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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~滋賀県長浜市 如意輪山 小谷寺~

2016-12-27 20:35:35 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小谷城は「浅井長政とお市の方の悲劇」として、戦国時代の織田信長や豊臣秀吉を描いたドラマに必ずと言ってほど出てくることから、広く名前を知られた城ではないかと思います。
現在の小谷城は城跡しか残っていませんが、かつて城のあった小谷山の麓には、浅井氏の祈願寺であった小谷寺がひっそりと続いています。

寺のリーフレットには「浅井家の尊崇が深かったので、お市が浅井三姉妹を連れてたびたび詣でたことでしょう」と書かれていますが、位置的には充分ありうる距離にあります。
「お市」にしてもそうですが、豊臣家へ嫁いだ淀君こと「茶々」・京極家へ嫁いだ「初」・徳川家忠に嫁いだ「江」とそれぞれ数奇な運命をたどった親子の平和だった時代に過ごした寺院と言えるかもしれませんね。



小谷寺の歴史は古く、奈良時代の728年に泰澄上人が白山から伊吹山までの峰々に修験道場を開いた時に小谷山に建てられた坊舎の中の一つであったとされています。
開山当時は常勝寺の名で、室町時代の1429年には後花園天皇より『如意輪山』の勅願を賜り勅願寺となったとされています。



その後、浅井氏により小谷城が築かれた際に、山上にあった常勝寺は山の麓に降りてきて浅井家の祈願寺となったそうです。
その際に寺号を『小谷寺』と改められたそうですが、当時は6坊が連なる境内を持つ大きな寺院だったようで、かつての配置図と現在の周辺の土地を見比べるとその頃の様子が伺われます。



しかし小谷寺は、浅井長政と織田信長による小谷城の戦いによって小谷城落城と同時に焼失してしまいます。
この時、長政は享年29才で亡くなっていますので、浅井三姉妹は幼少の頃になりますね。



小谷寺は、1542年頃に当時の長浜城主・豊臣秀吉によって再建され、真言宗豊山派の寺院(総本山は奈良の長谷寺)として現在まで続いているそうです。
本尊は『如意輪観音半跏像』で小谷城の戦いの戦火を逃れた仏像といわれていますが、秘仏とされているため通常は見ることが出来ない仏像です。
ただ不定期に開帳されることがあるようですので、情報を聞きつけて念願の拝観が叶いました。


(リーフレットより)

一説には奈良時代の作とも言われる「如意輪観音半跏像」は渡来仏の特徴が見られますが、お寺の方に聞いても時代は詳しくは分らないということでした。
像は金銅製の22cmの美しい仏像で、すぐ間近で拝見できましたので右から左からその表情の違いなど見ることができました。

逗子は2層となっており、外側の逗子の中にもう一つの逗子が収められていて、2層の内側の逗子に本尊が安置されていました。
外側の逗子はお市の方が柴田勝家へ嫁ぐ時に逗子を奉納したとされており、内側に収められた逗子は鎌倉時代の作とされています。
内側の逗子の内部には、「如意輪観音半跏像」が洞窟の中に安置されたような造作があり、苔の花の文様まであることから仏像の美しさを更に引き立てていました。



境内にある梵鐘は江戸時代初期の1655年の年号と蒲生郡八日市釜座の名が刻まれていると言われています。
他の寺院でも滋賀の蒲生地方の鋳物師集団の梵鐘を見たことがありますが、この時代の蒲生の鋳物集団の活躍の跡がここにもありました。

また境内には老朽化して、朽ち果てそうな堂がありましたので、お寺の方に聞いてみると「金毘羅宮」とおしゃっておられました。
廃宮になってしまっているようでしたが、痛ましく風化した姿を見るのも忍びなく、すぐに折り返してしまいました。



本堂の中でお茶を頂きながら各仏像の説明をして頂くことが出来ましたが、廃仏毀釈などによって廃寺になってしまった湖北の寺院にあった仏像も一緒に保管されているようです。
須弥壇に安置されている江戸時代作の多数の仏像についてメモを見ながら一生懸命説明してくださったのは檀家の方です。
聞いてみると小谷寺の檀家は10軒しかないとのことのことで、御開帳の期間は檀家の方々が交替で寺に詰めて参拝者の世話をされておられるようでしたが、このまま寂れていってしまう危惧があるとすればあまりにも惜しい寺院です。


コメント
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