針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

久しぶりで顔見れました。

2021-07-29 08:44:50 | 立科・信州の話。

  最近リス君の姿を見かけなくなったので、フクロウやカラスに取られてしまったのかと心配していましたが、早朝、餌台に乗って「ひまわりの種」食べているのを見る事が出来ました。まだ1匹だけなので、まだまだ楽観は出来ませんけどね。

子リスが3匹いたのですが、何処かの餌場で元気にしてくれているといいのですが。

       

 この日も朝、ワン達のご飯を用意していたら、大きさが子リス位のがデッキに上がってきて「御飯が無くなってるよ」とこちらの顔見ています。行くと「サッと」逃げてしまうんですけどね。少なくとも餌を用意してくれている人間だと認識いるようですけど。

       
       やはり300mm以上の望遠でないと良く撮れませんね。

そんなんで、直ぐに庭に出て、餌の補充をしてあげると餌台に上がって食べてくれました。さっきの子と同じ固体かは分かりませんけどね。ま、あまり沢山の御来客が来られると餌代が掛かってお小遣いが不足してしまいますので、いいとこ2匹くらいで収まってくれるといいのですが。

それに此処にリスが増えると、カラスや、フクロウがそれを狙いにきます。物事は程度問題です。そういえば、夜、倉〇さんの家から帰って着たら何やら尻尾に毛が生えた小さいネズミみたいのが走ってデッキの戸袋に隠れるのを見ました。此処に居を構えて初めて「ヤマネちゃん」を見る事が出来ました。

友人の市川君の処では、冬寒いので隙間から家の中に入ってきて台所の布巾の置き場で越冬している事があるそうです。因みに植木に「油粕」を撒くと、美味しいのかそれを食べてしまうのが、この「ヤマネちゃん」です。栄養があって美味しいのかね?。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 長安と西安って何処?。

2021-07-25 19:57:24 | 漢詩・古典・エトセトラ

簡単に言うと長安は西安の一部です、歴史によって長安になったり西安になったり。その時の王朝が都を設立した時にそう呼ばれたという事ですね。
 漢に始まる中国の都城で漢の武帝が築き、後漢では洛陽に都が移ったが、唐代で新たに長安が築かれ最も繁栄した。現在の西安。 中国本土の西部、渭水地方(関中)の中央に当たる現在の陝西省西安の近郊に作られた漢や唐の時代の都城です。西安の地域は、周の都、鎬京、秦の都、咸陽が築かれた地域である。秦に代わって全土を支配した劉邦は、紀元前202年に初代皇帝(高祖)となって漢王朝を創始した。

漢は始め、洛陽を都としたが、紀元前200年に関中に戻って遷都し、長安として新たに都城を建設した。都城は第二代皇帝恵帝のとき、紀元前190年に完成した。現在の西安の郊外にその遺跡を見ることが出来きます。

         

漢の都としての長安

 漢の初代高祖(劉邦)のときに都城の建設が始まったが、完成したのは第2代の恵帝のとき、前190年であった。現在は遺跡となっているが、その規模は、東壁5940m、南壁6250m、西壁4550m北壁5950mの不規則な形で、その各辺に門があり、南西部に宮殿の未央宮(びおうきゅう)の台地がある。

 高祖の未央宮に続いて、歴代の皇帝がそれぞれ宮殿を増築した。それらを囲んで高さ8m、全長26mの城壁を廻らし、城内には東西に市がもうけられ、商業地域とされた。漢の長安城は、最初に全体プランがあって計画的に造営されたものではないので、出来上がった姿は隋唐時代の長安城のような整然とした碁盤目状の街路はなかった。

 前漢末の記録では、長安の人口は戸数で8万8百、口数で24万6200とあるが、一戸平均が5~6人とすれば、実際の人口は40万、さらに王侯貴族や兵士を加えれば50万ぐらいになったと思われる。後漢では都は洛陽に移りました。

魏晋南北朝時代の長安

 後漢は都を東方の洛陽にうつしたが、五胡十六国時代には氐が建国した秦の都とされ、鳩摩羅什らが活動して仏教が盛んになった。その後、北朝の西魏・北周の都となった後、中国を統一した隋の文帝はこの近くに、大興城を建設し、さらに唐の都長安として継承され、現在の西安につながる

唐の都としての長安

 唐は隋の大興城を継承し、さらに大規模にして完成させた。唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、碁盤目状の道路で東西南北に区画されていた。外側は城壁で囲まれ、城門は日暮れから夜明けまでは閉じられている規則であった。

              

          

 宮城周辺の三省六部の官庁街の他に、東西に市があり、商人が住み、営業していた。盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系のソクド人など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として繁栄した。長安城内には、多数の仏教寺院(日本の円仁などが学んだ大興善寺、則天武后が建立した大薦福寺、玄奘のいた慈恩寺(大慈恩寺)などが有名。それぞれ、雁塔という多層の塔をもつ)や、道教の寺院である道観があった。


          
            隋・唐の街は碁盤目状で平城京の模範となりました。

という訳で長安は西安の一部なんて言い方が出来ます。しかし中国設立した毛沢東、江青という大バカ者が歴史的に重要な史跡、建物、書物等を「文化大革命」なんて称して皆、破壊してしまった。
よく「烏合の衆」っていますが後先考えずに大事な物を無くしてしまいました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

19日~山に行きます。

2021-07-18 06:58:02 | 立科・信州の話。

今回の山での仕事は、鳥の巣箱の組み立てです。材料は既に東京で切ってありますので、組み立てですね。でもその前に、塗料を塗って浸み込ませておかないと。山には針外しがルアーの「スピナーベイトを作成した時に使った「コンプレッサー」と「ガン」が置いてありますので、それで塗料を塗ります。「刷毛」で塗るより綺麗に塗れますよ。塗料も少なくて済むし。

今回、板寸法が20cmの幅がないと、出来ないので探しましたが、その長さのが有りません。例えあってもとても高い。木材は10cmを超える度に、高価になっていきます。そりゃそうですよね。20cmを超える一枚板を取るのに結構大きいきから成形していくのに、材料が少ない為です。

その為、当然「合板」で作る事になります。合板の長点は「安い」反りが出にくい」ですかね。欠点と言えば「合わせ目から水が入って腐り易い」「タップビスで留めるんですが、抜けやすい」

だから、塗料を塗って浸み込ませるんです。ビスで打つ前に「木工ボンド」で貼り合わせようと思っています。


シジュウカラ、ヤマガラ、サイズです。前のは餌台ですね。巣箱の入口径は、28mmから30㎜程度です。余り大きくしてしまうと、他の強い鳥、カラスや蛇なんかが狙ってきますので、注意が必要です。

           

以前、市川君から巣箱を頂いたのだが、一寸小さかったね。一度、「シジュウカラ君」が覗いてみましたが、その後入る様子がありません。

それから。もう一つ。山にお住いの倉〇さんから「赤花の山法師」の挿し木をしたいそうなので切って発根させます。何本か根付けば成功ですね。山法師は大きくなる木ですから、そう何本も作らなくてもいいかな。
やっと梅雨が開けて猛暑が来るようになりましたから、早く根が出るかもしれませんね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追加:上官婉兒   の詩

2021-07-16 06:34:02 | 漢詩・古典・エトセトラ

 前に上官婉兒 について書きましたが、どうも慶四年のストーリーとの照合性はないね、(ってまだ分かりませんけど)。宮中で、彼女主導で詩が流行したとありましたが、相当な力量を発揮したんだろう。詩を拝見すると、言葉の豊富さ、洞察力の深さ、発想力の大きさが半端ではないね。

  遊長寧公主流杯池二十五首之十二   上官婉兒      長寧公主の流杯池に遊ぶ 二十五首之十二

         
  放曠出煙雲,
蕭條自不羣。    放曠はうくゎうすれば  煙雲えんうんだし  蕭條せうでうとして  おのづかれず  放曠出煙雲:心の趨(おもむ)くままに霞(かすみ)が立ち籠める、風は機織りの「梭(ひ)」のように                                                                                                                                                                                  (左右に動いて)、水面に波紋を織(お)る(かの如くである)
  漱流清意府,隱儿避囂氛。     流れにくちすすぐ  清意府せい い ふ,    かいかくれて  囂氛がうふんく    流れにくちすすぐ(と謂われる)仙境で、隠棲生活をし。 

  石畫妝苔色,風梭織水文。     石畫せきぐゎ  苔色たいしょくよそほひ,      風梭ふう さ  水文すゐもんる。             石の表面のいろどりは、苔(こけ)の色で装(よそお)われ水面に波紋を織(お)る(かの如くである)。

  山室何爲貴,唯餘蘭桂熏。     山室  何爲なんすれたふとき, だ  蘭桂けいらんかをりのあますあるのみ。山荘(山の空)が、どうして貴(とうと)いのかというと、ただランとカツラの木のよいにおいが余って漂                                                                                               っているいるからだ                      

                                          
   

石畫妝苔色:石の表面のいろどりは、苔(こけ)の色で装(よそお)われ。 ・石畫:石の表面のいろどり。 ・:〔さう;zhuang1○〕よそおう。見づくろう。飾る。
唯餘蘭桂熏:ただランとカツラの木のよいにおい(のする気品有る風格)が余って(漂っているいるからだ)。 ・唯餘:ただ…が余っているだけだ。 ・蘭桂:ランとカツラの木(のよいにおい)。立派な人格、人物を謂う。 ・:かおり。かおる。いいにおいがする。


しかし、当時男尊女卑の世界でこれだけの才を発揮できている女官はやはりかなりの才能の持ち主だね。宮中での女性といえば、皇帝の皇后を始めとして、側室とか食事を取り計らう女官が主だったしね。則天武后の御付きという「絶妙な位置」もありますね。それでいて、宮中の宦官、衛士達を押しのけて能力を発揮できるのは羨ましい限りだ。

日頃、当用漢字、教育漢字しか見ていない日本人ですが、漢字って言うのは数が物凄いありますね。中国人は字の作りからとかで「意味」が分かるんでしょうね。この点、我々日本人は同じ漢字を使う民族で敵わないところです。ま、しょうがないね、漢字は中国で出来た字ですからね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上官婉児

2021-07-12 06:45:09 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐の「即天武后」の時代に「上官 婉児」という女官がいました。所謂則天武后の御付きでしたが。今ケーブルTVで「慶四年」と題する映画をやっています。その中で林 婉児というお嬢さんが出てきます。それが同じ時代の「唐」で上官 婉児という人が出てきて話がごっちゃになっています。

 上官 婉児
(じょうかん えんじ、664年~710年)は、7世紀の中国、唐代の詩人。上官昭容(じょうかん しょうよう)とも呼ばれる。陝州陝県の出身。本貫は隴西郡上邽県(ろうせいぐん、じょうけいけん)。本貫とは出生地の事ね。祖父は上官儀、父は上官庭芝。本貫地は生まれた地ね。また「婉」は綺麗な子の意味です。

 麟徳元年(664年)12月の上官儀・上官庭芝の誅殺により、一族の大半を処刑された。李雲睿(リー・ユンルイ)とか林九郎の隠し子として養われたとも。彼女も婢の身分に落とされているが、頭の良さと詩文の巧みさにより、即天武后に愛され、中宗の時期、昭容正二品)の女官のポストを与えられた。中宗は「修文館」を建て、公卿の文学者20名を選び、宴や詩会を開催し、金爵を賜っている。婉児は先生格で、鬢の男子を導いている。群臣たちは競作し、添削を請い、婉児の影響で宮廷内では詩が流行したという。   
         
               上官 婉児             則天武后

 だが、その反面、則天武后の甥の武三思とも関係を持ち、中宗と韋皇后に彼のことを推薦し、取り立てるように計らってもいる。韋皇后に則天武后の故事を吹き込み、皇帝にかわって権力の座につくことを薦めた。そのため、韋皇后のクーデターが失敗に終わった際に、李隆基(後の玄宗)の目の前に引き出され、誅殺された。没後の開元年間に、『詔張説題篇』20巻が出版されている。

2013年、西安空港の建設中に見つかった上官婉児の墓の墓誌には「彼女は度々、中宗を諫めた」との記述がある。また、墓から発掘された俑からは、彼女が政務に携わる際には男装していたことがわかっています。NHKの特番、「即天武后」の中で「上官 婉児」が出ていました。 

 更に単独で埋葬されていることから「後宮の女性」としてでなく「高級官僚」として扱われていたことがうかがえる。以前則天武后の特集をやってましたが、この「上官婉児」の墓が発見された事をやってました。此処で話の照合が出来ているとは申しませんが、中国は勝手な空想で歴史や元のストーリーを改変してしまいます。今後展開を確かめなくてはなりません。


 慶四年の中では范閑(ファン・シエン)には長公主・李雲睿(リー・ユンルイ)の隠し子、林婉児(リン・ワンアル)との縁談が持ち上がっていた。李雲睿は、范閑の亡き母が残した発明品を管理する内庫の権限を持っており、皇太子との結託を疑われていた。縁談は范閑に皇室の財源である内庫を管理させるための慶帝の策。しかし慶廟で出会った娘が林婉児だと知らない范閑は、この縁談に難色を示す。後誤解が溶けて相愛の仲になります。

         
  林婉児(リン・ワンアル)事、李沁(リーチン)     范  閑(ファン・シェン)事 張若昀(チャン・ルオユン)      

主人公、范闲は幼い頃からおばあちゃんと儋州で暮らしています。この范闲、ちょっと変わり者で、現代の知識を持った状態で古代に生きている、という設定です。言うことも、価値観も、身のこなしもとっても現代風!ある日、自身を先生と呼ぶ人が現れ、彼に習い范闲は薬学を学びマスターします。

            

大きくなり武術も強くなりますが、ある時、命を狙われます。なぜこんな危険に会うのかを不思議に思い、自身の出生の秘密を知りたくなり、京の都に向かいます。儋州にいた頃よりさらに危険な目に会いながらも、賢い范闲は敵の一歩も二歩も先を読み、頭脳戦を繰り広げ、苦難を乗り越えていきます。

それとともに、徐々に彼の出生の秘密も暴かれていきます。とこんな感じで、だらだらと書きましたが、話が合わない気がするし、なまえが一緒なのでストーリーは一緒なのか分からないね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと完了しました。

2021-07-09 09:53:24 | 立科・信州の話。

山に来ると色々と雑用があります。勿論東京にいる時から、「あれやこれや」「ああしよう、こうしよう」と予定を立てる訳ですが。今回は

① 鳥の餌台を建てる。すでに作ってある家をポールに付けるだけですが。

② 木瓜の苗を植える。今回は7鉢だけ植える。

③ 入口にある「小羽団扇カエデ」に鹿除け用の網を張る。

④ 草刈りをする。

➄ 裏にある下水の「溜め」のフィルターの掃除  

①  

取り敢えず、ポールに付けてみました。柱が少し長いね。ビスを外せば簡単に調整できます。さっそく「カワラヒワ」が食事に来ました。ポールがくるくると回ってしまうので今回は黒い短めの支柱を添わせて括り付けましたこれで小屋が回転しなくなりました。

② 

 今回は木瓜の苗、「夢」×2、司牡丹×2、「白寿」×1、愛の月」×1、「丹頂紅」×1の7鉢です。今までより少し大きいので成長も早いですね。

③ 
   ここを鹿が通るようになりました。通りすがりに立ち木の皮を食べてしまうのだけは勘弁です
 
 入口にある「コハウチワ」。大分大きくなってきたんですが鹿が通りすがりに幹を齧って食べてしまうので、その防御です。いつもは黒い網をめぐらせるのですが、緑色の幅の狭い網をつけました。要は幹さえ守れればそれでいいのですわ。因みに幹が少し裂けているのは、まだ気温が零下の頃昼間、木が水を吸い上げてしまい、それが幹の中で凍結してしまい、結果膨張して裂けてしまいます。この頃は、下手に水を上げられません。

④  敷地の大半、刈り取り出来ました。これからどんどんと伸びてくるので要所要所押さえておけばOKですね。でも結構人が歩くのが効果的です。よく山も人が入らないと駄目になるっていいます。土を踏んで歩いたりする事で、落枝が折れたり、細かくなったりしていい養分が行き渡る訳ですね。これが結構、馬鹿にならないんですわ。芝生は刈り取ると、横に伸びる性格が有ります。結果、広がります。

➄ これはトイレからではなくお風呂から来る水(お湯)です。これが結構溜まっています。一冬終わったら必ず掃除します。毛髪や、カルキが固まって排水の邪魔になるので定期的な掃除が大事です。

 最後に我が家のメインの、シンボル、蓮華つつじです。少し整理したから花付きが悪いかね、それとも所謂「裏」の年かも知れません。点在する他のツツジもあまりよくありませんね。これから肥料を上げなくちゃ。(写真は前回のを見てね)ただ、油粕をやるとヤマネちゃんとか兎とかが食べてしまいます。大粒の油粕を購入したので、これをある程度細かくしてあげようと思います。

ある程度しごとが終わりました。後はその後伸びてきた雑草を刈ればOKです。庭に落ちている落枝も拾わなくちゃね。腰痛持ちの針外しですが、これが結構堪えるね。少しずつやらなくちゃ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

李賀について

2021-07-05 17:32:27 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐の皇族、李晋粛の長男として生まれる。その祖は唐の高祖李淵の叔父の大鄭孝王、李亮であるといいます。(唐の国の皇族の名前は李姓です。太宗は李世民ですね)。

太宗(たいそう)李世民は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。

                   
               李賀             唐の太宗 李世民

 その長男の淮安靖王、李寿(字は神通)、さらにその十一男の呉国公・益州大都督、李孝逸から3代あとの子孫が李晋粛であります。李賀はその出自を大いに誇り、出身地を唐帝室と同じく隴西成紀(甘粛省天水市)と称していたものの、李賀の生まれたころには中産階級に没落していた。父の李晋粛はまた杜甫の親族で、陜県令など地方官をもっぱらとする中堅官僚です。

陝県は洛陽と長安の両都を結ぶ途上に位置する要地で、帝室の血を引く者をその令に当てるのが普通でありました。母は鄭氏。他に王族に嫁いだ姉と弟(李猶?)がいたことがわかっています。

 李賀は文学的に早熟で、14歳にして数々の楽府を著して名声を得ていた。また17歳ころ、自作の詩を携えて当時文壇の指導者的存在であった雑説で有名な韓愈を訪ね、激賞とその庇護を受けた。810年、進士を目指して長安に上京し科挙に応じるが、思いもよらず受験を拒まれる。父の諱(いみな)の一字である「晋(シン)」と進士の「進(シン)」が同音であることから、諱を避けて進士になるべきではない、というのがその理由であった。
 
此処でちょっと。(「韓愈」 雑説) 
世有伯楽、然後有千里馬。世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里馬常有、伯楽不常有千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」という有名な一節がありますね。
つまり、優秀な人材は世に沢山いるのに、肝心のそれを見る目が無い人が上級官僚に居るという意味です。


 もちろんこじつけにすぎず、直ちに韓愈が『諱の弁』を表して反論を行うが通らなかった。当時、およそ知識人階級は進士となって科挙を通り、官僚政治家となることを唯一の目的とした。その道を閉ざされた李賀は、失意のうちにひとたび長安を離れて昌谷に戻るが、翌年、奉礼郎の官職を得て再び上京する。しかし科挙を経ずして与えられたこの官職の品階は従九品上、祭礼の際に席次を管轄する端職にすぎず、自負心の強い李賀には到底耐えられるはずもなく、813年春、「奉礼 官卑しく復た何の益有らん」の詩句を残し、職を辞して帰郷するに至る。ちなみにこの奉礼郎という官職も帝室の血縁者に当てるのが通例であった。その翌年、別に職を求め、友人の張徹を頼って潞州(山西省長治市)に赴くも意叶わず、昌谷に戻った翌年の817年、にわかに発した病により、母に看取られながら短い生涯を閉じた。享年27。

『李賀小伝』を著した晩唐の詩人李商隠によれば、李賀の風貌は痩せて細く、濃い眉毛は左右がつながり、爪が異様に長かったという。またおよそ円満とは程遠い性格で、しばしば他人から攻撃・排撃を受けた。科挙を阻まれたのもその性格が一因であろう。文壇の大家で、官僚としても宰相となった元槇(げんしん)と確執があったゆえ、との逸話もあるが、年代的に怪しい。没した際、李賀を恨む従兄弟の手で遺稿が便所に投棄されたため、現存作が少ないとの逸話もまたある。
 
将進酒 李賀

琉璃鍾 琥珀濃    瑠璃色のサカズキ 琥珀色が濃いお酒   

小槽酒滴眞珠紅    小さなワインの樽 赤い真珠がしたたる

烹龍炮鳳玉脂泣    龍を炊こう 鳳を包み焼こう

羅幃繍幕囲香風    うまそうな玉の脂が落ちる 絹のビョウブ 刺繍のトバリ 香ばしい風を囲む 

吹龍笛 撃鼉鼓 細腰舞  白く光る歯が歌い 細い腰の女が踊る

況是青春日將暮    今、春の日は暮れて   

桃花乱落如紅雨    桃の花が乱れ落ちる 真っ赤な雨のようだ

勧君終日酩酊醉    君を誘って今日が終わるまで一日中酔って酔って酔いを極めよう

酒不到劉伶墳上土   大酒飲みの劉伶でも墓の中では酒は飲めないのだから


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しょうがない教えちゃおう。

2021-07-02 08:41:57 | 立科・信州の話。

山では、今が山菜のピーク。道端や、庭先に平然と生えている「ウド」一杯出てきた、「コゴミ」や「行者にんにく」、裏の山ではワラビが採り放題。

この日も雨が上がったので倉〇さんとワラビを採りに行ってきた。即、灰汁抜き。ちょっと冷やして、お酒片手に頂いた。

      

色々食べ方はあると思いますが一般的には生姜醤油だね。でも、あくのつよい(苦笑)針外しははそれじゃ物足りないね。針の食べ方は、ニンニクを1欠片、擦って、味噌を小匙一杯。それを醤油で溶いて、それを付けて食べるのさ。傍目にはちょっと強そうと感じるかも知れないね。

      

一度食べてみろ!ってんだ。癖になる事請け合いだぞ。初めて食べる倉〇さんも美味しい美味しいとばくばく頂きました。針はニンニクが好きなんですな。カツオのたたきも、ニンニクと生姜を擦って醤油で溶いて食べるのが好きですね。

山に来てこれを食べると春が始まったと感じます。昔、カミさんの「馬の友達」が山に来た時に「これ丼一杯食べてしまうよ」と言ったら、「そんなわけないよ」と言ってましたが、結果、いっぱい以上食べちゃいました。山で美味しいのは「ウド」「ワラビ」「タラ」「コゴミ」かなあ。

と、まあ、針外しが内緒にしていても、こんなの「誰でも知っている」レベルですがね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする