針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

こんな事ってあるのか?。

2021-09-29 19:17:19 | サボテン・植木・花

 我が家の盆栽でメインは前に「芝公園のワン友」モカパパさんから頂いた花海棠。立派な仕立てで大事に育てて来たんですが、猛暑のせいか、葉が少し茶色ががってきました。秋めいて少し空気が涼しくなってきた時がありましたが、一気に葉が落ちてしまいました。

「ありゃー、枯れちゃったのか?」と心配しました。夏の間、水はたっぷりと上げてきたのでそんなはずはないと思っていましたら先日枝の先が綺麗な緑色になっています。で今日、何と花芽が付いています。「これ咲いちゃうのかね?。」

    

 先日は手前にある白の梅花空木が3っつ花を咲かせました。気候が温暖化になって異常気象なんですかね?。確かにうちのベランダは西日が強くて立ち枯れしやすいので手前に大きい木を持ってきて日陰を作ったりして、葉が焼けないようにしていますが。

    

ま、何はともあれ、枯れないで良かった。「花海棠は」見た目の上品さに反して、強い木なんですかね?。枝ぶりを覗いてみると、無駄に横走りしている枝があるので冬に入る頃に剪定してあげましょうかね?。最近思った事は「盆栽」とはこじんまりさせて幹を太くする事に勉める。その為には枯れない位に肥料を上げて元気にさせないとね。

案外と今のこの状態が針外しは好きですね。これから、勢いよく葉が茂るのを想像させるからだ。モカパパさんから頂いてから、何年経ったろう?。この樹も所謂「古木」になってきましたね。風格が出てきた観あります。

             


コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生というのは。

2021-09-26 09:29:38 | 日記

 中国には長江とか黄河と言う大河がありますが、広大な領土を延々と流れています。その時の気候等で、怒涛の荒くれになったり、平穏な時は流れが無いかの如くゆったりとした流れになったりします。

 よく人生は「大河の流れ」に例えられます。その人その人によって人生が違うのは当たり前の話で、その場その場を刹那的に生きている人もいるだろうし、ゆったりと表に出ず隠遁の生活を送る人もいますね。
針外しは中国の古典が好きなのですが何も宮中の雅な派手な生活を夢見ている訳ではありません。むしろ、陶淵明(尊称略)のような半隠遁の生活を好みます。これは気取ってそう、つとめている訳ではなく針外しがあまり才能がある訳ではなく必要に迫られたのでそうなったのあります。出しゃばって痛い思いをするのが嫌いだったのかもね。

 人生には色々あって、怒涛の中に飛び込むような人生もあれば、永楽を求めたり、栄誉を求めるのもあります。種々雑多です。

 大河のゆったりとした流れに身を任して無駄なあがきをしない、ゆっくりと流れに乗って海へと進んで全うする人生を昔から徳のある人生とされた。こうした背景には戦乱が多くあったからですね。その位で無いと、あっという間に「お陀仏」になってしまうからですね。
その間に人生には所謂「落とし穴」がやってきます。その時、役に立つのが物事を見極める「洞察力」だ。

自分が清廉潔白でなく、欲得で物事を決めてしまうととんでもない事になってしまう訳だ。雑念を出来るだけ払って、物の真実を見極めると、間違いが少ない。古の方で窮地に立った人はこれが足りなかったんだね。それでも人智で測りがたい事がありますが。

 そうは言っても人口が極端に多かった中国では、隠遁を望んでも「飯の食い上げ」になってしまいます、なにはともあれ「食」が優先だ。「貧すれば鈍する」では自分の理想とする生活なんて出来っこないね。また人口の多かった中国では年柄年中「戦に明け暮れて」それで調度いい人口になった。何とも皮肉だね。こういった背景で隠遁を求めるのも当然だった訳だ。
俗界を離れて生活するのに、仏教、道教も大きな働きがあったね。所謂、出家。

 でも、寺だってそう多くはありません。だから郊外に蘆を建てて,「晴耕雨読」の生活となる訳ですね。大河に身を任すような人生、下手に足掻けば溺れたり不遇の生涯を遂げる結果となります。じっと流れに身を任すと、世間で起きている出来事を観察できる。戦乱に遭遇して、不慮の死になったら誰だって嫌だからね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前回の話の続きです。

2021-09-24 07:23:42 | 日記

 針外しは以前から「従軍慰安婦」なる問題に違和感を感じていました。針の持論ですが、身贔屓と言われても何としてもこれだけは言いたい。
針は歴史にはあまり詳しくはありません。特に朝鮮史にはね。でこれからは針外しの推測も多々あります。

 日本は朝鮮に派兵したのは周知の事です。当時の朝鮮半島は両班に支配されていましたが、日本軍が駐屯されたからは、インフラ整備、鉄道網、教育では学校、庁舎等色々と整備が始まり朝鮮半島は、画期的に改革をされました。

当時の朝鮮は極貧の国家であり、国民は食べるものもなく、娘がいる家庭は、体を売れれば,飢え死にしなくて済むという事から、その子の親が周旋屋に連れてきました。つまり、色町とかに売られて居たわけですが、町中にはこうした娘を「斡旋」する輩が居たのでそうした娘を日本軍に連れてきたと思います。以前、小野田少尉がこの事を述べていて、規律が取れている軍がそれも「天皇陛下の御旗」の元、戦っている軍がそんな事をするなんて考えられない。」と言っていました。
此処で一言言っておきたいのですが人間飢えに苦しむとこうした事はしょうがないと思います。「食足りて礼節を知る」って言いますからね。決して誹謗するなんて事はしないでもらいたい。

    此処で aquosense411さんのブログの抜粋です。                   

  慰安婦に戻ろう。著者は日本軍に慰安婦がいたことを、知っていた。だが、慰安婦は1945(昭和20)年に、日本が敗れてから、世界のどこにも、いなくなったはずだった。
それなのに、どうしてまだ、韓国に慰安婦が存在しているのか、訝った。
 
 韓国軍の将官にインタビューした時に、どうして旧日本軍と同じように、慰安婦と呼んでいるのか、質問した。
  「李承晩政権が国軍を創建した時に、その幹部要員といえば、私のように、みな、日本軍の将校だった者でした。そこで、日本軍の制度が、そのまま、受け継がれました」という答えが、戻ってきた。
 
 韓国は、慰安婦を継承した、世界で唯一の国である。
その韓国から、日本に慰安婦がいたといって、非難されているが、もし、世界のなかで、日本の慰安婦を非難することが、絶対に許されない国があるとすれば、慰安婦を引き継いだ、韓国であるはずだ。
 
韓国における慰安婦について、韓国の学者グループによる、「軍隊と性暴力 朝鮮半島の二十世紀」という、優れた研究書がある。
  「慰安婦」の「目的は、第一に一般女性を保護するため、第二に韓国政府から米軍兵士に感謝の意を示すため、第三に兵士の士気を高揚するため」と、述べている。
  「「慰安婦」として働くことになった女性たちは、「自発的動機」がほとんどなかった」「ある日、韓国軍情報機関員たちにより拉致され、一日で韓国軍「慰安婦」へと、転落した」と、記されている。何と、ひどいことだろうか。
 
  日本軍の慰安婦のなかで、拉致されて、慰安婦となることを強制された者は、一人もいなかった。これらの事を踏まえると「従軍慰安婦」なる物は、韓国のとんでもない捏造っだった事が分かる。

 韓国と言わず朝鮮半島は千年もの間、中国の属国であったが為に中国に「タカリ」乞食国家から抜けきれなかった。其処へ敗戦国となった日本が出てきたので新しい目標が出来て訳だ。韓国は近年、朴政権時に日本と友好国になるチャンスだったがこれだけ「嘘の反日」を展開されるともう修復どころではないね。もう韓国を許せなくなってしまった。そうでなくてももう修復は出来ませんね。

どうしてもと言うなら、荒っぽい言い方だが、文在寅を血祭りにあげて貰わないと日本国民は納得できないだろう。もうそういう所まで来てしまった。もっともその前に、韓国民が文在寅を「売国奴」として許さないでしょうね。
大体前回の大統領選でかれが当選出来たのは、彼ならば間違っても「北」と戦う事は絶対ないと思ったからだ。韓国民は前の戦争と同じように、人の批判はするけど、戦うのは怖くてできない民族なんだね。若者は徴兵制で兵士になるのでさえ嫌がっているからね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログの中で

2021-09-21 08:43:22 | 日記

ブログでフォロワーさんの他に面白いとか興味のあるブログを見ているのですがその中でも群を抜いている物を掲載してみました。

 13. 中国・韓国と日本の違いの原点 「 2ホ 譲り合いの気持ちが誤解を生む」 - gooブログのテーマ探し!
 aquosense411さんのブログです。

  アッツ島・キスカ島戦記~兵士たちの想い~ アッツ島編 改訂版 - uparupapapa 日記 (goo.ne.jp)

 uparupapapaさんのブログです。

今の中国・韓国、太平洋戦争に基づいて嘘のない史実が述べられています。針外しが的外れな意見を差し挟んでも、良くないので此処に見に行って下さい。戦後の教育で教え込まれた物が如何に「嘘だらけ」だった事が分かります。この間違った教育・洗脳によって日本という国が駄目になりました。

古の国家は国民の知能レベルを高くさせない。むしろ「馬鹿」にして置く方が「政治が楽」なんですね。今の国会にしても「何をして来たんだ?」と言いたい。無駄に金をネコババする政治ばかりしているね。アメリカから兵器を買わされるのはしょうがないかもしれませんけど。
もう一度、世界観を見直す時期にきたんだとおもいますね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐の歴代皇帝(退屈な話ですが)

2021-09-16 08:47:05 | 漢詩・古典・エトセトラ
唐の高祖、太宗の話が出てきたのでちょっくら系図を辿ってみました。皆さんもこんなんで見なければ一生見ないでしょうね。ま、退屈極まりない話で恐縮です。
[唐(618~907)] TANG

李淵(566~635) Li Yuan
  字は叔徳。唐の初代高祖(Gaozu)。神堯大聖大光孝皇帝。在位618~626。隴西郡成紀の人。李昞の子。母は独孤氏。隋の煬帝の従兄にあたる。父の唐国公の位を襲爵した。
大業年間に岐州刺史・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。煬帝の高句麗遠征において糧食の運搬にあたり、楊玄感の乱のときは弘化留守をつとめて、玄感の攻勢を防いだ。大業十一年(615)、山西河東慰撫大使となり、龍門の母端兒を討ち、また突厥の侵入を撃退した。十三年(617)、太原留守に任ぜられ、太原に鎮した。このとき、隋末の混乱に乗じて挙兵した。長安を陥落させて、代王楊侑を隋の恭帝として擁立した。義寧二年(618)に煬帝が殺害されると、恭帝から禅譲を受けて即位した。
武徳と建元し、国号を唐とする。王世充・竇建徳らと争ったが、李世民らの活躍でこれを破り、武徳七年(624)に中国を統一した。在位中、律令新格を公布し、均田・租庸調制を定めた。軍府を置き、州県制を復活させた。長男の李建成を皇太子として立てていたが、李世民が李建成と四男李元吉の兄弟を殺害する「玄武門の変」が起こり、李淵も幽閉されて、李世民に譲位して太上皇となった。隋と唐は同じ身内だったんだね。

李世民(598~649) Li Shimin 唐の皇帝と言えばこの李世民をいいますね。西遊記でも三蔵との義兄弟になっている話があります。
  唐の二代太宗(Taizong)。文武大聖大広孝皇帝。在位626~649。高祖(李淵)の次男。隋末の混乱期、太原留守の父を挙兵させ、一軍を率いて四ヶ月で長安を陥落させた。このとき弱冠二十歳であった。李淵が即位すると、秦王に封じられ、尚書令となる。隋末唐初の群雄割拠の中で、強大化した王世充・竇建徳の連合軍を虎牢に破り、抜群の功績を挙げた。
               

「天策上将」などの官位を加号された。皇太子・李建成や斉王・李元吉と唐朝の後継者を巡って争い、武徳九年(626)長安の玄武門において建成・元吉の兄弟を殺害した玄武門の変)。父・李淵を幽閉して即位すると、貞観と年号を改めた。房玄齢・杜如晦をはじめとして広く人材を集めて、適材適所に配置し、三省六部の官制を整えた。その治世は、後世に「貞観の治」と称揚されている。国が安定すると、西域を経略、突厥が降伏・来朝したが、高句麗遠征は人民を疲弊させた。後継者選定に悩み、外戚・長孫無忌の推す暗弱な李治(高宗)を皇太子にしたことは、後に禍根を残すこととなった。


李治
(628~683) Li Zhi

  字は為善。唐の三代高宗(Gaozong)。天皇大聖大弘孝皇帝。在位649~683。太宗(李世民)の九男母は長孫皇后。貞観五年(631)、晋王に封ぜられた。十七年(643)、太子となる。二十三年(649)、太宗が崩ずると、帝位についた。
                    

永徽二年(651)、新律(永徽律)を公布した。四年(653)、『律疏』を修訂した。永徽の政は、太平がつづき、貞観の遺風があった。六年(655)、王皇后を廃して、武皇后(武照)を立て、褚遂良ら元老を左遷した。顕慶五年(660)ごろから朝政のいっさいは武后が決裁するようになった。在位中、西突厥を平定し、高句麗を破り、安西四鎮を廃止した。三たび太子を変え、武后が執政するようになると、年号を十四たび変えた。泰山で封禅をおこない、各地を巡幸した。晩年、頭痛に苦しみ、眼を失明して崩じた。
褚遂良は書道家としても有名ですよね。                 
李顕(656~710) Li Zhe
  またの名を哲。唐の四代中宗(Zhongzong)。大和大聖大昭孝皇帝。在位683~684、705~710。高宗(李治)の七男。永隆元年(680)、章懐太子李賢が廃されると、代わって太子に立てられた。弘道元年(683)、高宗が崩ずると、帝位についた。翌年二月、韋玄貞を侍中にしようとして、武后の怒りを買い、廃されて廬陵王となり、房州にうつされた。聖暦元年(698)、再び太子となった。武則天の病が重くなると、宰相の張柬之に擁立されて復位し、国号を唐に戻した。国政は皇后韋氏・安楽公主・武三思らに専断され、功臣の多くは粛清され、官爵は濫発された。のちに韋后に毒殺された。
此れより後は読めって言っても面倒臭いよね。好きな人は読んでね

李旦
(662~716) Li Dan

  もとの名は旭輪。唐の五代睿宗(Ruizong)。玄真大聖大興孝皇帝。在位684~690、710~712。高宗(李治)の八男。母は武則天。学問を好み、草書・隷書をよくし、文字訓詁をもっとも愛した。はじめ殷王に封ぜられた。のちに相王・豫王に移封された。嗣聖元年(684)、武后によって中宗が廃されると、帝に立てられたが、政治に参与できなかった。天授元年(690)、武后が立って国号を周と改めると、皇嗣に降ろされ、武姓を賜った。聖暦元年(698)、廬陵王(李顕)が太子となると、再び相王に封ぜられた。神龍元年(705)、中宗が復辟すると、司徒・右羽林衛大将軍となった。景玄元年(710)、韋后が中宗を毒殺すると、息子の臨淄王李隆基が韋氏や武氏を誅したので、復位することができた。姚崇・宋璟を相とし、中宗朝の斜封官をやめさせたが、政令の多くは太子李隆基や太平公主から出された。やがて太平公主が朝政を専断し、政治が乱れてきた。先天元年(712)、位を李隆基(玄宗)に伝え、自らは太上皇となった。翌年、玄宗が太平公主の党を誅殺すると、大権を帝に帰した。

武照
(623~705) Wu Zhao

  唐の高宗の武皇后(武周皇后)。則天武后。周の武則天(Wu Zetian)。在位690~705。并州文水の人。武士彠の次女。母は楊氏。十四歳で太宗(李世民)の後宮に入って、才人となった。太宗の死後に出家し、いったん尼となる。高宗の即位後、還俗して後宮に入り、昭儀となった。

                                                     

王皇后に自分の娘を殺害した冤を着せて失脚させ、取って代わって皇后となった。朝政に加わり、長孫無忌ら反対派を粛清し、一族を登用して実権を握った。高宗の死後、中宗(李顕)・睿宗(李旦)を相次いで立てたが、廃し、嗣聖七年(690)にはみずから聖神皇帝となった。国号は周。中国唯一の女帝となる。武力反抗を平定して、周制を復興。密告を奨励して、酷吏・寵臣を専横させたが、彼女の時代に登用された人材が玄宗の「開元の治」で活躍したことは評価されている。長安四年(705)、宰相の張柬之らが彼女に退位を迫り、中宗が復位して唐が復活した。同年、上陽宮で没した。上官婉児もこの時の人です。

                                                                                           

李隆基(685~762) Li Lungji
  唐の六代玄宗(Xuanzong)。至道大聖大明孝皇帝。明皇。在位712~756。睿宗(李旦)の三男。二歳のとき楚王に、八歳で臨淄王に封じられた。中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺して帝位につこうとしたとき、挙兵して韋一族を誅殺し、父の睿宗を帝位につけた。
              
先天元年(712)、父から譲位されて帝位についた。翌年、太平公主らを打倒して、全権を握り、開元と改元した。姚崇・宋璟らを登用して、官制を改革、外征を抑制して農民の生活を安定させ、戸口も増加し産業も発展して「開元の治」を現出させた。晩年は、宰相の張九齢を左遷して李林甫を登用し、楊貴妃と歓楽にふけって、政務を怠ったため、朝政は乱れた。李林甫が没すると、楊国忠と安禄山が争い、天宝十四載(755)には安禄山の乱をまねくこととなった。安禄山の軍が長安に迫ると、蜀に避難したが、その途中で帝位を皇太子(粛宗)に譲り、上皇となった。反乱が鎮圧されて長安に帰還した後、粛宗と不和となり、宮城内に幽閉されて、不遇な晩年を送った。
李亨(711~762) Li Yu
  唐の七代粛宗(Suzong)。文明武徳大聖大宣孝皇帝。在位756~762。玄宗(李隆基)の三男。開元二十六年(738)、太子に立てられた。天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、翌年玄宗に従って西行し、途中で別れて北上し、霊武で即位した。郭子儀・李光弼らを任用し、回紇に兵を借りて叛乱の鎮圧をはかった。至徳二載(757)、広平王李俶・郭子儀らが長安・洛陽を収復した。乾元二年(759)、宦官の魚朝恩を観軍容使とし、郭子儀ら九節度を統括して、安慶緒を討たせたが、史思明の軍に大敗した。また宦官の李輔国に禁兵をつかさどらせ、国政を専決させたため、百官でかれの意に逆らう者は失脚した。功臣を猜疑し、張皇后と李輔国が政治を専断し、子の建寧王李倓は冤罪で死んだ。張皇后が李輔国の排斥をはかり、かえって李輔国が張皇后を捕らえると、驚愕のあまり粛宗は病を悪化させて崩じた。
李豫(727~779) Li Yu
  もとの名は俶。唐の八代代宗(Daizong)。睿文孝武皇帝。在位762~779。粛宗(李亨)の長男。広平王に封ぜられた。粛宗のとき、天下兵馬元帥に任ぜられ、郭子儀らとともに長安・洛陽の収復にあたった。即位後、再び回紇兵の助けを借りて史朝義を討ち、安史の乱を平定した。叛軍の降将を河北諸鎮の節度使に任じた。前後して李輔国・程元振・魚朝恩といった専権をふるった宦官を除去した。広徳初年、吐蕃が来寇し、長安を失陥して、陝州に逃れた。のち郭子儀を起用して長安を回復した。劉晏を任用して、塩の専売を確立し、財政の立て直しをはかった。仏教に傾倒し、諸僧に護国仁王経を誦させたほか、金閣寺を建立して巨費を費やした。節度使の力を抑えることができず、藩鎮割拠の形勢がつくられた。
李适(742~805) Li Shi
  唐の九代徳宗(Dezong)。神武聖文皇帝。在位779~805。代宗(李豫)の長男。代宗の初年、天下兵馬元帥となり、史朝義を討ち、河北を平定した。即位当初、旧弊を改めんと志し、四方からの貢献を停止させ、宮女を削減した。租庸調制を廃止し、両税法を施行した。自ら恃むところの強い帝は、盧杞・趙瓚を任用し、劉晏を冤罪で殺してしまった。建中四年(783)には京師で兵変が起こって奉天に避難し、翌年には李懐光に叛かれた。のち李晟らの力戦により長安を収復した。帝は功臣を猜疑し、藩鎮の抑制をはかり、宦官に禁軍を統べさせた。陸贄・陽城・韓愈らを排斥し、裴延齢を重用して政治の腐敗は進んだ。
李誦(761~806) Li Song
  唐の十代順宗(Shunzong)。至徳弘道大聖大安孝皇帝。在位805。徳宗(李适)の長男。大暦十四年(779)、宣王に封ぜられた。同年末、太子となった。貞元二十一年(805)、徳宗が崩ずると即位した。王伾・王叔文らが輔政にあたった。病のため言語が通じず、宮中にいて王伾が消息を伝えた。在位八カ月にして宦官倶文珍らに退位を迫られた。位を太子の李純(憲宗)に伝え、太上皇となった。翌年、病死した。
李純(778~820) Li Chun
  もとの名は淳。唐の十一代憲宗(Xianzong)。昭文章武大聖至神孝皇帝。在位805~820。順宗(李誦)の長男。貞元二十一年(805)四月、太子に立てられた。同年八月、宦官倶文珍らに擁立された。順宗の代の政令をことごとく改廃し、王叔文を左遷し、柳宗元ら八人を遠方の司馬とした。杜黄裳・皇甫鎛・李吉甫らが執政にあたり、律令を修訂し、科挙を整え、官吏を減員した。藩鎮勢力の削減に着手し、元和十四年(819)までに淄青十二州を収復して、代宗以来の藩鎮跋扈の風がしばしおさまり、元和中興と称される。晩年、長生を求めて金丹を服用したため、怒りっぽくなり、宦官をしばしば罪に落として殺した。やがて宦官陳弘志により殺された。
李恒(794~824) Li Heng
  もとの名は宥。唐の十二代穆宗(Muzong)。睿聖文恵孝皇帝。在位820~824。憲宗(李純)の三男。建安郡王に封ぜられ、のち遂王に進んだ。元和七年(812)、太子に立てられた。憲宗が殺されると、王守澄らに擁立された。即位後、宴遊にふけり、国事に意をもちいなかった。佞臣に親しみ、忠臣をしりぞけ、法制は乱れた。両税と専売によって百姓の負担は増大した。朝廷内の朋党の争いは日増しに激しくなり、外では幽州・相州・鎮州で兵変が起こった。朱克融・王庭湊が定州・蔚州・貝州などを乱した。藩鎮の割拠が進み、財政は悪化した。長慶元年(821)、吐蕃と和議を結び、長慶会盟碑を立てて記念し、辺境が静まったことのみは評価されている。宦官の王守澄と宰相の李逢吉が結んで、国事を専制し、政治の腐敗は進んだ。帝は金丹を服用して死にいたったという。
李湛(809~826) Li Zhan
  唐の十三代敬宗(Jingzong)。在位824~826。睿武昭愍孝皇帝。穆宗(李恒)の長男。はじめ景王に封ぜられた。長慶二年(822)、太子に立てられた。穆宗が崩ずると即位した。遊宴・打毬・奏楽・角抵を好んで、芸人を近づけ大臣を遠ざけた。側近の小罪をとがめては責め打っていたので、恨みを買い、宦官の劉克明に殺された。
李昂(808~840) Li Ang
  もとの名は涵。唐の十四代文宗(Wenzong)。元聖昭献孝皇帝。在位826~840。穆宗(李恒)の次男。江王に封じられたが、兄の敬宗(李湛)が宦官の劉克明に殺されたため、王守澄・梁守謙らに擁立された。劉克明を殺して帝位についた。『貞観政要』を好み、政道に励んだが、官僚の間の「牛李の党争」に翻弄され、宦官の台頭に悩まされた。以前に取り上げた「李商隠」も関係していますね。大和九年(835)、李訓・鄭注らが宦官誅殺をはかったが失敗し、宦官の仇士良らは宰相の王涯を誅したのをはじめ、李訓ら十余家を族誅した(甘露の変)。以後、宦官勢力に掣肘され、「周の赧王、漢の献帝は強臣に制せられたが、朕は家奴に制せらる」と嘆いたという。開成初年、『石壁九経』を建て、儒家諸経典の誤謬を正した。
李炎(814~846) Li Yan
  唐の十五代武宗(Wuzong)。至道昭粛孝皇帝。在位840~846。穆宗(李恒)の五男。はじめ穎王に封ぜられた。兄の文宗(李昂)が崩ずると、宦官の仇士良・魚弘志らが太子の李成美を廃して、かれを擁立した。宰相の李徳裕を信任して、李党によって政権は牛耳られた。会昌三年(843)、劉沔を派遣して回鶻の烏介可汗を破り、大和公主を迎え帰国させた。五年(845)、仏像の廃棄や僧尼の還俗を命じ、寺院の土地や奴婢を没収した(会昌の仏教弾圧)。方術神仙を尊び、道士趙帰真ら八十一人を禁中に召し、法籙を受けた。金丹を服用し、中毒死したという。
李忱(820~859) Li Chen
  もとの名は怡。唐の十六代宣宗(Xuanzong)。元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝。在位846~859。憲宗(李純)の十三男。はじめ光王に封ぜられた。武宗の病が重くなると、宦官の馬元贄らにより皇太叔に立てられた。即位後、李徳裕の党を排斥し、牛僧孺の党を任用した。廃仏をやめ、趙帰真らを殺し、州県の官を増置して、前代の政風から一変させた。裴休を任用して、運河の水運を改善したほか、内政につとめた。「大中刑法統類」を撰した。吐蕃が内紛で弱体化し、張議潮が河湟十一州の地をもって帰順してきた。晩年、神仙に凝って服薬し、それがもとで崩じた。小太宗と称される治績を挙げたが、唐の衰勢を止めることはできなかった。
李漼(833~873) Li Wen
  もとの名は温。唐の十七代懿宗(Yizong)。昭聖恭恵孝皇帝。在位860~873。宣宗(李忱)の長男。はじめ鄆王に封ぜられた。宣宗の病が重くなると、左神策軍中尉の王宗実らが詔と偽って太子に立てた。宣宗が崩ずると即位した。在位中、政務を怠り、遊宴に節度がなかった。仏教を篤く信じ、仏骨を鳳翔に迎えた。咸通元年(860)、裘甫の乱が浙東で起こった。九年(868)、龐勛が桂林で起兵した。藩鎮がしばしば兵乱を起こし、南詔がたびたび辺境を騒がせた。政治は混乱し、民衆の負担は増大した。帝の死後、王仙芝・黄巣の乱として不満が爆発することとなる。

李儇
(862~888) Li Yan

  もとの名は儼。唐の十八代僖宗(Xizong)。恵聖恭定孝皇帝。在位873~888。懿宗(李漼)の五男。晋王に封ぜられた。懿宗が崩ずると、宦官の劉行深らに擁立されて帝となった。即位すると、宦官の田令孜を重用し、阿父と呼び、政治の一切を委ねた。ときに南詔との戦いは日ごとに激しさを増し、軍費は増大し、財政は悪化していた。加えて連年、水害・旱害・蝗害が起こり、賦税の負担は重く、人民は苛斂誅求に苦しんだ。乾符初年、王仙芝・黄巣の乱が山東で勃発し、瞬く間に広がりをみせた。広明元年(880)、黄巣が洛陽・長安を攻め落としたため、帝は田令孜とともに蜀に逃亡した。中和五年(885)、長安に帰還した。田令孜と王重栄が塩の利権をめぐって争い、河東節度使の李克用らが長安に迫ったため、再び都落ちした。ときに江淮の地方の賦税は関中に届かず、各地の諸藩は気ままに攻伐を繰り返した。唐室は名のみ存して、実質の力を持たなかった。

李曄
(867~904) Li Jie

  もとの名は傑。のちに敏と改名した。唐の十九代昭宗(Zhaozong)。聖穆景文孝皇帝。在位888~904。懿宗(李漼)の七男。はじめ寿王に封ぜられた。兄の僖宗が崩ずると、宦官の楊復恭らによって帝に擁立された。宰相の崔胤が藩鎮の兵を借りて宦官を誅殺しようと謀り、ひそかに汴州の朱全忠を呼び寄せた。帝は神策軍中尉の韓全晦によって鳳翔に連れ去られ、李茂貞のもとに拠った。朱全忠は鳳翔を囲み、李茂貞が降って、帝も長安に帰還した。朱全忠が宦官を殺しつくし、朝政を専決した。朱全忠が崔胤を殺し、洛陽遷都を決行すると、帝は各藩鎮に朱全忠討伐の密勅を送った。まもなく帝は殺された。

李祝
(892~908) Li Zhu

  もとの名は祚。唐の二十代哀帝(Aidi)。昭宣光烈孝皇帝。在位904~907。昭宗(李曄)の九男。乾寧四年(897)、輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を殺すと、詔と偽って太子に立てられ、にわかに即位した。朱全忠が朝政を専断しており、完全な傀儡であった。天祐四年(907)、朱全忠に帝位を譲り、曹州にうつされて、済陰王に封ぜられた。翌年、朱全忠に殺された。ここに唐は滅んだ。後唐の明宗により昭宣帝と追諡された。朱姓は明の皇帝の姓です。

                                               
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェンダーの真空管アンプを修理に出しました。

2021-09-11 08:58:13 | ギタ-・ロックの話

針外しの長男が手に入れた、Fender-DX リバーブアンプ ”HOT ROD”、調子が悪く、渋谷にあるイ〇〇楽器に修理に出したのだが、山から帰って着て久しぶりに音をだしてみようとしたら、何と音がかすかに出ているのだが、ボリュームを高くしても出ません。そうこうしているうちに全く出なくなってしまいました。

ありゃま、やっぱり根本的に治っていなかったんだね。渋谷のイ〇〇楽器の修理部門は狭い車の通れない奥にあるので大変な思いして運び入れたんですけどね。とぶつくさ言ってもしょうがないので、ネットであれやこれや検索してみると大田区の西糀谷に個人のお店をみつけました。名前は「Prosound SOS]  さんです。



           

人当たりの良い、温厚そうなご主人が応対してくれて、アンプを預けて帰って着ました。でその日のうちに見積もりが着てそれももう既に直ってしまったみたいです。やはり専門の方は見るべき処をちゃんと見るんですよね。

       

 で  ファックス見てみると何と、驚くべき安さ!。13310円だって。慌てて電話してみると、No2 のプリ管の処の何かが(針はど素人なのでこれが何か分かりません,多分抵抗か何かだね。)断線していたんだって。とは言っても「ブッツリ」切れているんではなくて、経年劣化で、徐々に切れた状態なのかもね。(最初は少し音が出ていました。) 
           

             

これじゃ素人は分かりませんよね。ま、カスタマーになれた感じがるので何かあったらまたお願いするとしよう。ソリッドのアンプ直せるか聞いて見ないと分かりませんが、いいお店を見つける事ができたね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まあ、こんなおっさんへのメッセージは出さないかも知れませんが。

2021-09-05 06:45:45 | 日記

以前から「メッセージを送る」で送られた「メッセージ」が何処かへ行っちゃって困って昔の「水郷爆釣隊」の隊長へ連絡したり、聞いてみたりしたんですが上手く行かなかった。

WEB検索しても返って分からなくなったりね。色々やってみて「何でい、簡単じゃねーか!」。答えが出るとこんなに簡単だったんだと思う事が多いね。

 こういう裏の設定は変に変えてしまうと機能しなくなってしまうのでいじりたくなかった。最初このブログは釣り仲間の「ガラガラ君」が作ってくれたので猶更いじれなかった。人に作って貰った程、訳が分からないのは当然だね。下手にいじると機能しなくなると思うのは、やはり針外しは恐竜がいきていた時代に生まれた証なのかも。とほほ。

                  

で、テストで送っても何処に反映されているか分からなかったね。Web検索しても何処が違っていたか分からんチンだ。

ただ、メール設定がPCとあったので試しに入れて見たらなんてことは無かった。ちゃんと届きました。PCメールにね。何故手間取ったかというと、緑で消したメールアドレスが「触ってはいけないのだとばかり思っていたからです。下手にいじるとブログ自体表記しなくなっちゃうと思ったからです。一応念の為にアドレスをメモっておいて我が家のPCのアドレス入れてテスト送信したらあっという間に届きましたぞな。

       

パソコンを49の時に友達から教わってなんだかんだ言って、何とかここ迄出来るようになったのは人生の幅が広がったんでないかね?。問題が解決すると、急に世界が広がった感じがする。またこんなおっさんへの嫌がらせは無いと思いますが、着ても見ずに削除してしまいますので悪しからずね。コメントもね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近、参加です。

2021-09-02 17:27:39 | 野鳥の話

  山の餌台に最近、ニューフェースが参加です。野鳥の大きさは「雀」を基準していまして、シジュウカラ(四十雀)ゴジュウカラ(五十雀)ヤマガラ(山雀)のように「ガラ」に雀の字を当てています。ヤマガラの様に、山のスズメなんですね。   

最近、ガタイの大きい、鳥が来るようになりました。例えて言うと、柔道の野村君と長州力位の差かなあ!。遠目にも大きさの差が分かります。図鑑を見てみると
  

シメ

スズメ目アトリ科 全長約19cm

多くは冬鳥として各地の林に飛来し、庭や公園でも見られ、北海道など北日本の一部で繁殖する。雀より少し大きく、太いくちばしや短い尾が特徴で、波状飛行する。地鳴きは、細い声で短く不規則に鳴く。シメのさえずりは、地鳴きとの区別がつきにくく、春には繰り返し続けて鳴くことがあり、これがさえずりらしい。

      
    目付きが鋭いね。達磨さんみたいだ。

多くの小鳥は木の実を食べる際、細いくちばしでくわえて丸呑みにし、タネをフンで出して、種子散布に貢献しています。カワラヒワの解説で、「太めのくちばしでタネを食べる小鳥は、野鳥では主流派ではない」と書きました。シメは非主流派の中でも、くちばしの太さではチャンピオン。私たちがリンゴをガブリとやるときと同じくらいの、およそ50㎏に及ぶ力で、固いタネもかみ砕くことができます。
シジュウカラやゴジュウカラ、ヤマガラがよくきていましたが、最近カワラヒワが群れで来て餌台を占領していますのであまり来なくなってしまいました。この「シメ」が来るとカワラヒワが逃げますのでゴジュウカラも来るようになりました。

アオゲラ

また、アオゲラが近くに来るようになりました。とは言ってもアカゲラよりも目立たないので気が付かなかったのかも知れません。初めて気が付いたのが「森谷先生」の家の前の道路に降りていて近付くと庭木に上がって「こんこん」と木を鳴らしていました。道路に降りていたのは多分、虫を食べていたんだろうね。山の夏はいやと言うほど虫の宝庫ですからね。

飛んでいる時も木の色と同化して判別しにくいね。でも近くで見ると羽の若草いろがとても綺麗です。この鳥見ると何か、幸せになった気分です。

屋久島から本州にすむ緑のキツツキ。全長:29cm 強い声でキョッ、キョッと鳴く他、ケラララと続けて大声を出す。繁殖期にはピョーという大声も出す。日本特産種。渡りではなく留鳥ですね。


      

家の壁に止まって「コンコン」とやっているのはこの鳥かも知れません。以前我が家のログに穴を開けて、炊事場の横迄空洞なのか降りてきて冬の間、コンコンと鳴らしていたことがありました。最初は、ヤマネか野ネズミが入ってきてしまったのかと思いましたが、どうやらこのアオゲラ君の悪戯だったのかもね。もしかしたら雛が生まれたのかも。

因みにアオゲラは緑啄木鳥と書くようです。青=アオではありません。実物見ると綺麗な鳥ですね。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする