母はふるさとの風

今は忘れられた美しい日本の言葉の響き、リズミカルな抒情詩は味わえば結構楽しい。 
ここはささやかな、ポエムの部屋です。

黄色い菜の花

2014年03月28日 | 花(春)
黄色い菜の花 池のほとり
黄色い菜の花 蜜の香り
黄色い菜の花 真昼の公園
何をか語る 十文字のちさき花の塔
過ぎ越しの春の ざわめき
光る黒土

黄色い菜の花 湧水の池の光る水面
水鳥憩う水辺 弥生のそら
黄色い菜の花 蜜の香り
黄色い菜の花 太陽の微笑
花の香に集う 虫たちの歓声

黄色い菜の花 柳のみどり
揺れて光る 春のよそ風

黄色い菜の花 
また蜜の匂い
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まぼろしの村

2014年03月26日 | ふるさと
高嶺に残雪
季節風強く吹くと校庭に埃舞いあがる
幼い草の芽
蕗の芽見える枯草の土手

少女らの声時折響く午後
小川の雪解け水は凍み陽の光は明るくまぶしく射し
真昼の校庭には陽炎がゆれる
蹴球の網の縁のむこうの雑木林はしずまりかえり
早春の通い道が白く長く延びていた

見上げると吸いこまれるような青い空を
野の鳥は泣き騒ぎ
綿雲はのんびりと流れてゆく
家々の石垣に小さなすみれ黄色いタンポポ

銀色の峰は四方に耀いて 
地上にはやさしき浅き春
山をわたる風の音のみ聞こえ人影少なくも
確かに時は刻まれ
はるかに遠ざかった思い出の
まぼろしの村は山間に今も眠っている
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猫の生態

2014年03月20日 | 
一体に猫は立派な無知なのである
自分の姿がどれほどきれいなのか
解っていないところがまた可愛いのである
猫は部屋の鏡に見入る時がある
幼猫のころはハアーッ と生意気に体膨らませ横歩きして自分を威嚇をしていたが
大人になるころには姿は
自分であると解ってはいるようなのである
彼らは何時か虚像を知り得るようになり それなりに賢いといえるのである
しかし自分の姿態その他諸処が人の心をかき乱し溶かすほどに
美しいとは知らない 
ぶちのハイエナらと比べようもないほど
造形美に溢れ過ぎることなど 少しも知らないのである
何年生きても人間のトイレを使おうという知恵もなく
毛ゲロをトイレに吐く気遣いも当然なくて
糞にしっかり砂かけしようともしないのんきさで
人には迷惑のかけっぱなしなのである
食事のあとに身づくろいをせっせとするが一言のごちそうさまもなく
空腹になるときだけにゃあにゃあと甘え声で訴えすりすり擦り寄り
人が寂しいときなんぞの時は 横目で見ては煩がる薄情者である
とにかく身勝手で
自分の欲望を満たすことだけなのである
危ないということも知らないから
高層のベランダの手すりの縁を歩いて奥の隣家にまで行き
知らぬふりで戻って猫かぶり 背中を向けて寝ていたりするのである
これを手に負えない 小悪魔 というのであるがその顔には
なんら反省や戸惑いやまして遠慮はなくて
恐怖というものもない可笑しな存在なのである
人の心臓をバクバクすることばかりして涼しい顔をしている「猫」
老齢になったことも解らす親の行方も知らず 兄弟の匂いも忘れ
猫は孤高のまま今年も新しい春の日の中で
動く絵になって存在してくれるのである
純粋で無知であさはかに美しく
しなやかで哀れないとしい猫という名の動物なのである

 *16歳までを高齢、17歳からを老齢、と猫の世界では言う。


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かすみ草

2014年03月06日 | ふるさと
かすみ草を好きだった母は
春を待たずに遠く去った
それから十年があっという間に過ぎても
きのうのように覚えている母の去った日

毎年毎年忘れずに
かすみ草の花をそなえて想いだす母
かすみ草の小さな白い花に
優しかった母の白い顔がうかぶ

どんなきれいな人も
老いると小さな花になる
薔薇や牡丹でなく
百合でもなく
野の花になりかすみ草になって消えてゆく

私たちもいつか同じかすみ草になって
母のもとにゆくのだろう
優しい母といっしょにまた
卵かけご飯を賑やかにたべるのだろう
生きとし生けるものは何度でも
魂をいただいて蘇り
同じ母のもとに戻るのだろう

季節風の吹く日かすみ草は
たまゆらのように心包んで
今朝もふわり 咲いている
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