から朝鮮半島西南岸を経由してBC5世紀には本邦へも伝来したと考えられることを伝えている。1.によれば、その時点で本邦には3ルート経由のホモ・サピエンスが大部分狩猟採取、わずかなクリなどの栽培によって生活しておった筈で、弥生入植者との関係が心配されるところであるが、本邦に関する限り、紀元前にはそれほどの争いは無かったらしい。                                                      彼らが創った国は、7世紀に日本にとって代わられる前の倭国であろう。中国及び朝鮮半島の同時代と比較すると貧富の差が少なかったように感じられる。                      池橋氏の考えでは、日本語は縄文時代以来の開音節言語がそれほど変わらず、中国からの漢字の導入に際し、訓読みとカナ文字を発明して文明の発展に資した、としているが、稲村はこれに異論を唱えたい。我々の先祖は、釈尊在世時代からの原始仏教信者であり、稲作技術の普及も「即身成仏」の方便で、従って、このような高度の思想を支える言語として、日常会話とは別にサンスクリット語は用いていた、と思いたい。                    佐原真編著の書物は1.、2.に比し古い本で、昭和時代までの総括の意味もあるらしいものであるが、国家形成に関して、これ以後、新しい見方を提唱する本も無いようなので紹介する。                                                        1989年に始まる社会主義圏の崩壊は、世界的に見ても、前代未聞の状況を引き起こしたごとくである。こういう時期に必要とされるものは、科学思考、合理的思考であろう。歴史において、そういうものが存在するか疑問視する見方もあるが、稲村は在ると信ずる。

話題2. 日本古代史の魅力 -多元王朝史観の立場からー   中尾昭二

 中国の歴史書では、前3世紀~1世紀を扱った「漢書」(1世紀に作成)、次に1~2世紀を扱った「後漢書」(5世紀に作成)、更に3世紀の「三国志」(同世紀に作成)以来、7~8世紀を扱った「旧唐書」(10世紀に作成)にいたるまで、殆ど皆「倭国伝」がある。そこで、中国側は前3世紀(漢代)~7世紀に至る倭国側の中心王朝を”一貫して連続した王朝”と見なしているのではないだろうか。(「失われた九州王朝」古田武彦・朝日新聞社・1974、後に角川文庫で再刊)。                                                 しかるに、「旧唐書」に至って始めて日本列島内に二つの王朝を記録する。先在する「倭国」と後発の「日本国」とである。すなわち数年来。東アジア文明の高原であった中国によって認識されてきた列島の代表者は、あの「金印の倭奴国」や「卑弥呼の耶馬壱国」として知られた「倭国」(九州王朝)であり、「日本国」(大和王朝)は遅れて「唐朝」に認知されたことを、記録しているのである。以下に、「旧唐書」の記録する「倭国伝」に続く「日本伝」を見よう。                                                         「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或は曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。(中略)又云う、其の国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なりと。(以下略)」                                                    日本の古代史を探究しようとすれば、中国側の史料は不可欠と言うべきである。世界史にも稀な記録マニアの我が隣国人は、貴重な数多くの資料を残してくれた。ところが7世紀以前の中国側史料が記す列島の記録内容は、「日本書紀」の記事と全く符合しない。両者の記事が合致するのは、8世紀以降なのである。                              例えば7世紀初頭、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」で始まる国書を、「隋」に出したのは「阿毎多利比狐」である。この記事は、中国の史書「隋書」にあって「日本書紀」には無いが、通説では、この国書を聖徳太子の事跡だとしている。同様に、中国の史書「宋書」(5世紀の南朝)に「倭の五王」の記事があるが、「日本書紀」には全く記事が無いのに、大和の5人の天皇に宛てはめている。                   これらは「日本の歴史の捏造」ではないのか。そして更に、日本の歴史を全て大和王朝の天皇サイドからのみ解釈しようとする点において、「日本古代史定説派」は昔の「皇国史観」に再び限りなく近づこうとする危険な動向にあるのではないか。                     戦前の日本には、「日本書紀」の「大和王朝一元史観」を狂信的に推進した御用歴史家達と、これを政治的に利用した権力者群と、これに盲目的に追随した人々とが居たのであり、結局この最後の人々が、あの戦争に駆り出されたのである。「大和王朝の歴史だけが日本の古代史である」とするような狭い視野からは、戦前の悪夢が再生産されるだけだ。      7世紀以前には、九州だけでなく出雲や関東にも国々があった証拠がある。少なくとも「旧唐書」にも、「倭国」の東にある「日本」の、更に東界北界の山外には「毛人の国」があるーーーと書いている。これらの国々を含む「多元王朝史観」こそ、日本の新しい地平を開拓する基本理念でなければならない。未解決の謎に満ちた日本古代史は、卑弥呼の「モナリザの微笑」を以て私を誘うのである。

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

                                                            

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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