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(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)

2015-07-30 16:06:33 | 日記
題:(増補版)169D1/3:気になった事柄を集めた年表(1744年~1745年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1745年、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、商人)が生
 まれた(1745年~1818年)
  蝦夷(えぞ)、後に、日本全国の実地測量を行い、日
 本最初の実測地図を作製した。
  1795年の隠居(50歳)の翌年に、江戸へ出て、幕府天
 文方の高橋至時(たかはしよしとき)に師事した。
  1800年に、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地の
 東南沿岸の測量を任される。
  その後、1816年まで、日本全国の測量を行なった。
  そして、この17年間の実測をもとに「大日本沿海輿地
 (よち)全図」(伊能図)を作成中、1818年4月18日に、
 没した。
  高橋至時は、天文暦学者で、大阪の定番同心(じょう
 ばん、城番ともいい、大阪城に在勤して警備した人の下
 の同心)の家職を継ぎ、1781年~1788年頃に、麻田剛立
 に天文暦学を学んだ。
  1795年に、幕府天文方に登用された。
1745年9月、徳川吉宗が引退し、子(長男)の徳川家重(い
 えしげ)が、9代将軍になった(1712年~1761年、将軍
 期間:1745年~1760年)
  生来虚弱なため吉宗が後見したが、後に、大岡忠光が
 側用人として活躍した。
  幕政は、表面的には安定した時期であった。
  父・吉宗が、紀州家から将軍家を継ぐのに伴い江戸城
 に移り、世嗣(せいし、よつぎ、跡目を相続すること)
 となり、室鳩巣らの教育を受けた。
  大岡忠光(おおおかただみつ)は、1724年に、12歳の
 家重の小姓となり、病弱で言語不明瞭な家重の意思を理
 解する唯一の側近だった。
  性格が恭謙(きょうけん、慎み深く、へりくだること)
 だったので、驕る(おごる、思い上がる)ことはなかっ
 たという。
1745年、江戸大火(六道火事)
  千駄ヶ谷出火、青山・麻布・白金・高輪・品川へ延焼。
  死者数:1323人、焼失:28678軒
1745年、世論:年貢増徴政策への反省
  農民からの年貢の増徴政策への反対が強まった。
  享保の改革は、目安箱を設置したりして、下層民の言
 葉を聞いたりして、貧民・病人の救済策を行なったり(
 小石川養生所)していたが、また、それを諸藩も行うよ
 うに指導したりしていたが、
  そして、私娼や賭け事、心中などの風紀の健全化にも
 努めていたが、また、さつまいもなど飢饉対策にも努め
 てもいたが、また、朝鮮人参などの薬草栽培の奨励、菜
 種油・桃・サクラの商品作物も奨励し、植林もして、収
 入の多面化をしたり、環境整備をしたり、新田も一生懸
 命に開発していたが、そして、治水も一生懸命したりし
 ていたが、また、孝行者や善行者を褒章したり、日本の
 測量をして絵図を作成したり、人口調査して国の実態把
 握に努めたりして、外国からの書の輸入に努め、国民教
 育に努めたりしていたが、そして、倹約をするように指
 導したり、また、農政の安定化をしたいと年貢の強化を
 した。
  この最後の政策に、庶民は不満を持った。
1745年、人事:松平乗邑(のりむら、のりさと)が、家重
 が将軍に就任すると、直後に老中を罷免され、加増され
 た1万石を没収され、蟄居(ちっきょ、家の中に閉じこ
 もって外出しないこと)を命ぜられた。
  将軍に家重以外を推挙したため。
1745年、施策:江戸市中の寺社門前地を町奉行支配下へ組
 み込まれた。
  江戸の市中の治安を、一括して町奉行が統轄するため
 だった。
1745年、事件:加賀騒動
  加賀騒動は、悪役の代表となっている大槻伝蔵が、藩
 主・前田吉徳(六代藩主)の寵を得て、
  1716年に、10俵3人扶持の下っ端(したっぱ)から近習
 に取り立てられた。
  そして、1743年には、3800石の重臣にまで栄達した。
  そこで、前田家譜代の重臣たちの反感を買って、
  藩内は、2派に分かれて対立した
  大槻一派は、家老・前田直躬と対立した。
  吉徳の側室が、大槻一派と結んで、我が子を世継にし
 ようとした・・が、
  やがて1745年に、藩主・吉徳が死しんで・・後に、権
 勢を失って没落した。
  吉徳の前代、前田綱紀(加賀藩五代藩主)の改革でか
 なり豊かであった加賀藩財政も、この騒動ですっかり崩
 れた。その後の回復はなかった。
1745年、イギリスで、ジャコバイトの反乱が起きた。
  翌年の1746年頃まで、乱れた社会は続いた。
  ジャコバイトとは、名誉革命で亡命した国王・ジェー
 ムズ2世と、その子孫を、「正統のイギリス君主だ」とし
 て支持した人々の事を言い、キリスト教カトリックであ
 った(また、保守的性向の強い層のイギリス国教会)。
  そして、アイルランドや、スコットランド地方に根強
 かった。
  ジェームス2世は、悪事も極まっていたので、名誉革命
 の時は、君主側に立つ人もなく、退位を強制されたくら
 いで、味方する者なく、やむなくフランスに亡命した。
  そのくらいの状態で、だから血も流れずに、ジェーム
 ズ2世はイギリスを逃げ出した。
  その無血をもって、無血だから名誉革命だと言うのは
 おかしい(まったく逆の不名誉な話なのに・・)。
  そしてまた、この君主の不名誉なところは、何度も、
 なんだかんだとフランスの応援を得て、恨みを張らす的
 な行動をする。
  この後に、この元君主・ジェームズ2世は、フランスの
 後押しで、イギリスの地の、北の遠い地に、借りた軍を
 上陸させて、汚名を晴らそうとする。
  この様なふがいない君主だった。
  そして、この時もまた、フランス国王のルイ14世の助
 けを、またまた借りて、イギリス国王・ウィリアム3世
 の暗殺計画を立てたり、そして、1745年まで、しばしば
 反乱も起こした。
18世紀~19世紀、オーストラリアの占有(せんゆう、自分
 の所有にすること)
  イギリス人が、オーストラリアを占有(入植)し、
  この地で、原住民のアボリジニの方々へ酷(ひど)い
 ことをする。
  何と、『絶滅するに、何ら躊躇はいらない』という方
 針だった。
  そんな方針のため、アボリジニの方々を、あたかも動
 物の狩りをする様に殺戮した。
  今、アボリジニの方々は、可哀想な事に、絶滅に瀕(
 ひん)している。
  この有色人種を軽んじ、そして、蔑視することは、キ
 リスト教の教義・教えから来ている。
  18世紀末、オーストラリアは、この頃まで、イギリス
 の囚人の捨て場となっていた。
  そして、本国のイギリスの経済的束縛を強いられてい
 た。
  オーストラリア人は、現在でも、テーブルスピーチの
 時に、「自分は1800年以降の移民の子孫だ」と、一々
 断るという。
  「囚人の子孫ではない」という事を言いたいのだ。
  本人たちも、不名誉な、非人道的な、やってはいけな
 い事だと思っている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009

1 コメント

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Unknown (二人の男の子のママより。)
2015-08-02 15:50:56
アドレス間違えてたようで、送信出来ませんでした(>_

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