日比谷同友会 こぶし会

日比谷同友会 サークル活動

こぶし会第368回例会報告(平成29年10月16日)

2017年10月24日 | 例会報告

話題1.八幡太郎は恐ろしや ―「武家政治」を考える―        中尾昭二

「梁塵秘抄」という歌書がある。編者は後白河法皇(1126~1192)と言われており、十二世紀頃の世相を反映した今様(いまよう)歌の五百六十余首も残存している。その中でも”遊びをせんとや生まれけむ”で始まる「無心の子供の姿」を謡った歌などが、特に有名である。ところが同じ「巻第二」には、次のような生々しい歌も収録されている。                           鷲のすむ 深山(みやま)には      概(なべ)ての鳥は 棲むものか                同じき源氏と 申せども   八幡太郎は 恐ろしや                             八幡太郎は、周知のように源義家(1039~1106)の”通称”であり、清和天皇六世の孫である。平安時代の前半期(九~十世紀頃)、皇族から臣籍に降下して「源氏」を名乗った家系は多数あったが、おおむね公家らしい文化的な人々が多かった中に、清和源氏嫡系の八幡太郎は「武家の代表者」として突出していた。この今様歌を、”八幡太郎の勇猛ぶり”を民衆が称賛する歌ーーーーとする深読みの解釈がある。しかし、これは文字通り”八幡太郎の暴力行動”を民衆が恐れる歌-―――と解釈した方が、自然ではないだろうか。                   戦前の学校教科書には、八幡太郎を”文武兼ね備えた武士の鑑”として称賛する説話ばかりが記載されていた。しかし、この点こそ戦前の歴史教育が、いわゆる[武士道」を表面的に賛美するばかりで、その深層にある「暴力肯定の意識」を隠していたことを、端なくも証明するものである。(参考)「武家の棟梁の条件」(野口実・中公新書・1994)                     この[武家の暴力」は、遂には「公家による律令政治」を[武家による武家政治」に取り替えてしまった。その歴史的転換点は、源頼朝が鎌倉幕府を開き征夷大将軍となった建久三年(1192)である。しかし、”武士そのものの勃興”はそれより早く、平将門が関東で自立して[新皇」を自称したのは、天慶二年(939)である。                                   つまり、既に十世紀から「武家の暴力」が「公家の律令体制」を揺るがし始め、八幡太郎が活躍した十一世紀後半から十二世紀にかけては、「律令政治」を形骸化する「武家の暴力」の隆盛期であった。まさに”八幡太郎は恐ろしや”である。そして遂には「武家の暴力」によって奪取してしまった。そしてこれ以来、約七百年近くに及ぶ「長い武家政治時代」が続くのである。頼朝が鎌倉幕府を開いてから675年後、「武家の、武家による、武家のための政治」は、時の征夷大将軍・徳川慶喜による「朝廷への大政奉還」(1867)によって、終わりを告げたように見える。しかし、これと同時に鎖国から開国へと急旋回した日本国は、「富国強兵」による「大国主義への道」を進み始め、更に「世界の第一等国足らんとする野望」を「武力」によって実現しようとする方向を選んだ。                               明治から大正・昭和と時代が進むにつれて、世界的な軍備縮小動向に反発した軍人達が跳梁し始め、陸軍の参謀本部を中心とした軍人達の策謀による満州事変(1931)を経て、次第に日本を軍事国家へと変貌させて行く。そして遂に「二・二・六事件」という「青年将校によるクーデター」を契機として、「武力を職能とする軍人達」が国政を左右するようになった。「武家政治」は”先祖戻り”のように復活したのである。                         ひるがえって、昭和初期以来の「武家政治」を考えると、司馬遼太郎が「昭和前期の日本は軍部に支配されるというより占領されていた。」とまで極言しているように”武力という暴力”を思うがままに使って、日本を占領した粗暴な軍人達はその快感に酔い痴れたまま「明確な戦争終結への戦略」も持たずに”無謀な対米開戦”へと突っ走って行った。また被占領民となった国民大衆は、軍人達の”武力という暴力”に怯えつつ、軍人達が提唱した「不敗の神国日本」の掛け声に踊らされながら、太平洋戦争へと突進して行き、三百十万の犠牲者を出しながら、「敗戦という”地獄”」へと転落して行った。かくして、「昭和の武家政治」は滅びたのである。                                                このような過去から、我々日本人は何を学ぶべきか。我々日本人の深層心理に存在する「八幡太郎は恐ろしや」から脱却し、自立した「独立自尊の精神」を持って、”暴力”を断罪しなければならない。かくしてこそ、戦前のような「軍部の暴力」に隷従した「「奴隷的心情の歴史」に、終止符を打つことが出来るであろう。

話題2. 応仁の乱とその歴史的意義             松本哲男

 戦国の幕開けと知られる応仁の乱は、応仁元年(1467)に始まり、文明9年(1477)に終わる。原因も結果もいまひとつはっきりしない。だが後世に与えた影響は甚大である。東洋史家の内藤湖南は講演で「今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。」と言っている。内藤は、応仁の乱が旧体制を徹底的に破壊したからこそ新時代が切り開かれた、と考えるからである。また「足利時代は全く天才のいない時代であったから、応仁以後百年間というものは争乱の収まる時期がなく、戦乱が相続いて居った」という。それゆえ「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する」下剋上が盛んになったのだと説く。   応仁・文明の大乱そのものは、文政2年(1467)1月17日、京都上御霊の森を戦場として、畠山義就と政長の間で開始された。この年は3月5日に応仁と改元されている。そして同年6月、細川勝元が将軍義政に山名宗全追討を強請するにおよび、細川方(東軍)と山名方(西軍)の合戦が、洛中で本格化する。東西両軍に加担する守護大名は、領国から軍勢を上洛させて参戦した。しかし戦いが長期化するにつれ、国人・土豪一揆が頻発し、彼らの領国経営もあやしくなってきた。乱は勝負のつかないまま、文明5年(1473)両軍主将の死去と、同年末、義政が九歳の義尚に将軍職を譲ったあとも続行され、同9年(1477)、畠山義就の河内下向で幕を下ろした。だが支配階級がかかえる矛盾は戦火となって全国に拡大、下克上の時代に突入して行ったのである。                                応仁の乱が歴史に与えた影響の、一つ目は、将軍権力の完全な失墜と幕府の有名無実化である。二つ目は、下克上の機運が大きくなったことである。三つ目は、村落の変化である。在地に根をおろし、着実な領主制を展開してきた国人領主や土豪層、が、在地支配をおろそかにしてきた守護大名に変わって力を蓄えてきたわけである。四つ目は、戦法の変化である。足軽の活躍である。足軽が戦いの第一線で活躍するようになって、その後の戦国時代の戦い方に大きな影響を与えた。最後の五つ目は、文化面である。前後11年におよぶ戦乱で、しかも京都は焼野原となった。公家たちは家を焼かれただけでなく、荘園からの年貢も入ってこなくなった。多くの公家は地方の有力守護大名を頼って行った。その結果、京の文化が地方へ拡散した。                                        「空前絶後の災害や飢饉、京を焦土とし、やがて全国に拡大していった戦乱。これまでの史観は、中世を暗黒の時代としてとらえられてきたが、この暗黒の時代こそ、真に日本の文化が確立した時代と考えている。能や狂言、茶や花、また連歌、庭など日本を代表する様々なものは、暗黒と下剋上の時代に始まった。(日本の歴史:澤田ふじ子より抜粋)」

 

 

 

 

 

 


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