日比谷同友会 こぶし会

日比谷同友会 サークル活動

第371回こぶし会例会報告(平成30年3月12日)

2018年03月21日 | 例会報告

話題1.移動無線の発展                           山根信義

 無線部門では、マイクロ波を使った市外回線とテレビ回線が建設され、昭和47年に本土―沖縄間のカラー回線が完成したことにより、全国的にテレビ回線は完成したことになっている。このような時期にマイクロ波の次の無線回線として移動無線を発展させるべく取り上げたのが、当時の施設局の無線課長であった林新二さんである。                        私が無線課長補佐として昭和37年に着任したときに、林課長に「マイクロの仕事はマイクロ部に任せておけ、補佐としてやることは移動無線を手掛けることだ」と言われた。            この当時課長が考えていたのはNTTは今まで公衆通信事業を独占でやってきたが、将来は民営化されて他の競争会社と競争することになると考えておられたようである。             そのためには、メーカーは端末機などの販売網を持ったメーカーを選定すること、移動無線の端末機は加入者がメーカーから直接購入する自営用品とすること、などによりNTTに競争力を付けることである。                                                 これは、今までの販売方針と大きく変わっており、社内を統一するのは相当困難なことが予想された。ところがNTTの民営化はそれから23年の昭和60年には実現し、携帯電話も予想通りの販売が進み、ドコモへの加入数は現在の加入電話数5540万よりも多いい7620万に達するまでになっている。なお携帯電話は加入電話などに比較すると、孤立防止により有効であり、今後加入数が増大すれば益々非常災害などにも役立つものと思われる。            昭和37年以来取り組んでこられた林さんの移動無線の発展も、56年たった今日立派に達成されており、マイクロ波回線の成功と共に移動無線でも大きな成果を挙げることが出来た。

話題2.イスラームの歴史 その1 -イスラームの成立と繁栄ー    松本哲男

 7世紀前半に預言者ムハンマド(マホメット)が創始したイスラームは、それから1400年を経過し、イスラーム教徒(ムスリム)は世界で16億人に達している。しかし、イスラームについてこれまで必ずしも良く知られていない。今回は、イスラームの成立からオスマン帝国の建国までの約800年の歴史について取りまとめた。                           イスラームの成立 610~632年:ムハンマドは、西暦610年に神より最初の啓示を得、その後21年に亘り多くの啓示を受けた。これがイスラームの啓典クルアーン(コーラン)である。当時アラブ社会は各部族どうしの争いが絶えず危機に見舞われていた。当初は支配層と対立し迫害を受けたが、イスラームを広め、その共同体(ウンマ)によってアラビア半島の各部族との戦いに勝利し、アラビアのほぼすべての部族が同盟者となり、アラビアに平和をもたらした。                                                    正統カリフ時代 632~661年:ムハンマドの跡を継いだ最初の4人のカリフは「正統カリフ」と呼ばれる。彼らの統治時代はムハンマド時代と並ぶ形成期となった。初代カリフ、パクルは多くの部族の背教に対し、智恵と温情で反乱を鎮め、アラビア統一を成し遂げた。第2代カリフ、ウマルの時代、周辺諸国への襲撃が猛烈に進められ。イラク、シリア、エジプト等広大な領土を手にした。第3代カリフ、ウスマーンの時代には、領土を東方においてアフガニスタン、インドまで広げた。最後のカリフは、ムハンマドの近親者のアリーが継いだが過激派に暗殺され正統カリフの時代の幕切れとなった。                           ウマイヤ朝 661~750年:この王朝は首都をシリアのダマスカスに置いた。全盛期は第5代マリクの時代で、主な政策として、アラビア語の公用化、アラブ貨幣の発行が挙げられる。領土は東へ西へと拡大し、イベリア半島(スペイン)の一部まで領土となった。        アッバース朝 750~1258年:ウマイヤ朝を倒して成立した王朝で、首都をイラクのバグダートに定めた。この王朝は約500年続き、8世紀後半から全盛期となり、北アフリカから中央アジアに及ぶ広大な領土を支配した。9世紀中頃から地方に独立政権が生まれ、カリフ支配は形骸化した。最後はモンゴルの侵攻によって滅亡した。」                  アッバース朝は、アラブ人の様々な特権を停止しイスラーム教徒間における平等を実現した。第5代ハルーンの時代に最盛期を迎え、学術文化が発展した。中国から製紙法が伝わり、化学、数学、天文学、医学等の科学分野が飛躍的な発展を遂げた。イスラームはスンニ派とシーア派に分かれ、法学、神学、史学が盛んとなり多くの学派が生じた。            十字軍及びモンゴルの侵攻:1099年第一回十字軍によりエルサレムが占領され、パレスチナ、アナトリア、シリアに十字軍国家が建設され、その後200年に亘ってイスラームと戦いが起こった。また、1220年頃からモンゴル軍の侵攻を受け、1258年にはバグダートが破壊され、アッバース朝が滅びた。この時代、各地方に独立政権の王朝が起こったが、1299年にオスマン帝国が建設され、イスラームが世界帝国の時代となった。

 

 

 

 

 


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第370回こぶし会例会報告(平成30年2月19日)

2018年03月06日 | 例会報告

話題 1.働き方改革と働く空間の変遷         沖塩荘一郎

 1990年代半ばのインターネットの普及は、世界の働き方に大きい影響を与えた。80年代初めから米国のオフィスを調査することの多かった私は、1995年の年2回の訪米で訪れた先端企業の働き方とオフィスが前年までと大きく変わっているのに驚いた。[会社に毎日来る必要はない」「ネットワーク活用による世界競争の中で、組織としては職員の知的能力を最大限に引き出すことが必要だ」「職員一人一人が、自分の知的能力を発揮するにはどのような働き方をすれば良いのか自分で考え提案しろ]という言葉を、訪問した先々で聞かされた。オフィスも、自席をなくして多様な空間を用意した企業が続々と現れていた。これより、「組織としては、職員の知的生産性が上がると共にスペースコストが下がるメリット」「職員にとっては、勤務が束縛されず家族団らんや地域活動の時間が増えると共に自分にこんな能力があったかと喜びを感じるメリット」がある。といった話が多かった。                                  バブル崩壊で不況下の当時の日本では、リストラと称する首切りばかりで働き方やオフィス変革の動きは鈍かった。その中で、元日本IBM副社長からプライスウオーターハウスコンサルタント社長となった倉重英樹氏は、就任半年後の1994年、ペーパーレス、フリーアドレス、働き方改革で、業績を大幅に伸ばすと共にスペースコストなどを大幅に減らした。氏は、その後日本テレコムなどで次々成果を挙げられた。                                  少し遅れてNTTでも、NTT東日本やドコモで法人営業部長を務めた潮田邦夫氏は、フリーアドレス導入など次々とオフィス改革をされ成果を挙げられた。しかし氏が去ると、「自分の席がないなんて可笑しい」と、残念ながら継続発展はなかった。                         働き方やオフィスの変革で後れをとっていた我が国大企業も、近年やっと動きが出てきた。昨年本社を移転した三菱地所は、固定席なしのグループアドレス導入、役員個室廃止、目的に応じ選択できる多様なスペース、ペーパーストックレスの推進などに成功している。         現在阿部政権は、「働き方改革」を政策の一つの大きい目玉としている。しかし、「長時間労働の禁止」などが焦点となっているように見える。ICT活用により、働き方の多様化承認、働く場所と時間帯の自由選択、知的創造性を刺激する出会い増加施策などにより、生産性アップと働く職員の幸福度アップの両立にこの政策が繋がることを祈っている。

話題 2.美しき日本の再発見の旅ー現代風奥のほそ道ひとり旅ー  加藤 隆

 私は故郷仙台から57年前に上京し、以来仙台ー東京間を列車で何度往復したことか。その度に車窓から見える自然豊かな東北路をのんびりと何日もかけて歩いてみたいと思っていた。その長年の念願を退職し自由の身になった機に実行した。この歩き旅は自宅(横浜)から日帰り、もしくは2泊3日の旅の繰り返しとし、マイペースで気ままな「ひとり旅」とし、上野を始点とした。原則JRに沿った国道を辿ることとした(これがタイトルの「現代風」の所以)。宿は予約なしでぶっつけ本番だ。                                  そして平成20年(2008年)5月、上野ー仙台駅間300kmの歩きを始めた。宇都宮までは首都圏の雰囲気だ。それを過ぎると景観ががらりと変わり、遠くに山々が見え自然の懐に抱かれ大いなる安らぎを感じる。                                        序に7年前東日本大震災で津波の被害にあったが復興の力強い槌音を感じる塩釜から女川までの海岸沿いを歩いた。JR仙石線のとある駅では、駅舎は消えホームはかすかな土の盛り上がりがその痕跡を残すのみで、重い線路も枕木も全て流されていて津波の恐ろしさを実感した。また女川の海岸は高さ30mほどの津波ですっかり流され、瓦礫が処理された跡に慰霊の花束やペットボトルが供えられた一角があった。                    更に2010年11月、当初の予定を延長し仙台から山形経由で新潟まで足を伸ばした。山形市までは初冬の奥羽山脈越えで登りがきつかった。山形市から坂上(新潟県)まではJR米坂線に沿って歩いた。この区間は山あり渓谷あり湖ありで風光明媚だ。その合間に戦時中私が疎開し終戦を迎えた寒河江(山形県)を65年振りに訪れた。当時私は国民学校3年生であった。そして最近、自宅に比較的近い八王子から甲州街道に沿って甲斐の山々を愛でながら茅野まで歩いた。                                         この旅は距離にして700kmを超え、10年に亘る遅々としたものではあるが、日本を再発見する良い機会でもあった。訪れた都県は東京を皮切りに埼玉・栃木・福島・宮城・山形・新潟・山梨・長野である。今後も体力を考慮しつつ歩き続けたい。                   この旅を振り返ると、①日本は美しく情緒があり治安も最高の国だ。自然が美しく四季折々の移ろいもあり、皆親切で思いやりがある。ひとりで歩いても危険を感じない。②市街地を離れると過疎地と高齢化を感じる。そして車社会だ。畑や家の庭ではお爺ちゃんお婆ちゃんだけだ。数少ない働き盛りは、車で市街へ通勤しているようだ。③それぞれの地方のカラーが色濃く残っている。それらはかって諸大名が統治した領土の雰囲気、神社仏閣の佇まいや街並みである。このことは何でも画一的化が進む中にあって貴重なことだ。地域の人々が自分たちの”誇り”を営々と伝えてきた賜物かと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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