針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

趙の軍師 李牧

2023-03-29 09:59:23 | 漢詩・古典・エトセトラ

      まだまだ、優れた軍師がいました。                                             

                                                                     李       牧

                                                                     

李 牧(り ぼく、紀元前229年)は、戦国時代の趙の武将。名は(さつ)、字は。  白起(はっき)、王翦(おうせん)、廉頗(れんは)と並ぶ戦国4名将の一人。『史記』「廉頗 蘭 相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけています。

 李牧は代郡・雁門郡に駐屯した期間、軍を率いて匈奴を大敗させた。また、肥下の戦い・番吾の戦いで秦を大敗させ、武安君に受封された。だが、最終的には讒言を信じた幽繆王(ゆうみょうおう)によって殺害された。李牧の死後、趙の首都、邯鄲(現在の河北省邯鄲市)は秦軍によって陥落し、幽繆王は捕虜となり、趙は滅んだ。

北方の長官

 元々は趙の北方、代郡・雁門郡に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。警戒を密にして、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・籠城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである

だが、そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので、任を解かれた

 李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため、趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった

 ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた単于(たんう)が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった

 その後、李牧はさらに襜襤(せんらん)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。紀元前243年、悼襄王(とうしょうおう)の命で燕を打ち、武遂や方城等に侵攻した。

斜陽の趙を守る

閼与の戦いで秦を破った名将、趙奢を亡くし、政治外交で秦に対抗し得た藺 相如(りんそうじょ)が病で伏せていた趙は、紀元前260年の長平の戦いで秦に大敗し、そののち藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前236年に鄴が秦に奪われ、234年には趙将扈輒(こくちょう)が指揮を執る軍勢が平陽で敗れて、10万人が犠牲になった。(平陽の戦い)。そのため、幽繆王は李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。

233年、北辺の功を認められた李牧は幽繆王の命により、中央に召還され、大将軍に任じられた

 同年、秦が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた。その際、宜安を攻めた秦将、桓齮を肥下の戦いで討っている(あるいは敗走させた)。この功績により、李牧は武安君に封じられた

 紀元前、232年秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した(番吾の戦い)。さらに、李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還し、その勢力を南に押し返した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。

最期

  紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は趙攻略のため、今度は王翦を将とした大軍を趙に侵攻させた。そのため、趙は李牧と司馬尚(司馬卬の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣の郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。また、幽繆王の母の悼倡后(とくしょうこう)も秦から賄賂を受け取り、趙王に讒言をした

 趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、讒言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された

 李牧の死後、趙軍は趙葱と顔聚が指揮を執ることになったが、3ヶ月後(あるいは5ヶ月後)に彼らは王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害された。邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡した(紀元前228年)

北方の守備隊長
李牧の悲劇 - ゆっくり歴史解説者のブログ (rekishi-shizitsu.jp)  こちらから引用させて頂きました。

 李牧は、趙の宰相として登場したりもしますが、史記だと秦王政の言葉で「宰相の李牧が秦に来て誼を結んだ」とする内容があります。始皇本紀の統一後の嬴政(えいせい・始皇帝)の言葉です。

 史記の廉頗、藺 相如列伝では、李牧は北方にある代の守備隊長として登場します。戦国策の趙策に李伯が趙の孝成王の信任を受け、代の長官になった話があり、李牧の一族か本人の可能性もある様に感じました。李牧は代の守備を任されるわけですが、敵が攻めてくると、城に籠ってばかりで戦おうとしません。味方の趙兵でさえも李牧の事を臆病な人だと思っていたそうです。

趙王(趙の孝成王??)も李牧に戦えと命令しますが、李牧は守ってばかりで戦おうとはしません。損害も大してありませんが、何の手柄も立てない状態でした。趙王もついに李牧を解任して別の人を代の長官にします。すると、新任の長官は匈奴が攻めてくるたびに、出撃して戦ったのですが、被害ばかりが増えてしまい、手柄を上げる事が出来ませんでした。

代の地は軍費で消耗し多くの家畜を匈奴に奪われ、農耕も牧畜も出来ない土地になっていきます。趙王は自分の非を悟り再び李牧を隊長に命じます。この時に、李牧は趙王に「自分のやり方に口を出さない事」を条件に隊長(長官)を引き受けたとされています。

この後、また守備重視の方針でやったとされています。尚、史記によれば李牧は幕府を開き自分の裁量で決められる権利を有していた様です。李牧が治めた地では兵士の待遇がかなり良かったらしく、兵士が自分から戦いたいと李牧に戦いを望みました。

それを聞いて李牧は「然り」と喜んだとされています。兵士が戦いを望むようになると、李牧は原野を人で溢れさせ大規模な軍事訓練を行います。その後、北の匈奴が少数で攻めてきた時に、わざと負けて敵を油断させています。

匈奴は李牧は弱いと判断し、大軍で攻めて来ますが、ここで李牧は応戦する事になります。ただし、李牧は匈奴が突っ込んで来るように、匈奴に略奪させる為に家畜と民衆も用意していたのではないでしょうか。

しかし、李牧は鳥の羽を広げるような陣形を用いて、敵を破ったとされています。つまり、鶴翼の陣を使ったと言う事なのでしょうか?

西の方ではカルタゴの名将ハンニバルが左右の騎馬隊を重視した戦法を使っているので、同じ時期に東西で名将が鶴翼の陣らしきものを使っていた可能性があります。その後、北方に攻め込み匈奴などを大敗させ、匈奴などは10年間に渡って趙に手を出せなかったとする話があります。

中華の国と匈奴

李牧が名将たる由縁の一つは、匈奴を完膚なきまでに破った事でしょう。歴代の中華王朝は、漢の劉邦が冒頓単于に敗れたり、西晋が八王の乱で混乱し北方などの異民族が大量に中華の地に押し寄せてきました。

国では北虜南倭の言葉もあり、歴代中国王朝は北方の遊牧民に苦しめられています。秦の始皇帝が万里の長城を建設したのも匈奴への備えです。

李牧が北方の匈奴に対して、大戦果を挙げ中華を守った事は名将と言われる所以ではないでしょうか。因みに、蒙恬(もうてん)も秦の統一後に30万の兵士を使い匈奴を破っています。秦軍を相手に連戦連勝です。李牧は北方での手柄が認められたのか秦軍と戦う事になります。北方での功績が認められ、中央に召喚されたのでしょう。

尚、廉頗が魏に亡命するなどの事件もあった関係で李牧が呼び出された可能性もあります。しかし、ここでも李牧は大活躍します。燕の城を落としたり秦軍が攻めて来ても撃退したりと大活躍しています。桓騎を破ったりもしているのです。

分かっているだけでも、宜安の戦い肥下の戦い番吾の戦いで秦軍を撃退し趙の防衛に成功しました。紀元前236年に秦の王翦、楊端和(ようたんわ)、桓齮(かんぎ)によ鄴攻めが行われ趙は多くの土地を失っています。

この時期に秦軍を相手に連戦連勝した李牧の活躍は特筆すべきものがあります。

この時代ですが、戦国七雄の楚・魏・燕・趙・韓・斉などの国がありましたが、秦軍の圧倒的な強さの前に太刀打ちが出来ない状態で、秦軍を撃退出来るのは李牧だけだったとも言えるでしょう。幽穆王も李牧の功績を認め武安君としました。

趙の悼襄王に諫言

趙の悼襄王は、美貌で知られる遊女の悼倡(とうしょうごう)を側室に迎えようとします。李牧は「悼倡后は過去に嫁いだ家を破滅に導いている」とし、反対します。

しかし、悼襄王は李牧の進言を聞かず、悼倡后を側室として迎えてしまうわけです。悼倡后が子を生むと、悼襄王は太子を趙嘉から、趙遷に変えています。趙遷が後の幽穆王であり、悼襄王が紀元前236年に亡くなると趙王に即位する事になります。

尚、紀元前228年に秦が攻めて来ると、悼倡后は郭開と共に李牧を讒言した話があります。

とまあ、この位にしておきます。後は文献探し出して読んでね。司馬遷の『史記』とか『十八史略』なんか見るといいざます。→と勝手な事を言う針外しなのでした。

 

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呂不韋が出たので、次は李皓鑭(り こうらん)です。

2023-03-24 14:36:30 | 漢詩・古典・エトセトラ

        【李皓鑭】(りこうらん)

紀元前3世紀の中国。趙(ちょう)国の名家の娘の李皓鑭(り こうらん)は、継母の陰謀で家を追われ、奴隷として売られてしまったが、 大商人の呂不韋(りょ ふい)に買われて助けられた。呂不韋は皓鑭の美貌と才覚に惚れ込み、奴隷ではなく立身出世の同志と認め、 王族との繋がりを求める呂不韋によって、舞姫として宮廷に送り込まれる事となります。

自らの能力で舞姫から女官に出世する皓鑭。そんな皓鑭に好意を持つ異人(いじん)。異人は隣国の秦(しん)の王子だが、人質として趙国でひっそりと暮らしていた。 異人を秦の国王に推すという壮大な野望を抱く呂不韋。現在は権力もなく、王子とは名ばかりの異人だが、恩を着せれば呂不韋は秦で大きな権力を得られる。 秦国での異人の立場を向上させるために、密かに工作を開始する呂不韋。

               

一方の皓鑭は、陰謀の渦巻く趙国の王宮で、王妃付きの女官にまで出世した。皓鑭と呂不韋は互いに好意を持ってはいたが、関係は同志のまま。協力し、時に対立して続いて行った。 しかし、遂に罠に落ち、卑しい下級兵士の妻にされかかる皓鑭。 そんな皓鑭を、結婚することで救ったのは異人だった。皓鑭は戦乱のさ中に異人の息子の政(せい)を出産した。 同じ頃、隣国の秦で、異人の復権に成功する呂不韋。異人は呂不韋の手引きで趙国を脱出し、秦国に戻った。

息子の政と共に趙国に残され、不遇の8年を耐え忍ぶ皓鑭。異人(子楚と改名)は秦の王宮で遂に王太子(世継ぎ)の地位に就き、皓鑭親子を呼び寄せた。 秦国の王宮でも、数々の陰謀に打ち勝っていく皓鑭。異人(子楚)はついに国王に即位した。 しかし、病のため数年で崩御する異人(子楚)。代わって息子の政が国王に即位し、呂不韋は王にも勝る権力を手に入れた。 国王の妃(きさき)選びの日。呂不韋の計略で、身分の低い恋人を自死させてしまう政。しかし、若い王にはまだ、呂不韋に逆らう力は無い。 夫を失った皓鑭に関係を迫る呂不韋。しかし、今の皓鑭は、息子の困難な行く末にしか関心はなかった。

太后となった皓鑭は、嫪毐(ろう あい)という男を見込んで重用していた。しかし、世間では嫪毐が太后の愛人で子供までいると根も葉もない噂が立った。図に乗った嫪毐はクーデターを起こし、王宮に迫った。だが、若き王の政は頼れる家臣たちと共に嫪毐を成敗し、勢いのまま呂不韋を失脚させることにも成功した。 実の母の皓鑭までも、クーデターの共犯者と信じ、離宮に幽閉する政。

しかし、全ては皓鑭の計略だった。暴走する嫪毐を逆に利用し、政にこれを討たせることで、王としての自覚を持たせ、同時に権力を持ち過ぎた呂不韋をも排斥したのだ。 流刑と決まった呂不韋は自ら毒をあおって死に、皓鑭はその数年後に、離宮で静かに生涯を終えた。

【李皓鑭】

についてはDVDが出ていますので配役を紹介します。

趙国

秦国[編集]

  • 嬴稷(えい しょく) - 賀強(ホー・チアン)廷の医師。秦の国王。
  • 嬴柱(えい ちゅう)/安国君 - 王茂蕾(ワン・マオレイ)秦の太子。異人の父。
  • 嬴子傒(えい しけい)- 王雨(ワン・ユー)安国君の息子。異人の異母兄。
  • 華陽(かよう)夫人 - 譚卓(タン・ジュオ)嬴柱の正室。
  • 夏姫(かき) - 何佳怡(ホー・ジアイー)嬴柱の側室で、異人の母。
  • 范雎(はん しょ) - 譚建昌(タン・ジエンチャン)秦の丞相。
  • 白起(はく き) - 于彦凱(ユー・イエンカイ)秦の将軍。
  • 羋絲蘿(び しら) - 方安娜(ファン・アンナー)異人の側室。

    一時中国の「人民日報」とかは、歴代の漢室の皇帝、(例えば劉備玄徳)とかを、取り上げないで、残忍・非道で通っていた「秦の始皇帝」を功労者、真の皇帝として崇め奉っていましたね。だから。自分達。共産党が良く描かれている様に歴史を改ざんしてまでもストーリーを書き換えてしまっています。

    でもかの「レッドクリフ」の監督・監修者の如く低レベルで作り上げた映画は全く以って頂けないですよね。大体周瑜の奥方が「曹操が私の為に戦を起こした」として敵陣の曹操の元に出向き戦争を止めさせるなんて、馬鹿も休み休みしろといいたいですね。軍隊とか紅衛兵でエキストラとして出すのはいい。また軍船とかの大きな装備もまあまあいい。でも人間の行動が、皆昔から使われてきたストーリーをそのまま持ってきているのには呆れるばかりだね。
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日本勝ったぞ!。

2023-03-21 13:38:18 | 日記

イヤー、勝つとは思わなかったよ。こんな展開あるんかい?。最終回9回裏、最後の打席、「村神様」で「終わったな」と終わったなと思いました。最後の土壇場で「さよならヒット」なんてまるで漫画の世界だぞ。

         

何はともあれ、「おめでとう!」・・・・・・・めちゃんこ疲れたぞ。まだ、抗癌剤の後遺症が?、が抜けてないのに、身体がガタガタです。

 

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呂不韋について。

2023-03-20 09:52:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

呂 不韋(りょ ふい、 紀元前235年)は、中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王を王位につけることに尽力し、秦で王に次ぐ権力を持つ相国として権勢を振るった。荘襄王により、文信侯(ぶんしんこう)に封じられた。始皇帝の実父とする説もある

                                                                             
                                                                                                呂不韋

【奇貨居くべし】

 呂不韋の出身地は二説あり、韓の陽翟(『史記』呂不韋列伝)と衛の濮陽(『戦国策』)とである。商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き、商売で富を築いた。

 趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子の異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目にして、「これ奇貨なり。居くべし (これは、思いがけない品だ。仕入れておくべきだ)と言った。陽翟に帰った呂不韋は父と相談し、話し合いの結果、将来のために異人に投資することで結論がまとまったといいます。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。

 当の異人は、当時の秦王であった昭襄王の太子の安国君(後の孝文王)の子とはいえ、20人以上の兄弟が居ただけでなく、生母の夏氏が既に父からの寵愛を失っていたため王位を継げる可能性は極めて低く、母国の秦にとっては死んでも惜しくない人質であった。しかも趙との関係を日増しに悪化させていた秦の仕打ちによって、趙での異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があったのです。

【世子を擁立】

呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導し、自身は秦に入って安国君の寵姫の華陽夫人の元へ行き華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人のことを実の母親のように慕って日々を送っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子がなく、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めたのでした。

趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の公女だったのでこれに因んで名を子楚と改めています。

 呂不韋は趙の豪族の娘、趙姫を寵愛していたが、子楚は彼女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、彼女を子楚に譲った。このとき、彼女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまったという。これが政(後の始皇帝)であるとされる。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』呂不韋列伝でもこれを事実として書いているが、秦始皇本紀では触れていません。

【秦の宰相】 

 紀元前251年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は相国(当時は相邦と呼ばれていた)となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の相国として彼の権勢は並ぶものがなかったのです。  

 紀元前247年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。

紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の五国の合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられています。

【一字千金】

 この時期には孟嘗君や信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3000人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯(りし)がおり、その才能を見込んで王に推挙しました。

 更に客の知識を集めて、紀元前239年には『呂氏春秋』と言う書物を完成させた。これは当時の諸子百家の書物とは違って、思想的には中立で百科事典のような書物である。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、市の真ん中にこれを置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には千金を与える」と触れ回ったといいます

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ログのメンテ。

2023-03-16 10:45:10 | 立科・信州の話。

10年も経つと、ログの外壁が「カビ」で汚れてきます。また、屋根の「チップ ストーン」も傷んで来たのでどういう修理するのかわからないけど、苔を落として塗料を塗るんだろう。多分。

後は窓周りと天窓のパッキンの交換です。

外壁は所謂カビキラーの業務用の液体で塗料を塗る前にした処理をします。前に2~3回塗料を塗っているので木全体が腐っている訳ではありません。暫くするとカビが取れて綺麗な色になっています。表面のカビキラーを水で落として2,~3日乾燥させてから、メープルの塗料を塗ります。こういう塗料は「和信工学」の「キシラデコール」と相場が決まっていますね。

    

これさえやっておけば、100年持つと言われています。実際、RCコアーの監督に聞くとそう答えが返ってきます。放っておくと、カビで侵されて「スカスカ状態」なって崩れてしまうんだろう。ログの家は壊れる事はまずないのだが、こういうメンテは欠かせないんだね。

      
    

13日に打合せがあるので前の日から待機していたんですが、朝からそこそこの雪が降ってきて「足場」を組む業者さんは大変だったね。次の工程の外装屋さんはいい天気になって仕事がはかどりました。
昔は足場を組むのに結構時間がかかっていました、継ぎ手」とか「番線」で組んでいくんですが、当時は大変でしたね。今は継ぎ手の代わりに釣り竿の「印籠接」みたいに「スポスポ」と簡単に繋いでいきます。実際8時半に来て11時過ぎには終わってました。

    
                      瓦に白く付いているのは苔ですね。

晴れの日が続きそうなのでこの分だと予定より早く終わりそうですね。  

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垓下の戦い

2023-03-08 19:20:35 | 漢詩・古典・エトセトラ

垓下の戦い(がいかのたたかい)は、楚漢戦争期の紀元前(202年)’に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県)を中心に行われた戦 いです。

        

      紀元前(203年)広武山で長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の負傷や劉邦の父の劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどの理由があり、両軍とも戦いを止めることを願うようになった。漢軍から弁士の侯公が楚軍へ使者として送られ、天下を二分することで盟約が結ばれた。(西は劉邦の漢、東は項羽の楚)

 楚軍は本拠地の彭城(ほうじょう)(現在の(江蘇省徐州市)への帰還を始めたが、劉邦は張良、陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。

(皆さんは日本人だから(針も日本人だよ)こういう約束を平気で破る事について抵抗があると思います)中国では騙された奴が悪いという事になります。

日本も将来中国と条約を結ぶ時、この事を念頭に入れておかないとひょっとして変な事になりかねないね。

漢軍は楚軍を追って固陵(現在の河南省周口市淮陽区の北西)という所まで進み、同時に韓信と彭越にそれぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現在の河南省周口市太康県)に兵を進めた。しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。

 張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては睢陽より北の穀城に至るまでの土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚の大司馬周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と洨城(現在の安徽省、蚌埠市固鎮県)付近の垓下の劉邦の下に集結した。

                                                             
              垓下の唄 項羽の詠んだ歌だ。

漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔藂と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。

 韓信は自ら先頭に立ち項羽ら楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。しかし、孔藂と陳賀が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び楚軍を攻撃すると、楚軍は大敗した。

 敗れた楚軍は防塁に籠り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に

楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から、敵や反対する者に囲まれて孤立することを四面楚歌と言うようになった。)

 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人という愛妾がおり、またという愛馬がいた。これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ。(垓下の歌)。

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。

 宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰(かんえい)が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城(現在の安徽省徐州市定遠県の南東)に辿りついたときには項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。

 ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここで私が滅びるのは天が私を滅ぼそうとするからで、私が弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう」と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士、八・九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。

                                                     
            この地図を見ると如何に項羽が逃げて来たかが分かる

  項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省、馬鞍山市、和県、烏江鎮)に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません」と告げた。

 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び私を王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか」と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。

  項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いを起こしたほどであった。結局遺体は5つに分かれ、呂馬童を含む5名それぞれに5等分された領地が渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。

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 王昌齢の出塞行 

2023-03-05 08:48:08 | 漢詩・古典・エトセトラ

 兎角漢詩とかを読む時に、情景を浮かべながら、その世界に入れれば、より理解度が増しますね。針の知り合いに書道の先生がおりまして、なんでも師範とかを審査する位偉い先生だとか。字を見ていると吸い込まれて、自然に情景が瞼に浮かぶんだね。

                                
                                                            王昌齢

   【 出 塞 行  】                                    

白草原頭望京師    白草原頭 京師を望めば           白い草原の端からみやこを眺めると

黄河水流無盡時   黄河 水流れて尽くる時無し         黄河の水が流れて尽きることがない

秋天曠野行人絶   秋天 曠野 行人絶ゆ             秋天 曠野 行人絶ゆ

馬首東來知是誰   馬首東来するは知んぬ是れ誰(た)そ    馬の首を東に向けやって来る人はいったい誰だろうか 

【詩の意味】

 白草の生い茂る高原にたたずみ、都の方を望めば、都は遥かに遠く見えず、ただ黄河の水は滔々と西より東に流れ、尽きることがない。

 秋の空も淋しく、塞外の広野を往来する人影も絶えたが、折しもただ一人馬首を東へ向け都の方へ向かう旅人がある。あれはいったい誰であろうか(私も都へ帰りたいものである)。

[語句の意味]

  • 出塞行
    楽府題 辺塞守備の兵士の辛苦を述べたもの 「行」は歌
  • 白草原
    新彊省羌(きょう)県地方の高原とするも所在は不明 白草(一つにやまかがみ)が一面に生えている原野
  • 京 師
    都 長安
  • 馬首東来
    馬のたてがみを東すなわち都へ向けていく 「来」は方角に付く助辞で調子を添える

 【まさに辺塞詩の中の辺塞詩】

 代表的辺塞詩である。もう何年も都を遠く離れて国境警備に当たる兵士の望郷の思いを作者が代弁して詠っている。場所は定かでないが、青海省の青海湖の南あたりか、もう少し黄河の上流の新彊省内の重要地点か。いずれにしても都から500キロ以上離れた砂漠地帯である。

 この詩は結句が重要。旅姿の人が馬に乗って東の都に向かって進むのが久しぶりに目についた。数日もすれば彼は長安の町中にいるはずだ。何年も故郷に帰れない兵士たちの羨ましさが手に取るようにわかる。背景が広大で無人の僻地であるので、一層兵士たちのせつなさが鮮明に表出される。

 また起句の「白草」と承句の「黄河」は「白」と「黄」という色彩を示す対語を用いている。その詩的効果も考えてみるのもよい。

【漢詩の小知識】

 辺塞詩とは

 中国北方の国境地帯での戦争を主題とする詩。具体的には当地での兵士たちの苦しみや悲しみを詠ったものや、故郷に残された家族(特に妻)への思い、あるいは家族からの情を詠んだものも含む。

 辺塞詩人としては王翰、王之渙、王昌齢、高適、岑参らの名があげられる。盛唐時代特有の詩体です。 

この詩は唐詩を集めた詩集「三体詩」には起句が「百華原頭」、結句の「東来」が「西来」となっていて、作者も唐の李頎(りき)の作で題名も「旅望」とある。本会は「唐詩選」の表記を採用した。またこの詩は楽府題であります。

 「三体詩」について   6巻ある。南宋の周弼(しゅうひつ)が唐代の詩人167人の近体詩を七言絶句・七言律詩・五言律詩の三体に分けて編集したもの。中国では「唐詩選」より評価が高いといわれる。なお「唐詩選」「三体詩」「唐詩三百首」が唐詩を学ぶ三大書物でありますよ。

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クレーマーと言う輩。

2023-03-01 20:45:14 | 日記

 嘗て「サンデーモーニング」に出ていた、張本 勲氏が、コメントを述べるとちょっと言葉が強いと、さっそくクレーマー達がワイワイと取り付く。結果降板となった訳ですが、針外し、見たとこプロとしての厳しい見方は妥当だし、成程と、別に気になることは無かった。

大体、クレーマーは大した頭脳もないし、人生経験も微々たるものなのに、喚きたてるのだけは一丁前なんだね。クレーマーというにんげんは、自分のちっぽけな範疇に合わないとすぐクレームを付け騒ぎ立てる。だから、端から見るとその程度の低さを露見していて、そのみっともなさが恥ずかしい限りだ、

① 人間と言う動物は「考える」時に自分中心に考える。(主観だけで物事を考察している)で、自分の考えが正しいとさえ思っている。

② 次の段階では、色々書物等を読んで、経験も積みますが、意見が確立出来ていないので、「あっちへフラフラ」「こっちへフラフラ」と意見も統一出来ていないので「何を言っているのかわからない」(人の意見をそのまま踏襲して話す人、客観なのでその時その時に考えが靡く)

③ 最後は人はいろいろな人の意見を聞き、自分も沢山経験を積んで、それをシャッフルし、噛みしめて、自分の意見を確立してから所見を述べるもんだ。ここまでくると聞いていて納得するし、賛同もします。クレーマーたる人間は、もっと知識を積む事が大事だしそのまま育つと「箸にも棒にも引っかからない」人間になってしまいますよ。(客観の中から自分の考えを確立している)

言ってみればクレーマーは自分が気に食わなければ、批判ばかりする。世の中にはいろいろな人がいます。こういう輩は人の意見を受け入れられなければ批判ばかりする度量が狭い小さい人間だ。世の中をろくすっぽう見てもいない。

針外しが「フォロー」している「美雨さんのブログ」がありますが、馬鹿と喧嘩しても始まらない。そっと、その輪から外れて外から傍観しているに限る。嘗て、社民党?の土井たか子女子が「北朝鮮」の拉致に関して「そんな事は絶対にありえない」と絶対に意見を変えなかった。人は自分中心に考えるし意見を述べる。

土井たか子氏は北朝鮮の「拉致」を認めず、そんな事ある訳がないと意地を張っていましたが、結局、それが事実だったので、それを嘆いて多分、「鬱」状態に近い状態で他界してしまった。自分の主義、信念がボロボロと崩壊してしまったに違いない。ただ鵜呑みに「人を信じてはいけない」のだ。
いくら自分が「人間が良くても相手が良い人間とは限らないね。土井氏と北朝鮮の関係と似ているね」。

前にクレーマーに対する心構えを「コメント」しましたが、全く相手にしない。受け答えもしない。(「応対しないのは失礼にあたる」とは考えない事だ)そうすれば自然と何処かへ行って消滅してしまうだろうよ。

コメント (2)
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