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自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

戦国四君 孟嘗君

2024-02-13 22:18:57 | 漢詩・古典・エトセトラ

戦国四君は、孟嘗君(斉)・平原君(趙)・信陵君(魏)・春申君(楚)を指し、中国戦国時代末期に、戦国七雄の国々に現れた政治家で、それぞれの国を超えて活躍しました。

この○○君という名前の中にある「君」は何を意味するかというと、一つは王族であること、もう一つは有力な武将や宰相であることです。

孟嘗君・平原君・信陵君は王族であり、春申君は将軍であり宰相でもありました。

彼らは要するに高貴な人であったわけですが、面白いことに遊侠の親分という側面もありました。大勢の食客・つまり居候を抱え、いざという時は彼らの知恵や力を借りたのです。数千人という食客の中には柄の悪い人物もいましたが、そうした人物も含めてこれら食客は四君に対していわゆる任侠的な信義を捧げ、一方四君の方は玉石混交の何千人もの人々を己の屋敷で養うという、並みではない太っ腹・包容力がありました。

彼らの生年はみな未詳ですが、没年はそれぞれ、孟嘗君(~B.C.279?)・平原君(~B.C.251)・信陵君(~B.C.244)・春申君(~B.C.238)で、秦の始皇帝による統一(B.C.221)に先立つこと20~60年ということになります。

孟嘗君 戦国四君の中では最も有名で、いくつも話が残っています。

彼の父親は斉の王家出身で、息子が40人以上いました。孟嘗君の生母は身分が低かった上に、彼は5月5日生まれでした。斉には5月5日生まれの子供は背丈が門の扉の高さになると親をあやめるという俗信があったので、赤子のうちにあやうく命を奪われるところでした。ある日父が、母がこっそりと育てた孟嘗君の姿を目にして立腹しますが、孟嘗君は「人の命は天から授かるのですか、それとも門の扉から授かるのですか」と問いかけて父親を絶句させました。孟嘗君はやがてその賢さが周囲に知れるようになり、父親もついには彼を後継ぎにしました。

聡明で人心掌握にたけた孟嘗君の元には大勢の食客が押し寄せ、中には元泥棒とか動物の鳴きまねが特技だとかいう者までいました。

秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父)は孟嘗君の名声を聞いて関心を持ち、ある時孟嘗君が斉の使者として秦を訪れると、彼を宰相に抜擢しようとしました。王の側近が「彼は有能ですが、結局は斉の人間です。秦のためには危険でしょう」と諫めると、それもそうだと命を奪うことにします。それを察知した孟嘗君は、王の寵姫に助けを求め、寵姫が「王への贈り物の毛皮を私にもくれるなら」というので、かの泥棒に贈り物を盗ませて寵姫に渡し、彼女の助けで秦から一目散に逃げ出しました。

秦から逃げるには、函谷関を突破しなければなりません。函谷関は一番鶏が鳴かないと門を開けない決まりでした。そこで鳴きまねのうまい食客が登場して、無事秦から脱出することができました。

前に人間万事塞翁が馬と言うのをアップしましたが、先行き何処で何が起こるか分からないしこういう食客も、誰に助けられるか分かりませんね。

孟嘗君は秦から戻ると斉の宰相になります。やがて孟嘗君の存在がけむったくなった斉王は彼を排除しようとし、これを察知した孟嘗君は魏に亡命します。魏では彼を宰相とし、秦・趙・燕とともに斉を攻撃し、斉王は逃亡先で命を失いました。
斉では新しい王が立ち、再び盛り返してきましたが、孟嘗君は元々の領地・薛(せつ)に戻って中立の立場を取り、斉との関係も改善しました。

孟嘗君の時代から200年ほど後に、『史記』を書いた歴史家・司馬遷は薛を訪れ、この地の気風の荒々しさを感じ取りました。司馬遷はその理由として、かつて孟嘗君がここにおおぜいの食客を養い、その中には侠客など荒くれ者も多かったから、その影響が残っているのだろうと書いています。

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